桜の蕾も膨らみ始めた3月の中旬。
日向の陽気は薄く色づいた芝生を温め、水面に滴ったミルクのような薄雲が遠くの山並みをなぞっている。
春日ヶ丘公園にやってきた宗助とたてはは、BBQスペースとなっている芝生広場の一角に椅子を置いて腰掛けた。普段なら早速焚き火を始めるのだが、今回の目的はそれではない。
たてはに促された
本当に幽霊が存在するなら‥‥と、たてはは思う。
本当に幽霊が、このテントの下に存在するのなら、それはどんな姿形をしていて、どんな目的があってこのテントに取り憑いているのだろうか。
宗助の話によれば幽霊自身がそれを覚えていないという事だったが、その発言はどこまで信用できるものなのか。
本来辿るべき道があるはずの存在が、足を止めてこの世に留まっている。そこに何かしらの意味が存在しているのは明白だろう。
悪意のある存在ではないと思いたい。
思いたいが、生者の常識が通じる存在とは限らないのだ。
「設営完了、っす」
たてはが物思いに耽っている間に宗助は設営を終えたようだった。
「あ、じゃ俺カレー作りますんで」
そう言うが早いか、折りたたみテーブルを広げて玉ねぎを刻み始める。
「了解。この中に、その幽霊とやらがいるのね‥‥」
「そっす」
固唾を呑んでテントの入り口を見つめるたては。ゆっくりと歩み寄り、締め切られているファスナーを明けた。
昼間の日差しを透過して、白いテントの中は真夏の木陰のような柔らかい光に包まれていた。何も置かれていないテントの中央には、このテントを支える一本のポールが立っている。
なんの変哲もないワンポールテント。しかしその中には明らかに自分のものとは異なる「気配」が漂っているような気がした。
「どうです、見えました?」
野菜のカットが終わったのか、背後から宗助の声が聞こえる。
「ううん、わからない」
ガサゴソと宗助がテントに入ってくる音。
「えーっと、あ、ほらそこにいるじゃないですか」
その言葉で、たてはの背筋に冷たいものが走る。
やはり居るのだ。
今確かに感じているこの異質な「気配」は、やはり気のせいなんかじゃない。宗助が指さす先はテントの端っこ。そこに目を凝らすと、確かに黒い靄が見えるような気がする。
「わかんない、わかんないよ」
認知できないことに対しての恐怖が湧き起こってくる。
声を荒げそうになるのを必死に抑え込んで、ガタガタと鳴り出しそうな奥歯を噛み締めながら、たてはは宗助が指さす先を凝視する。
「明るいから見えにくいんすかね? えっと、苔の全体像から細部に焦点を合わせるみたいに意識してくと、見えてきますよ」
恐怖と不安で混乱する自分に反し、飄々と説明を続ける宗助に対して、なんだか怒りのような感情が沸き起こる。
「何それ、わかりづらいよ」
「透過して見えるテントの布地じゃなくて、その前にある空間にピントを合わせるというか‥」
「う、うん」
たてはは一度固く目を閉じ、今までの経験からくる固定概念を振り払うように小刻みに頭を振ると、再び目を開けて空間を凝視しする。
黒い影が動いた気がした。見える、今までよりはっきりと、その何かが‥‥。
「ア ノ ー ミ エ マ ス」
声が聞こえた。
「あのー、見えます?」
黒い影が立ち上がりこちらを見ている。
「見え、ます」
「あ、聞こえてるみたいですね。こんにちは」
「こ、こんにちは」
たてはは引き攣った笑顔を浮かべた。
△
宗助の調理は大詰めに入っていた。ガスコンロのタフまるに火をつけ、玉ねぎを飴色に炒める。玉ねぎと牛肉のみのシンプルなカレーである。
一方のたてはは、この非現実的な状況を徐々に受け入れつつあった。
あれから目の前にいる影に幾つかの質問を投げかけ、宗助が言っていたことは概ね事実であることの確認が取れた。
