朱音の目の先には、すっかり見慣れた大崎の姿があった。
「今日学校見学があって。ちょっと雑用で……。先生はどうしてここにいるんですか」
目を見開いたまま、大崎は答える。
「僕、実はここの教育方針の監修をしてるんだよね」
「そう、なんですか」
大崎先生が、監修?
まさか、大崎先生が。
朱音はここから今すぐ出なければならない、そう直感し、ドアとの距離を確認する。
「そのファイルを持ってくるように言われたの?」
大崎はトーブー君ファイルを指さす。
「どのファイルかわからなくて探してたらトーブー君がいたので気になってしまって」
苦しい言い訳をすると、大崎はそうなんだ、とあっさりと受け入れる。
「夏川さんはこの学校を見てどうだった」
「設備もすごいですし、生徒のレベルも高いようですし、とにかく驚きばかりでした」
大崎はうんうんとうなずく。
「実はここの学校、教師見習いを募集してるんだよね。休学することになるけど、もちろんその間の学費は保証するし給料も出る。良い経験になると思うんだけどどうかな」
教員見習いのスカウト。魅力的ではあるが条件の良さが怪しさを醸し出す。さっきの先輩たちの“お金”というのはこの話だろうか。
もしもここで「はい」と答えれば中井たちと同じように半監禁状態で、ここで働く羽目になるだろう。だが、室戸の教えに従うならば選択肢はハイとイエスしかない。
「でも、まだ教員免許取得してないですよ」
何も知らない無知な生徒のように朱音は答えた。
「大丈夫。うち基本はタブレット学習だし、仕事もそこまでないよ。ちょっとした実験に参加してもらうぐらいだから」
「どんな実験ですか」
話がきな臭さを増してくのを感じ、朱音は大崎との距離を測る。約2メートル。しかも大崎の方がドアに近い。まともに戦えばまず勝ち目はないだろう。
「ちょっとした心理学みたいなものだよ。子どもに対してパターン別の対応をとったり、生活リズムをこちらで調整したりして及ぼす影響を調べる、ってやつ。マニュアルはちゃんとあるから」
やはり中井たちはこの実験に参加させられているということか。
「どう? 夏川さん」
ここでノーと言えばどうなるだろうか。室戸の不愛想な顔が脳裏に浮かぶ。
「子どもたちは、それでいいんですか」
「え?」
ふと、さっきの男の子の震える声が鮮明によみがえる。こんな思い、大人のエゴでさせていいのだろうか。
いや、それはおかしい。
「これは立派な研究だから。これからの子どもたちのために役立つかもしれないんだよ」
「そのために犠牲は出してもいい、そういう考えですか」
「心外だね。まあ夏川さんもいつか分かるよ」
大崎は黒い何かを握っている。
もしかして、サスペンスドラマやミステリー系アニメにたびたび登場するスタンガンではないかと朱音は少し興奮する。が、すぐに我に返る。
「その資料、持ち出し厳禁なんだよね。申し訳ないんだけど返してもらえる?」
資料を返せば証拠不十分で訴えることはできないかもしれない。それに、ここまで踏み込んでおいて何もせずに帰ってしまえば、中井たちがどうなるかは分からない。
「返してくれるよね」
「それは、できません」
朱音は、ノーを選択した。
「そっか。それなら、おうちに返すわけにはいかないよね」
大崎は徐々に距離を詰める。室戸の時よりも、殺気が満ち満ちている。無表情で大崎は迫る。
「夏川さんは賢い人だと思ってたのに。今なら回答を変えることは可能なんだけどね」
朱音はドアをじっと見つめる。無理か、ここからじゃ。
「中井君は正しい人だったよ」
やめて。先輩はそんな人じゃない。
「この国の将来がかかっているんだよ」
こんな研究の上に成り立つ未来なんて、絶対にろくなものじゃない。
今だ、今しかない。
朱音はドアに向かって走り出す。もう少し、そう思った瞬間、左腕をぐっと掴まれた。
「今ならまだ間に合う」
朱音はぐっと目を瞑る。
ジジジジと電気の音が耳元に響く。
「これは、渡せない!」