決して人好きする容姿ではないし、人に慕われる性格でもない。あまり他人に興味がないから、他人に興味を持たれることもない。そんな自分の事が嫌いでも好きでもないから、改善しようという気も起こらない。
取り敢えず面倒事から遠ざかるように生活をしていたら、気が付けばこんな人間になっていた。
キャンプを始めたのもそういう日常からの逃避がきっかけだった。
子供の頃は渓流釣りが趣味だった父親に連れられ、たびたび山奥の川辺でキャンプをしていた記憶がある。
玉砂利の上に貼ったテントの横で、川辺で拾ってきた石を並べて即席の焚火台を作り、その日釣った魚と道すがら買ってきた肉を焼いて食べる。
日が落ちれば渓流の激しい水音と、虫の鳴き声と、謎の生き物の遠吠えしか聞こえない。夜空を見上げれば星が視界を埋め尽くし、ぐるぐると回りながら落ちてくるような錯覚を覚える。
コンクリートと喧騒に囲まれた小学生の日常は最も容易く消え失せ、星に包まれた自分の魂が、迷いも苦しみも無い藍色の世界へと消えていくような感覚。
それは逃避だった。大人になった宗助は、そんなふうに考えるようになった。
あの頃感じた解脱感を味わうために、宗助は今でもキャンプを続けている。
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中古のジムニーに道具を詰め込んでエンジンをかけると、眠りを妨げられた番犬のような唸り声をあげた。
お世辞にも燃費のいい車ではないが、手が掛かる子供の方が可愛く感じてしまう理論にも通じるものがあるのだろう。大事に育て上げられた老犬のように、全体的に年季は感じるが、細部を見れば磨き上げられた精悍さも併せ持っている。自分の愛車に対して宗助はそんな親バカのような感情を持っていた。
ナビを目的のキャンプ場にセットし、アクセルを踏む。
宗助は人が多く集まるようなキャンプ場は苦手なため、必然的に人里離れたマイナーなキャンプ場に行くことが多い。
ナビはちゃんとした経路を道案内する事もあれば、舗装もされていない素っ頓狂な畦道を走らせる事もあり、その割合は五分五分と言ったところだろう。
ただハズレだと思ったルートにおいても、ポツンと佇む桜の木や、田圃脇の用水路を飛ぶシオカラトンボや、土手に根を張り立派な実を実らせた柿の木なんかを目にすると、宗助は微かな胸の高鳴りを覚えるのだった。
今日もナビはよくわからないルートを案内し始めたが、柔らかな陽気に誘われて川沿いの土手に顔を出したふきのとうの群生を見れた事で、この回り道も悪くなかったと思える。
キャンプ場に着くと椅子とテーブルだけを並べ、バーナーでコーヒーを淹れて飲む。
それから周囲を散策し、気に入った場所にテントを立てて、タープを張る。いつもと変わらぬルーティーン。ひとつ変わっているとすれば、今回持参したテントは先日たてはの店で購入した中古のワンポールテントだという事。
宗助はキャンパーであるたてはの事を尊敬している。
彼女は一見するとハイテンションでコミュニケーション能力が高いいわゆる陽キャの部類ではあるが、その実アウトドアに関する造詣は極めて深く、何よりキャンプを愛していた。
大学時代に気の迷いで参加してしまったアウトドアサークルで、本心では出会いと酒にしか興味がないメンバーに辟易していたにもかかわらず、しばらく籍を置いていたのは一年先輩のたてはの存在があったからだ。
そんな彼女が大学を卒業してからもアウトドアに関連した仕事を続けている事に、宗助は心の奥底で安堵に似た感情を持っていた。
いずれはアウトドアに関する記事を執筆したいと言っていたが、それも微力ながら力になれればと考えている。
なんて事をちゃんと考えてはいるのだが、自分の人間嫌われ性分がそうさせるのか、いつも苦虫を噛み潰したような表情で会話をしてしまう。
夜が更けてきた。
買ってきた肉もあらかた食べ尽くしてしまったので、宗助はウイスキーをストレートで流し込みながら焚き火に小枝を焼べていた。
僻地の無料キャンプ場で、尚且つキャンプシーズンにはまだ少し早いため、宿泊者は自分を含め数名程度だ。皆静かに夜を楽しむタイプのキャンパーのようで、たまに生乾きの薪が放つ鋭い音以外、人の気配は感じられない。
前回のキャンプは暴風で散々だったが、今回は期待通りのキャンプを満喫できている。
実に、いい気分だった。
酒がなくなった。テント内のバッグにもう一本ウイスキーの小瓶が入っていたことを思い出し、宗助は椅子に張り付いていた腰を引き剥がすと、ふらふらとテントへ向かった。
ファスナーを開け、中央のポールに吊るしていた小型のLEDランタンのスイッチを入れる。
微かな明かりが室内を照らした。
バッグはコットの上に置いてある。
そちらに目を向ける。
そして気が付いた。
コットの上に、黒い霧のような塊が漂っていた。
最初は自分の影かと思った。
しかし影は平面に投影されるのに対し、その黒い塊はコットの上の空間を漂っている。火の粉が燃え移って生じた黒煙も疑ったが、空中に停止しているそれは煙の挙動とは明らかに異質だった。
自分の理解を超えた出来事に出会った時、人は思考を停止してしまうのだろう。この黒い塊について自身の知識と経験から納得のいく回答を得られなかった宗助は、ただ呆然とその塊を眺める事しか出来なかった。
不思議と恐怖はなかった。
自ら好き好んで日常から逃げ出そうとしているのだから、更に二、三歩先の非日常が顔を出したところで、何を恐れることがあるだろうか。想定の範囲内だろう、と自分自身に語りかける。
ならばするべきことは観察だ。
自分の日常を超越するこの存在が一体何なのか、観察し、考察しなければならない。
宗助は目を細める。
焦点を霧状の塊に向けると、ぼやけた輪郭が徐々に形をなしていくような気がした。薄明かりの中に漂う黒い霧は、次第に見覚えのある形に収束していく。
人間?
その霧はコットの上に座る人型のシルエットをしていた。宗助の背筋を冷たいものが走る。目を逸らしたくなる衝動を抑え込み、更に観察を続ける。
宗助は苔を眺めるのが好きだ。緑色の繁茂した集合体から、繊細な造形の苔単体へとピントを合わせていく時と同じような要領で、宗助はその霧の顔のあたりを凝視する。
目が、鼻が、口が、そしてその表情が読み取れるような気がした。
「女の人?」
観察の末にでた結論が宗助の口から溢れる。途端に周りの音全てが消え、自分の放った言葉だけが、尾を引いて空気を揺らしている。
『ミ エ ル ノ 』
空気を介せず、指先で直接鼓膜を震わせているような音だった。糸くずを指先でつまむように、宗助はその音に耳を澄ませた。
『私ノコトガ、見エルノ?』
二言目は人の声の形をなしていた。機械音声のような中性的な声だったが、訝しむような抑揚が感じられる。目の前にあるのは女性の形をした黒い影だというのに、人と相対しているような感覚に宗助は戸惑った。
「見え、ますが?」
「うわぁ! 声も聞こえるの!?」
その声ははっきりと宗助の鼓膜を捉えた。まるでラジオのチューニングがあったかのように、雑音混じりの音声がいきなり鮮明なものへと変わる。
「聞こえますけど、なんなんすかあなたは?」
宗助は問いかける。その問いかけに対し、その黒い影はしばらく沈黙し、こう返した。
「私は‥‥多分、幽霊? だと思う」