この幽霊は自分が何者なのかも、なぜこのテントに取り憑いているのかも知らない様子だった。
会話のキャッチボールを繰り返すたびに、たてはの中を支配していた恐怖は純粋な好奇心に変わりつつあった。
この幽霊は確かに悪意のある存在ではなさそうだ。しかし、理屈で説明できない部分も多く、この存在をまるっと信じてしまうのも恐ろしいような気がする。
「このテントの持ち主、宗助って言うんですね。ほんとひどいんですよ、初対面で『出てってもらえませんか』とか言って。先にここにいたのは私じゃないですか? 新参者が偉そうに、ってこっちとしては思うわけですよ」
「あ、うん、そーね‥‥」
「あーよかった。やっと話が通じるまともな人と会話ができてホッとしました。て言うか、幽霊にまともじゃないと思われてる時点で、なかなかヤバいですよね、あはは」
そう上機嫌に笑う幽霊に対して、たてははすっかり反応に窮していた。
会話の内容だけで判断するなら、至ってまともな人間のようだ。宗助のまともじゃない所に言及している所を見るに、非常に真っ当な価値観を有しているのだろう。
しかしいかんせん、目の前にいるのは目も鼻も口もない人のシルエットをした薄暗い影である。耳から入る情報と、目から入ってくる情報が、常識というフレームの中でうまく組み合わされず、その違和感がたてはを混乱させていた。
そこでふと閃いた。
幽霊と言われる存在は、目視で視認できない場合も写真などにははっきりと映り込む事がある。いわゆる心霊写真や心霊画像とやらだ。
つまり幽霊とそれを見る人の目の間に何かしらのクッションを介せば、見え方が違ってくるのかもしれない。
ものは試しと、たてはは黒い影にスマホを向けた。ボタンを操作し、カメラモードに切り替える。スマホのレンズを通したこの影は、どの様な姿に変わるのだろうかーー
「あぎゃ!」
予期せぬ姿がスマホ画面に映り込んだ事で、たては子供に踏み付けられたガマガエルのような声を発する。
スマホの画面には、一糸纏わぬ少女の姿が映っていた。
「ええええ?」
たてはは混乱する。
裸の少女がテントの端にしゃがみ込んでいるのだ、混乱するなと言う方が難しい。
歳のころは10代後半くらいだろうか。長い黒髪で、肌は透き通るように白い。目鼻立ちも整っていて美少女と形容して申し分ない容姿である。
その裸の少女は狼狽するたてはの様子を見て首を傾げている。
「どうしました?」
少女に立ち上がりたてはに歩み寄る。色々とプライベートな部分が露わになっている。
「いや、あの、服を着なさい! 服を!」
「服?」
「ほら服! これ! 服!」
たてはが動揺しながらも自分の着ている服を指さす。少女は合点がいったようでハイハイと頷いた。途端にその裸体がたてはと同じ服に覆われた。
「私、裸だったんですね。自分で自分が見えないから、わからなかった」
「びっくりしたよ、もう」
「すみません」
恐怖からくる緊張と、会話を通じて生じた空気の緩和。そして突然目に飛び込んできた裸の少女。
常軌を逸した現象によって伸縮し揺り動かされたたてはの心は、もはや伸び切ったゴムのように弛緩していた。
自然と笑いが溢れてくる。肯定と諦めが同居する感情だった。
目の前に存在する少女の幽霊が、ごくありふれた存在で、なんの疑いもないものであり、むしろとても愛しいものであるかのように感じてきて、そんな自分の心境の変化が可笑しかった。
スマホの画面に映り込む少女は、そんなたてはを見てはにかむよに笑った。
その顔を見て、たてはは素直に可愛いと感じた。
「あの、うるさいんすけど」
開けっぱなしにしていたテントの入り口から宗助が顔を出す。
「カレー出来ましたよ」
「カレーはいいから、ちょっとこれ見てよ」
