俺が入社した会社には『ブンガクさん』と呼ばれてる社員がいた。
田中(たなか)康秀(やすひで)45歳、係長。
出世レースから離脱して、ただ黙々とルーティンをこなす面白味のない中年のおっさん。背は高く、面長な輪郭のやや上側に、細長い垂れ目。いつも無口なのにたまに薄ら笑いを浮かべ、常に煙草の臭いを漂わせている。
そんなおっさんが、なぜ影でブンガクさんと揶揄されているのだろうか。2つ年上の先輩に聞いてみたところ『なんかたまに意味わかんねーブンガクっぽい事呟いてんじゃん、知らんけど』と興味なさげに返された。
よくわからなかったが、それで納得する事にした。
出世競争に敗れた敗北者のおっさんがどう揶揄されようと、俺には知ったこっちゃない。俺が目指すべき場所は、あのおっさんより遥か先にある。
俺はPCに向かい、コーヒーをもう一口飲んだ。
そう、あの頃の俺にとってブンガクさんは、この紙コップの底に取り残された、酸化しかけのコーヒーみたいな存在だった。
ある日、昼飯がてら外回りに出ようとすると、自動ドア横の喫煙スペースで煙草を蒸(ふか)すブンガクさんと鉢合わせしてしまった。
その日は昼前から雨が降り出し、正午には土砂降りになっていた。傘を持たない俺が、雨の猛襲にやむをえず立ち止まり、悪態を吐きながら鈍色の空を見上げていると、ブンガクさんも同じように空を見上げて、言った。
「『それはスコールという程強い感情を伴ったものではなく、ひっそりと忍び寄るなにかの予兆(しるし)を感じさせるような、弱く永い雨だったーー』」
「はい?」
俺は、満足気に意味不明な言葉を放つブンガクさんを見て、眉根を寄せた。
「俺が好きな作家の、初期作品の一文だよ。同じ雨でも、その表現一つで様々な感情を含ませる事が出来るんだぜ」
「いや出来ませんよ、雨はただの雨じゃないですか」
その頃の俺は、ブンガクさんの事を少なからず下に見ていた。馬鹿にしていたと言えば存外に意地悪く響くが、それに近い感情をこの哀れな中年男に対して持っていた。
だから、この尊敬できない中年の言葉を否定することに、何の躊躇もなかった。
ブンガクさんは眉ひとつ動かさず、ただぼーっと曇り空を見上げて、細く長く煙を吐いた。
生み出された紫煙は、灰色の空気の中で輪郭を失い、消えていく。
俺は舌打ちをして、雨が賑わす歩道へと飛び出した。
買ったばかりの革靴に泥水が弾いた。
* * *
俺は将来有望な新人だった。
新入社員研修では、大勢の同期の中でリーダーシップを発揮し、部署に配属されてからも、先輩社員の言う事をよく聞いて全てを吸収するよう努めた。
1ヶ月もすると、上司や先輩からの目が、右も左もわからないお荷物から、よく気が付く素直でカワイイ後輩へと変わった。しかしそれに比例するかのように、煩雑な仕事が俺のデスクへと落ちて来る様になった。
それは信頼の証だった。
しかしそれと同時に、俺をこの役割に縛りつけてくる、硬く重たい鎖でもあった。
日に日に業務が増え、残業時間は伸びていった。
最初のうちはその苦しみを、仕事を全うする事の充足感で打ち消す事が出来た。頼りにされること、組織に貢献すること、会社に居場所があることが自分にとっての理想だと思っていた。
しかし、深夜0時を超える日が増え、睡眠時間がタイピング時間に侵食されていくに連れて、俺の世界は徐々に色をなくしていった。
そこは寂寥(せきりょう)とした世界だった。
PCの画面が視界を占領し、白地に黒の数字が世界を単色で埋め尽くしていく。
資材費 1,340,000
諸経費 516,500
粗利率 15.2%
勤務 15時間45分
休憩時間 32分
残っているタスク 23件
睡眠 3時間15分
俺の全てが、数字に置き換えられていった。
それは揺るぎなく、単一的で、無慈悲な世界だった。
8杯目のコーヒーが消えた。
頭がバカになってしまったのか、大量摂取したカフェインですら、俺をこの濁った眠気から救ってはくれなかった。オフィスの中に響く話し声が、霞がかったように妙に薄く感じられる。
早く帰って眠りたかった。6時間ほどゆっくり眠れれば、きっと俺はまた頑張れる。
頑張れるはずなのに――
キーボードを打つ手が震えた。頭の中では今にも花開きそうな頭痛の蕾が、俺の活力を吸ってどんどん成長していく。
このままでは、頭が爆発してしまうのではないか。
怖い、怖い――
「おい、聞いてんのか?」
空から落ちてくる礫のように、先輩の声が脳を揺らす。
「は、はい?」
「この見積と資料、今日中に仕上げといてくれよ」
「え……これを、今から、ですか?」
「急ぎの案件なんだ。手が回らなくて」
「あの、えっと……え?」
「頼んだぞ。お前は根性があるから大丈夫、期待してるぞ」
「え? ……え?」
先輩の声が遠くなる。
消えてくれない書類の山の上に、新たな資料が積み重なる。それを呆然と眺めていると、頬を冷たいものが流れて、キーボードを濡らした。
その水滴は、俺の感情を無視して、再び勝手にキーボードを叩きはじめる。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ。
俺はもう、限界だった。
――すみません課長!
