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第9話:無機質な部屋の中で

 宗助は自室のパソコンを前にして大きく伸びをすると、入れっぱなしのまま放置していたコーヒーを口に含む。


 温くなってしまったそれは香りが飛んでただの苦い汁に成り下がってはいたが、平面世界に没入していた意識を覚醒させるには効果的面な気付け薬だった。


 パソコンに向かって仕事を始めると、どうしても他のことに気が回らなくなってしまう。


 ひと息入れようとインスタントコーヒーを作って手元に置いたところでいきなり仕事のスイッチが入ってしまい、気がつけば1時間以上も無心でソースコードを打ち込んでいた。


 こんな時に誰にも邪魔されず業務に没頭できるのはフリーランスのいいとことろだ。

    収入の安定という意味では会社勤めに分があるが、自分のペースで依頼された仕事を進められるこの生活が一番自分に合っている。

 何より、自分の努力次第でいくらでもキャンプの時間を捻出できるのが最大の利点だ、そう宗助は思っていた。


 苦いだけのコーヒーにも飽きたので、ベランダに出てタバコを吸う。


 喫煙者ではあるが自室にタバコの臭いが染み付くのはあまり好きではないし、タバコなんてものは屋外で新鮮な空気を吸う時の一種のスパイスみたいなものだと宗助は考えている。美味しい空気の中に少しだけ含ませた苦味のアクセントであり、そのアクセントが充満した部屋の中で更なる苦味を口に含むなんて胸焼けがしてくる。

 幸い3階建アパートの角部屋であり、隣も喫煙者のおじさんが1人で住んでいるようなので、心置きなくこの仕事合間の息抜きを満喫させてもらっている。


 ベランダから部屋に戻った宗助は、部屋の隅に畳んだ状態で置かれたテントに目をやる。


 テントを畳んでいる時は常に眠っているような状態だとるりは言っていた。日常を眠った状態で過ごしキャンプの時だけ目を覚ますというその生活スタイルは、正に自分の理想とする生き方だよな、などとぼんやり考える。

 いや、日銭を稼ぐためにこの部屋で漫然と仕事をこなし、空いた休みで自分の欲求を覚醒させている今の自分の生き方は、既にそれに近い領域に達しているのかもしれないな、などと考えたりもする。


 パソコンを操作し、キャンプ場の検索サイトを開く。


 この春先にるりは海に行きたいと言っていたが、その考えはあながち的外れとは言えない。海といえば夏、とはいうものの、夏の海は暑くて堪らない。海水浴を目的とするならば夏まで待つ必要があるが、そうでなければ気温が上がる前に行っといた方が無難だ。

 そして夏になったら暑さを避けて標高の高い山へと逃げるのが得策と言える。


 いくつか目ぼしいキャンプ場をピックアップし、地図で場所を確認しながら、移動経路や途中の観光地なんかを調べてみる。


 キャンプはそれ自体も楽しみではあるが、行程での寄り道もまた気分を盛り上げてくれる。

     道の駅やローカルなスーパーでその土地の特産食材なんかを眺めていると、予定してた料理にどうやってこの食材を組み込もうか、思い切ってもう一品料理を追加してしまおうか、などと色々考えて1人で興奮してしまう。


 鼻歌混じりで画面上の地図を動かしていると、スマホの着信音が鳴った。たてはに無理やり登録させられたSNSアプリであり、連絡先はたては以外に登録されていない。


『次のキャンプいつ?』


 案の定というか当然というか、たてはからのメッセージが入っていた。テントの絵文字が文の最後に添えられている。


『来週の水木です』


 隠す必要もないのでそう返信する。暫くすると再び着信音が鳴った。


『私も休みとったから、一緒に行っていい? またるりちゃんと話したいし』


 キャンプに同行する誘いは今までなかったので少し困惑する。面倒なような、別に構わないような、よくわからない心境で答えあぐねていると、そんな自分の心境を察したのか、たてはから追撃のメッセージが届く。


『もちろん、テントは別に立てて、お互いあまり干渉しないで自由にするつもりだけどね』


 そういう事なら、と頷く。大学のサークル以外でたてはとキャンプする事は初めてだったが、宗助が懸念する面倒な同調圧力を否定してくれた事で肯定的な気持ちに傾いた。

 むしろ、たてはに対してそんな低俗な懸念を抱いてしまったことに申し訳なさを覚えた。たてはは自分よりもキャンプという遊びを知っているし、自由こそがキャンプなのだと当然知っているはずなのだから。


『承知しました。問題ありません』


『どこのキャンプ場に行く予定?』


『〇〇か△△で検討しています』


『それなら、△△の方がいいかなと私は思うよ。行く途中にある□□って魚屋で、新鮮な海鮮がいっぱい売ってるから』


 なるほど、と宗助はその店の名前を検索して見た。店の口コミを覗くと好意的なコメントがかなりの数寄せられていた。どうやらたてはの言葉は間違いないらしい。


『じゃあ△△にしましょう』


『了解。私の方で予約入れとく?』


『すみません、お願いします』


『まかせとけ』


 その後、よくわからないクマみたいなキャラクターがGOODのポーズをしているスタンプが送られてきたため、宗助は首を傾げた。最近の若者はこういうよくわからない絵でやりとりしているとネット記事で見た事がある。


 行き先が決まったため、再びテントに目をやる。

    海が見える位置にテントを張れば、きっとるりも喜ぶだろうか。


 テントの中からしか世界を覗く事が出来ないこの少女に、哀れみの感情が芽生えている自分がいる。もし自分にキャンプがなく、この部屋の窓から外を眺めるだけの日々が漫然と続くとしたら、そんな生活に耐えられるとは到底思えない。

     新しい景色、新しい空気、新しい匂いを感じる事が、イコール生きている事なんだと宗助は考えている。


 きっとるりだって同じだ。


 自分のつまらない料理姿を熱心に眺めているるりの視線を感じた時、この少女は『新しい世界に飢えている』とそう感じた。

    それは記憶を無くしているが故の渇きに似た欲求なのかもしれない。

    でも新しい景色を求めてしまうのは自分と同じ感情、同じ感性だと、宗助は思った。


 気がつくと日が傾いていた。

 向かいのアパートの窓ガラスに西日が反射し部屋の白い壁紙を赤く染めている。


 日常の中に埋没している景色ですら、注意を払えば新しい何かを発見できる事もある。宗助は西日に染まった部屋の鮮やかな赤にため息を吐いた。


 やがて夜はゆっくりと、足音も立てずに訪れる。



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