あのメモは室戸に追い返された日のことを指しているのではないか。正しいかは分からないが、ファイルを持って室戸を訪ねろ、朱音はそう言われている気がした。
ただし初めの紙の“親愛なるムッシュ・ボブへ”というのが予想通りの指示ならばこの話題は他人にすべきではない。そう考えた朱音は健気な学生を演じることにした。
コンコンとノックを二回、不機嫌そうな「どうぞ」が聞こえたのを確認し、ゆっくりとドアを開ける。
中は意外にも狭く、デスクと縦長のテーブル、革張りのソファが置かれていた。
室戸はデスクにどっしりと構え、朱音を鋭い視線で覗く。何もかも見透かされている、朱音はそんな気さえしてきた。
「何の用なの」
「出し忘れた課題があったので提出しに来ました」
朱音はファイルを室戸へ差し出す。室戸は受け取ると封のしてあった茶封筒を手で引きちぎって取り出し、目を見開いた。
「課題はよく出来てるけども、提出期限が過ぎとるよ」
室戸は静かに立ち上がり、ゆっくりと朱音の方に歩み寄る。
朱音は恐怖から動くことができない。必死に平常を保とうとするが、声が震える。
「そこを、何とか受け取ってくれませんか」
室戸は朱音と目の前まで迫る。朱音は視線を捕らえられ、蛇に睨まれた蛙のように動くことができない。
その時、室戸は朱音の方にすっと手を伸ばした。朱音は反射的に両手を顔の前でクロスして身を守り、ギュッと目を瞑る。
しかし何秒経ってもその手は朱音に触れることはなく、朱音はゆっくりと目を開いた。
室戸の手のひらには黒く光る小さな何かがあった。
室戸はそれを地面に叩きつけ、革靴で踏みつぶす。ぶちりと鈍い音を立ててそれは粉々につぶれた。
「自分がかわいいなら今すぐ出ていきなさい。こんなものつけてほっつき歩いて」
次は自分かもしれないと粉々になったそれを見て足がすくむ。
それでもここで逃げれば、何もかも無駄になる。
「出ていきません。こんなものって何ですか」
あの黒いものは一体何か。ずっとついていたのだろうか。強く言い返したものの、朱音の手は震えている。
「諦めが悪いね。あれは盗聴器だよ。と・う・ちょ・う・き」
「えっ」
背筋に汗がスーッと浮かぶ。誰が、いつから、何のために。
朱音は頭が真っ白になる。
「いつからですか」
「分からん。でも、大体想像はつく」
おびえる朱音とは対照に、室戸は落ち着きを払っている。
「室戸先生が仕込んだんじゃないんですか。狙われてるってことですか」
「なんで俺が仕組まなきゃいけないの。まあ夏川さんは目つけられてるんだろうね」
思い当たる節がないわけでもない。足音が迫ってきたり、気配を感じたりということは確かにあった。
「本当に室戸先生じゃないんですね」
「盗聴まではしないよ」
「盗聴までは?」
室戸はしまったという顔をする。どういうことだろうか。まさかあの時の気配の正体は。
「時々後をつけていたのは、もしかして室戸先生ですか」
「そうだけど危険だと思ったからやったわけで――」
「だからっていいんですか」
室戸は「はぁ」とため息をつき、あきれたように言う。
「盗聴器までつけられてるやつが何を言ってるの。もっとまずいことあったかもしれないのにあちこち嗅ぎまわって。あれだけ警告したのに、まったく」
「それは確かに甘かったです。でも、なんで尾行した人にそんな言われなきゃならないんですか」
「この研究には本当に身の危険があるのよ。あなたが思っているよりも」
室戸はファイルをトントンと叩く。一体そこには何が書かれているのだろうか。
「研究って何のことですか」
「悪いことは言わないから、一切あのサークルにはいくな。サークルのメンバーとも関わるな」
「そうやってまた隠すんですか。いなくなった人たちを心配する周りの人たちのことも考えてください」
先ほどまで落ち着いていた室戸が黙り込む。朱音は室戸の目をじっと見つめた。
「連れ戻すにはこの資料だけじゃダメ。もっと核心に迫るものじゃなきゃ無理だね」
朱音の引き下がらない態度に室戸は根負けらしい。
「それはどこで手に入るんですか」
「無計画に忍び込むことは不可能だから、わざと引っかかるしかないね。それでもやる?」
「囮でもなんでもやります。だから、協力してください」
「何でもやるって言っちゃだめよ。臓器とか目とか持ってかれちゃうかもしれないから」
「え?」
冗談とも本気とも取れない口調で恐ろしいことを口にする室戸に朱音は怯む。ただ、入学早々とんでもない所に足を踏み入れていることだけは朱音にも理解できた。
一体何に巻込まれようとしているのか教えるよう朱音は頼んだが、室戸は計画の妨げになると言い、決して教えようとしない。
「じゃあ、まずはどうすればいいんですか」
「まずはちゃんと講義に出ること。あと、サークルにも出なさい。あと、どうもあなたは積極的でないところがあるからコミュニケーションをしっかり図って、バイト探しもすること。あとは……」
「ちょっと待ってください。それじゃあ計画じゃなくてただの進路指導じゃないですか」
よほど危険な計画なのだろうと思って聞いてみれば、これでは模範生徒になるための方法である。しかも的確過ぎるアドバイスが朱音のメンタルを削り取る。
「何を言ってるの。模範的な教育学部生を演じる、これが計画よ」
全く朱音には理解ができない。これでどうやって失踪したメンバーや先輩が戻るのだろう。
「さ、もう暗いから帰れ。今日は送ってくから」
「いや、いいです。まだ室戸先生のこと信じ切ってませんから」
「ああそう。夜道には気を付けなさい。あと、一日一回は報告に来て」
「分かりました」
朱音は納得入っていないものの、一人ではどうすることもできないため室戸の計画に乗ることにした。
熱心で真面目な生徒を演じる。これで本当に先輩たちが戻るなら。