「苦手なお菓子ですか? しいて言えば、チョコが苦手っすかね……」後輩の山下くんは、少し考えてからいつものカッコいい声でそう答える。「だって、チョコを触った手で漫画を読むと、ページが汚れるじゃないですか」
「た、確かに……」
来るバレンタインデーに向けての軽いジャブのつもりだったが、的確なカウンターが私の顎にクリーンヒットしてしまった。
脳が揺さぶられ、膝から崩れ落ちそうになりながらも、私はそのボコボコで不細工な顔を山下くんに見られないように、西日が差し込む窓を見た。
こうして、私のバレンタイン作戦は、やる前から失敗に終わった。
* * *
この『漫画喫茶部』は、旧校舎隅の使われていない教室で、非公式的に活動している。一応は文芸部の一派として扱われているが、本家からは煙たがられこんな場末へと追いやられてしまったらしい。
漫画を読みながら、のんびりお茶を楽しみ、申し訳程度に書評を書いて悦に浸る、それがこの部の活動内容だ。
教室の本棚には歴代の先輩方が持ち寄った大量の漫画。教室机を四つ組み合わせたテーブルの上には、さっき入れた紅茶と、お茶受けのクッキー、そして何冊かの漫画が重ねて置かれている。
今の部員は、二年生の私と一年生の山下くんだけ。数人いた三年生の先輩達は、ちょっと前に引退してしまった。
遠くから微かに聞こえる、運動部の掛け声と金管楽器の音。そこで漫画を読み耽る、私と山下くん。夢にまで見た、二人きりの活動。
山下くんは漫画の虫だ。いつも一人で静かに漫画を読んでいる。好きなジャンルはバトルものや冒険もの、それにミステリーやホラー。でも食わず嫌いはせず、どんなジャンルでも1巻まで読んで好き嫌いを判断しているみたい。そんな漫画に対する真摯な態度も、私は好きだった。
静かな教室は、互いのページをめくる音や吐息、心臓の鼓動でさえ、聞こえるような気がする。
そんな悶々とした空間で、私は考える。
先日の質問で、山下くんがチョコ嫌いという情報を得てしまった。この後に及んでバレンタインデーにチョコなんかを渡したら、明らかに嫌がらせ目的だろう。
でも、バレンタインデーが不発に終わったとは言え、このままでは終われない理由が私にはある。
4月になったらこの『漫画喫茶部』にも新入部員が入るかもしれない。
そしたら、背が高くて、肌が綺麗で、声が魅力的で、ちょっとクールで、でも笑顔が可愛くて、真剣に漫画を読むその横顔はどんな恋愛漫画の彼氏役よりもカッコイイ、そんな山下くんの事だ。きっと大勢の若い女が群がってくるに違いない。
何かしらの方法で、私のラヴを山下くんに匂わせておかないとダメだ。そう、授業参観の時のお母さんの香水みたいに、プンプンと。
漫画を読むふりをしながら考えに考え抜いた末、私は一つの作戦を思い付く。
それは考え得る限り最も魅力的で、エモくて、素晴らしいアイディアのような気がした。
* * *
それから数日後の登校前、私は一冊の漫画をカバンに入れた。それは私が宇宙で一番愛読しているラブコメ漫画だ。
タイトル『女先輩と後輩くん』
そう、タイトルから察せられる通り、同じ部活の女先輩と後輩くんが、お互い両思いなのに気持ちが伝えられないまま、なんだかんだでイチャイチャするという、超眼福でめっちゃ尊い最高の漫画だ。
しかも漫画に出てくる後輩くん、クールで可愛くて、まさに山下くんにそっくりだった。
私は毎日のように布団の中でその物語をなぞり、愛しさに身悶えている。
これを『漫画喫茶部』にしれっと寄贈する。
するとどうなるか?
新しい漫画に目がない山下くんは、すぐにこの漫画の存在に気付きページを開くだろう。もちろん、私が寄贈したものだとも、当然気付くはずだ。
そしてページを開いたら最後、これ程の名作なのだから、否応なしに物語の世界に引き込まれる。
『先輩、この漫画、超面白いっすね!』
『私の一番のお気に入りなの』
『あれ、この漫画の後輩くんって、どことなく俺に似ているような……』
『そ、そうかな?』
『もしかして先輩、俺の事……』
完璧な計画だった。
パジャマをのズボンを脱いだ状態でクネクネと身悶えていると、お母さんがいきなりドアを開けて、遅刻するよ、と冷めた声で言った。
現実に引き戻された私は、ちゃんとスカートを履いて、スキップしながら学校へと向かった。
* * *
放課後までの妄想で、私と山下くんは都内の高級マンションで2人の子供と仲睦まじく暮らすまでに至った。
息子はママが大好きな山下くん似のイケメンで、娘はパパのことが大好き。わたしパパとけっこんする、と駄々を捏ねる娘の頭を撫でながら、山下パパは低いけどよく通る声で言う。
『パパはね、ママのものだから……ね』
妄想に勢いに突き動かされ、私は授業が終わると同時に旧校舎隅の部室に駆け込んだ。本棚の目立つところに『女先輩と後輩くん』を置いて、山下くんを待つ。
待ちながら、お母さんの部屋からくすねてきた、甘い香りのする高級な紅茶を入れ、一口飲んだ。
本のカビ臭さが充満したこの部屋が、甘い香りで満たされていく。私の吐息も、さぞ甘く桃色に色付いているに違いない。
しばらくすると山下くんがやってきた。
「先輩、お疲れす」
「お、おう、お疲れ」
視線を漫画に落とし無関心を装いながらも、横目で山下くんの挙動を観察する。
彼はいつも通り本棚に向かうと、目の前に置かれた『女先輩と後輩くん』を手に取り――
しかしページを開こうともせず、再び本棚に返した。
そして、別の漫画を手に取って、椅子に座る。
あれ……?
