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第8話:るりと名付けられた少女は思う

 焚き火の炎を見ていると胸が苦しくなるのは何故なのだろう。


 炎を見つめる宗助の後ろ姿に既視感を覚えるのは何故なのだろう。


 古い写真のように色褪せてしまった大切な記憶が、焚き火に照らされて透かし絵のように浮かび上がってくる。その細部は未だにぼやけてはいるものの、湧き上がる感情だけが理屈の堰を超えて溢れ出してくる。


 そんな自分に驚き、そしてその激情を隠すように穏やかな笑みを浮かべる。

     真っ黒な影ような自分の姿に表情も何もないってことは理解しているが、溢れ出る感情に栓をしなければ、いずれその激流に押し流されてしまいそうな気がしたからだ。


 空っぽの自分。

    箱の底に忘れられ色褪せてしまった写真の一枚にすら、自分の根底にある何かを見出そうと目を凝らしてしまう浅ましい自分。


 そんな自分への嫌悪と、不安を紛らわすように、るりは宗助の背中越しに見える焚き火を眺め続けた。



   △



 この門前もんぜん宗助そうすけという男は、休日の大半をキャンプに費やしていることが分かった。

    この男の愛用するテントのいわば付属品としてキャンプに同伴し、今回で4回目となるるりであったが、大体2週間に1回くらいはキャンプに赴いているようだった。


 ちなみにるりの意識はテントが張られたと同時に覚醒し、テントを畳むことで眠りにつく。眠っている間は意識は無く、キャンプの際の記憶だけが断続して積み上がっていく。そしてテントが立っている間は、眠気のようなものは一切ない。

 だから寝袋の中で寝息を立てている宗助の寝顔を見ながら、コットに腰掛けたるりは長く静かな夜を過ごしている。


 話し相手がいないと、色々な事を考えてしまう。自分は一体どんな存在なのか。単なる逝き遅れの地縛霊なのか、それとも人に害をなす何かなのか。過去の記憶が欠落しているせいで、そんな根底の部分ですらペグの抜けたタープポールの様にグラついている。


 もし成仏できていない霊の一種なのだとしたら、何か未練のようなものを成し遂げることで、この呪縛から解き放たれ成仏できるのかも知れない。でもその未練が何なのか、自分自身がわからないのだからどうしようもない。


 小さなLEDランタンの弱々しい灯りが、小さな三角形の中を照らしている。


 一つだけ覚えている風景は、テントの隙間から見る紅葉と、焚き火を見つめる男の背中。この曖昧なイメージは同じように焚き火をする宗助の後ろ姿に惹起され、気が付けば崩れたパズルの1ピースとして頭の片隅に居座っている。

    もしかしたらこれから見るであろうキャンプの光景一つひとつが、自分の無くしてしまった記憶を呼び起こす切っ掛けになり得るのかも知れない。


 何も解決したわけではない。けれど出口のない悩みの堂々巡りを続けるには、このテントでの夜は余りにも長く静かだった。ほんの小さな希望でもいい。何か前向きな形で思考を終わらせたい。


 るりはコットから立ち上がり、宗助の飲み掛けののウイスキーが入ったシェラカップを見つめる。

    じっとそれを眺めていると、口の中に舌を熱く刺激する辛味ののような感覚が生まれ、喉の奥を焼きながら胃のなかへ流れ込んでいった。


「まっず‥‥」


 るりは好奇心で飲んでしまったことを後悔する。

     面倒なことを考えるのが面倒だから、酒を呑むんすよ、と宗助は言っていた。るりも面倒な事を面倒なまま誤魔化す為に酒を飲み込んではみたが、気分が悪くなるだけで何の解決にもなりはしなかった。


 テントの床面を小さなコガネムシが歩いている。コガネムシはゆっくりゆっくりと歩みを進め、テントの端までくると生地の隙間に潜り込もうと躍起になっていた。


 自分以外に活動を続けている存在を見て、なんとも言えない不思議な安心感を覚えた。孤独感が少しだけ和らぐ。

    きっと彼は、自分が何者かなんてことに頭を悩ませることもなく、今できる事を必死にやっている。そんなコガネムシの彼が尊敬できる人生の先輩のように感じた。


 ものに触れる事ができないるりだったが、明日宗助が目を覚ましたら、コガネムシの彼を再び日の下に送り出してもらおう、とそんな事を考えた。


 徐々にテントの外が明るくなってくる。


 テントの生地を透過し、白い光が宗助の寝顔を照らしている。黒い影のるりをかき消すかのように、朝日がテントの中に充満していく。


 もし今後、成仏することがあるとしたら、こんな綺麗な白い光に包まれたまま、眠るように消えていきたいな、とるりは思う。


 夜の間テントの中を歩き回っていたコガネムシは、いつの間にかテントの隅で動かなくなっていた。

     弱っていて、寿命だったのかもしれない。

     消えてしまった小さな命に、るりはそっと手を伸ばす。


 触れる事は出来ないけれど、感謝の気持ちは伝えられたような気がした。



   △



 水道で顔を洗ってきた宗助は、バーナーでお湯を沸かし、朝一番のコーヒーを淹れる。るりのすわるコットの横にも小さな紙コップが置かれ、そこにほんの少しコーヒーを注ぐ。


「ブラックでいっすか?」


「う、うん」


 るりは頷きコーヒーを見つめる。なんとも言えない苦味が口の中に広がる。


「うわ、にっが」


 宗助はそんなるりの様子を見て、何度か頷く。


「次のキャンプでは、ミルクのポーションを買ってきます」


「うん、頼んだ」


「はあ」


 いつものように、わかったんだかわかってないんだかよくわからない返事で、宗助は会話を締める。


 初めて会った時は失礼な男だと辟易したが、こうして何度かキャンプをしてみて、この門前宗助という男が単に礼儀知らずなだけの奴ではないことに、るりは気付いていた。

 思った事は素直すぎるくらいストレートに言うし、自分のやりたいことには妥協を許さない頑固さもある。しかし不器用でも不器用なりに、るりという得体の知れない存在を受け入れ、共にキャンプを楽しめる道を模索してくれている。


 コットの上に置かれたアウトドアファッション誌の表紙を眺めながら、るりは胸の奥から沸き起こるなんだか無性に嬉しい気持ちを、苦いコーヒーで流し込んだ。

 長い夜の間に巣食っていた不安は、気付けば全て朝日に溶けていた。


「次のキャンプは、どこに行くの?」


「さあ」


「私、海の方に行ってみたいな」


「暑すぎず、寒すぎない時期だし、ちょうどいいんじゃねっすか?」


「じゃあ、相応の装いをしたいから、水着の雑誌買ってきてよ」


「ええ‥‥」


 心底嫌そうな顔をする宗助を見て、るりは大きな声で笑った。


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