念のためスマホの画面に映る少女が裸でない事を確認すると、たてはは宗助にスマホの画面を向ける。無言で画面を見た宗助の目が見開き、そしてその口許が緩むのをたてはは見逃さなかった。
「幽霊さん、正体はこんな女の子だったらしいよ」
「スマホの画面を通して見ると正体が見えるんすね。へぇ、気が付かなかった」
「すっごい可愛い子だね」
「まぁ、うん、そっすね」
宗助の顔が赤くなった様な気がして、たては嬉しくなる。それは何を考えているのかいまいち掴めないこの後輩が、初めてごくありふれた「男の子」の表情を見せたからだった。
△
テントの中にテーブルと椅子を運び、宗助の作ったカレーを食べる。
変なやつではあるのだが、やはり料理の腕は一級品だな、とたてはは改めて実感する。
ターメリック、クミン、コリアンダーなどなど、さまざまなスパイスを適当に目分量で混合しているらしいのだが、ちゃんと調和の取れた味に仕上がっているのが不思議だ。
たてはもキャンプで色々な料理を作るが、どちらかというと出来るだけシンプルな調理法で作る事を心掛けている。コスパの良い料理を作るためなら、時にはレトルト食品を活用することさえ厭わない。
幽霊ちゃんの前にもカレーとナンが置かれていて、黒い影がそれをじっと見ている。
「食べ物、食べれるの?」
たてはが尋ねる。
「お腹は空かないんですけど、こうしてじっと見つめていると、口の中に味が広がるんです」
幽霊ちゃんはそう答える。
「お墓のお供物も、ご先祖はちゃんと味わっているのかもしれないっすね。下手なもの供えられない」
カレーを頬張りながら宗助が言う。
スマホを起動し幽霊ちゃんを映すと、このカレーの様にとろけるような笑みを浮かべていた。
「そうだ、名前付けようよ」
ふとそんな事を思いついた。たてはが提案すると、黒い影はたてはの方に身を乗り出す。
「名前?」
「うん。幽霊ちゃん、じゃ味気ないし、なんか呼びづらいでしょ」
「別に、どーでも良いんじゃないすか?」
あまり興味がなさそうな宗助。しかし何処となく、興味がないのを装っている様にも見える。
「どうでも良くない! 私、名前つけて欲しい!」
「そーだねー」
腕を組んで、たてはは考える素振りを見せる。しかし心の中では既に決まっていた。子供の頃にお人形につけていた名前。自分にもし妹がいたとしたら、つけたかった名前だ。
「るりちゃん、なんてどう?」
「わーかわいい! ありがとう」
たてはがつけた「るり」と言う名前が気に入ったようで、黒い影ーーるりは感謝の言葉を連呼した。幼い自分の幼稚な願望が張り付いた名前を提案する事に少しだけ後ろめたい気持ちを感じていたたてはだったが、るりの喜ぶ様子を見て胸を撫で下ろす。
「ルリタテハ‥‥蝶の名前っすね」
「うん、気付いた?」
木々の間を舞う、羽根に瑠璃色の線が入った綺麗な蝶の名だった。
子供の頃に両親に連れられて昆虫採集に行った時、雑木林を飛ぶ蝶の姿に目を奪われる。家に帰って図鑑で調べると、自分と同じ「たては」という種類の蝶である事がわかった。
るりたては――その名前に含まれるもう一つの単語「るり」を、たては自分の片割れのように感じていたのだった。
そしてたてははこうも思う。
ルリタテハは羽を広げると綺麗な蝶だ。しかし羽を閉じれば、樹皮に紛れる様な暗い茶色の蝶に変わる。
この「るり」と名付けた少女の幽霊もまた、美しい容姿の裏に薄暗い何かが隠れているのかもしれない。
思い出せない過去や、このテントに取り憑いている理由。それらの不透明な疑問符から、おそらく目を背けるべきでは無い。
テントの外は春の陽気が降り注いでいる。その日の光に一瞬だけ薄雲がかかった事に、多分たてはだけが気付いていた。