私は動揺した。
半開きの口から涎が垂れそうになり、慌てて啜る。
山下くんが新しい漫画に目も通さないで本棚に戻すなんて、今まで一度もなかった。
ラブコメが嫌いなのだろうか? 絵柄が少女漫画っぽいから好みじゃないのだろうか? いや、そんな事ないはずだ。山下くんはいつも漫画に対して真摯なんだ。
じゃあ、もしかしたら、女先輩と後輩くんっていう設定自体が、私達二人の関係を投影してるような気がして、受け入れられないとか?
ぐしゃぐしゃの頭のまま、両手で強く握った漫画を見つめる。
吹き出しの文字がハエの死骸みたいに見える。
やっぱり山下くんは、私のことなんて恋愛対象と思ってないのかもしれない。
だから『女先輩と後輩くん』というタイトルと、2人の恋愛を匂わすような表紙を見て、ありえないとか、理解できないとか、そんな感想を持ったのかもしれない。
いや、あの厄介者を扱うみたいな漫画への接し方は、絶対にそうだ。
やっぱり私だけが一人で盛り上がってたんだ。
山下くんは、私の事なんて全然興味ないのに。
折角入れた高級紅茶の甘い香りも、なんだか場をわきまえない下品な香水みたいに感じてきた。
なんか、勝手に涙が溢れてくる。
やだ、これって絶対めんどくさい女じゃん。そう思うのに、何故か涙は止まってくれない。溜まりに溜まったそれは、やがて紅茶の置かれたテーブルに滴り落ちてしまう。
漫画で隠しながら、右手の袖で涙を拭う。
そして再び顔を上げると、目の前に山下くんがいた。
「あの、先輩、大丈夫っすか?」
「……大丈夫に見える?」
強がって、いつもの可愛くない『女先輩』を演じてしまう。
「テストの点数、悪かったんすか?」
「私、成績はいいし」
「あの、俺でよかったら、相談にのりますよ?」
「大丈夫だもん」山下くんの優しい声に心がふやける。虚勢の裏に隠れた本音がこぼれ落ちてしまう「ていうか、ていうかさ、山下くんのせいだし」
「俺、なんかしました?」
「さっき、読まずに戻したじゃん、『女先輩と後輩くん』」
「あ、ああ」
「いつもなら軽く目を通すのにさ。キモいよね、こんな漫画」
私は立ち上がり、本棚に向かうと『女先輩と後輩くん』を片手で掴んで、無理やりカバンに押し込もうとした。
その手を、山下くんが掴む。
「ダメですよ」その声は穏やかだった。顔を上げると、山下くんと目が合う「乱暴に扱ったら、折れて皺になっちゃう。大事な漫画なんですよね?」
「そうだけど……」
私は再び俯く。
自分がめんどくさい奴だなってのは重々承知している。ああいやだ、恋ってのは人を面倒臭くさせる。こんな事になるなら、何もせず、ただ山下くんを眺めてるだけでよかったのに。
つむじのあたりで、山下くんの吐息を感じる。
それが不意に止んだ。大きく息を吸い込む音の後に、意を決したように山下くんは言った。
「俺も、その漫画好きなんです!」
頭の上から聞こえたその言葉に虚をつかれ、私は反射的に顔を上げた。白く綺麗な肌を赤く染めた山下くんが、唇をわなわなと振るわせている。
首を傾げる私に、山下くんは早口で捲し立てる。
「だから俺も好きなんですよ『女先輩と後輩くん』! 家に観賞用と保管用を合わせて10冊あるし、公式ファンブックだって持ってますし!」
「え、10冊って」
流石に多すぎる気がする。
「俺、先輩よりその漫画が大好きな自信あります。だけど、ずっと自分の中にしまってた大切なものが、こうやって部室に置かれていると、心の中が透けて見えてるような気がして、なんか恥ずかしくて。だって、この漫画の二人って……」
その先は、何故か言い淀む。
私は右手で握っていた『女先輩と後輩くん』の表紙に視線を落とした。
部室で頬杖をついた女先輩が、後輩くんを見ている。
後輩くんも部活に熱中しているようでいて、実は横目で女先輩を意識している。
何度も何度も眺めて、その度に恋の心地良いむず痒さで胸を満たしてくれた、とてもエモくてかわいくて最高の表紙だと思う。
気が付けば、山下くんも私の手の中に飾られた表紙を眺めていた。
「あの、この『女先輩』って、なんだか先輩に似てますよね」私の無言を気まずい沈黙と捉えたのか、焦った調子で山下くんが言う「普段は強がってるのに、変なところで涙もろくて。でも、そんなところが大好きで――」
言って、その声がとぎれた。
顔を上げると、山下くんは完全に固まったまま、真っ赤な顔でブルブルと震えていた。
そして私もまた、彼の言った言葉を反芻し、その意味に気付き、真っ赤な顔でブルブルと震えた。
旧校舎の隅の、古臭い教室。
遠くからは、吹奏楽部の素っ頓狂で調子外れのトランペットが聞こえてくる。
「ねえ、今度見せてよ」
「な、何をですか?」
「公式ファンブック」
「でもあれ、A4サイズで分厚いから、持ってこれないですよ」
「じゃあ、見に行きたい。山下くんち」
「は、はい」
私の気持ちは、その時に伝えよう。匂わせじゃなく、ちゃんとはっきりと。
私は、そう決心する。
また、調子外れのトランペットが鳴った。
その空気を読まない音色に、私達は顔を見合わせて笑った。