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第5話:桜と満月①

 大学時代にキャンプサークルへ参加してしまったのは一時の気の迷いであり、結果として概ね失敗であったと宗助は考えていた。


 アウトドアを楽しむ他者と喜びを分かち合いたい。他者との関わりの中で凝り固まった自分の価値観に変化を与えたい。そんな期待と目的意識を持って重い腰を上げたのだが、結局はより自分の世界に閉じこもる切っ掛けとなってしまった。

 アウトドアの開放感を着火剤として、女性との関係を燃え上がらせたい男性と、男性の炎に照らされたい女性。ゴミ袋に無造作に投げ込まれる酒の缶と、酔いと焚き火の魔力によってヒートアップする下世話な会話。

 それら全てが煩わしくて、宗助はフリーサイトの外れにある炊事場横の暗がりへと逃げ込み、照明の周りを飛び交う蛾と甲虫を眺めながら、小瓶に入ったウイスキーを流し込んでいた。


 流し下の排水管の周りを、屋外性のヤマトゴキブリが一匹歩き回っている。

 煌々と照らされる照明を避けるように振る舞うその生き物に、結局は日向を闊歩することが出来ない薄汚れた自分を重ねていた。しかし「まあそういうもんだろうな」というどこか腑に落ちたような清々しさがあり、悪い気分ではなかった。

 自分の楽しみは、これから先もずっと自分一人のものなのだろう。そこに確信が持てたことで、むしろ今までの迷いが吹っ切れた様な気さえした。


「君、一人で何やってるの?」


 急に声をかけられ驚く。ヤマトゴキブリは流しの影へと隠れてしまった。


「体調悪いとか?」


 缶チューハイを片手に持った女性が、座り込む宗助の顔を覗き込んでいた。その顔には見覚えがあるような気がするから、おそらくキャンプサークルのメンバーの一人なのだろう。しかし学年も名前も思い出せない。


「体調は問題ないっす」


「じゃあ、なんでこんな所にいるの?」


 女性はそう言うと、宗助の隣に腰を下ろした。拳一つ分の隙間もないほどすぐ側に座ってきたため、宗助は腰を浮かせて30cmほど離れる。


「君、2年の門前君だっけ?」


「そっす」


「私の名前、知ってる?」


「知らないです」


 素直にそう答えると、女性はニタッと笑った。


「素直でよろしい。私は文学部3年の美守ひだもりたては、よろしく!」


「はあ」


 宗助の気のない返事を意に介する様子もなく、美守という女は手に持った缶チューハイを飲み干した。


「騒がしいのは苦手かい?」


 若干呂律が怪しくなった口調で美守は尋ねる。


「苦手というか、合わないと確信しました。もうこのサークルには参加しません」


「ははは! 本当に素直な子だねー!」


 小馬鹿にされたような気がして宗助はむっとした。炊事場の小さな照明が作り出す陰影によって、その感情を悟られることはないと思っていたが、美守という女は首を傾げると苦笑いを浮かべた。


「ごめん、気を悪くした?」


「別に」


「言葉って難しいよね。ほらプログラミングとかみたいにさ、正確な単語を組み合わせで誤解なく本心が相手に伝わるなら、きっとこの世から争いは無くなるよね」 


 美守という女は深いため息を吐いた。何か悩みがあって、それを人間関係の輪から外れた自分のような存在に愚痴りたいのだろうか。宗助はそう考えて面倒臭そうに眉根を寄せたが、彼女はそれ以上、自分の事を語ろうとしなかった。


「君は一人が好きなんだね」


「そっすね」


「一人は自由だし、誰に気を使うこともないから、目で見たことを素直に感じて、喜んだり悲しんだりできる。それがソロキャンプの醍醐味!」


「そっすね」


「でもさ」


 彼女は空を見上げた。そこには白く輝く満月輝いていた。美守たてはに言われて初めて、夜空がこんなにも晴れ渡り、星が瞬き、巨大な月が自分を見下ろしている事に気付く。足元ばかり見ていた宗助はその景色に気付けていなかった。


「うわぁ‥‥」


 宗助の口から自然と感嘆の声が漏れる。 


「綺麗な満月でしょ」


 その声を受けて|美守たてはが返す。


「うん、そっすね」


 その言葉だけ見れば、先ほどと変わらない気のない返事。しかし宗助は彼女に気付かされた満月の美しさに見惚れ、不本意ながらも本心から肯定の意を伝えていた。


「素敵な景色を見つけた時にはさ」サークルの先輩、美守たてはは満月を見つめながら語る「その感動を隣の誰かに伝えるために、考えて、考えて、最適な言葉を集めようとするよね。多分そんな衝動の一つ一つが、感動を自分の中に刻みつけてくれるって私は思うんだ。写真を撮ったり、動画を撮るよりも、ね」


 どうなのだろうか。宗助はその言葉の意味を考え、彼女に返す言葉を慎重に考え始めた。そして考えた末、結局は口に出せなかった不恰好な積み木のような言葉の塊は、5年の月日が流れた今となっても、あの夜の満月の美しさと一緒に刻みつけられている。

 美守たてはは満月を見つめながら言った。


「一人のキャンプも楽しいけど、楽しさを伝えたいと思える相手がいれば、キャンプはもっと楽しくなると思うよ」



   △



 先週の急激な気温上昇によって、平地の桜は一気に開花し、そして散ってしまった。仕事の都合で桜を見ることができなかった宗助は、山奥のキャンプ場で少し遅めの花見をしようと考えていた。花見に対して強い思い入れがあるわけではないのだが、その時その時のキャンプに何かしらのテーマを添える事によって、行動に一つの指針ができる。その感覚が宗助は好きだった。


 肉の品揃えが秀逸な近所のスーパーで適当な肉や野菜を買い揃えつつ、花見団子からの連想で三色のツミレ団子鍋的な料理を作ろうと考えていた。通常の白い鳥ツミレと、青のりを入れた青いツミレ、梅を加えた赤いツミレ。それらを串に刺して野菜と共に鍋で煮込めば、温かくて風情ある春と桜にぴったりのキャンプ飯になることだろう。となると、酒はやはり日本酒か。

 テーマが決まると、そこに紐づいて様々なアイディアが湧き上がってきて、宗助は不気味にほくそ笑んだ。


 セルフのガソリンスタンドでレギュラーを満タンに入れると、山へと続く県道にハンドルを切った。うねる山道を走ること1時間弱。途中の道の駅で休憩し、タバコを燻らせながら眼下に流れる渓流を見下ろした。岩魚の一尾程度なら泳いでいる姿を拝められるかと期待したが、川面を覆う白い飛沫が微かな木漏れ日の屈折させるので、川底の様子は全く把握できなかった。


 再び車を1時間ほど走らせると、お目当てのキャンプ場が見えてきた。サイトの各所に桜の木が植えられており、今まさに満開を迎えている。

 荷物を全て運び込む前に、まずは椅子と作業台を並べてカップラーメンを啜った。鼻を抜けるスープの芳香に混じって、桜の匂いも肺に吸い込まれていく。


 ありがたいな、と宗助は呟く。


 今日が気持ちのいい晴天である事も、思惑通りに桜が満開であった事も、桜の下のスペースが空いていてくれた事も、全ての偶然が最高のシチュエーションを作り上げてくれている。

 それがありがたい。


 一休みした後、テントを立てた。テントの中に入ると黒い影が立っている。


「あ、久しぶり! 何日ぶりくらい?」


「前にテントを立ててから‥‥2週間くらいっすね」


 その異様な存在感は、まだ慣れてはいないが初めて会った時に感じた違和感はだいぶ薄れてきている。

 まあ、居るよな。そんなテントの隅に張り付いている何かの幼虫と何ら変わらない感覚で、この黒い影を見る事が出来る。


 カメラモードにしたスマホを黒い影に向けた。


 画面の中で、幼虫が可憐な蝶へと変わる。


 パーカーとシュートパンツの上にポンチョを羽織った少女ーーるりの姿を見て、コンビニの棚に並べられたキャンプ雑誌の表紙に載ってそうだな、と宗助は思った。先日のデイキャンプで、たてはに教えてもらった格好らしい。自分の思い描いた通りの服装になれるから、今度たてはさんのお店でキャンプ用のファッション雑誌を買ってきて、とるりは言う。


 宗助は不承不承頷いた。




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