その時、誰かの声がオフィスに響いた。
その声がどこから発せられたのかも、俺にはよくわからなかった。PCが言ったのかもしれないし、給湯室の電気ケトルが叫んだのかもしれない。
――打ち合わせの予定があった事を失念しておりました! 今から出てきます!
よく喋る電気ケトルだ。
――打ち合わせって、こんな時間からか?
――先方の担当者が夜勤なもので、今から1時間後にアポ取っていました。
それと、あまりない案件なので、教育のために新人を同行させたいのですが、構いませんか?
――いや、まあ、いいけれど。
――では、そうさせて頂きます。
肩を叩かれた。
恐る恐る顔を上げると、ブンガクさんが立っていた。
「ほら、行こう」
俺は考える事も面倒になり、言われるがままブンガクさんの後を追った。
* * *
会社を出ると、急に世界が色付いた。
夜が染み込んだ街を、様々な色の光が飛び回っている。車のヘッドライト、居酒屋の看板、コンビニの窓、歩きスマホのディスプレイ。
俺は自分がどこにいるのか一瞬わからなくなる。しかし、生温かい風に頬を撫でられ、やっと自分が夜の繁華街の外れに立っている事を思い出した。
知らないうちに、季節は夏に変わろうとしていた。
日が沈み黒く染まったアスファルトが、溜め込んだ昼間の熱をだらだらと垂れ流している。ずっとエアコンの効いたオフィスに居たから、俺はそんな事にすら気付けずにいた。
「君はもう帰りなさい」
煙草に火を付けて、煙とともにブンガクさんは言う。
夜の街の華々しさに気を取られ、俺はその言葉の意味を理解できない。
「そして明日も、休んでしまえばいいさ。理由は私の方から課長に説明しとくよ。移動中に、泡吹いてぶっ倒れたとでも説明しておこう」
そこで初めて、俺はブンガクさんの言ってる意味を理解した。
「え、でも仕事が……」
「ああ、打ち合わせは嘘だよ。何か理由をつけて、君を連れ出したくてね」
「嘘……?」
俺は目の前の不真面目な先輩に、軽蔑の眼差しを向ける。しかし、あの地獄から解放された事で、肩の力が抜けた事も事実だった。
膨らんでいた頭痛の蕾は、急速に萎んでいく。
「でも、俺はまだ仕事があるんです……」
絞り出すように、建前の言葉を呟く。
「あんな仕事、そんな悲惨な顔をしてまでやるもんじゃないさ。私の方で処理しとくよ」ブンガクさんは人差し指で俺の眉間を指差す。「それよりも私は、その眉間の溝が君の頭蓋骨にまで達してしまうんじゃないかと、そっちの方が心配だ」
「はぁ」
「今の君は、それだけひどい顔をしているんだぜ?」
俺は自分の額に手を当てる。
それを見て、ブンガクさんは笑った。
「でも、帰る前にちょっと付き合ってもらおうかな」そしてイタズラっぽい笑みを浮かべる「私の、行きつけの店を紹介しよう」
表通りから外れ、路地を抜けて裏通りに至る。
肩を組んで大声で歌う酔っぱらいオヤジ達の横を通り、化粧の匂いをプンプンさせた派手な女の前を過ぎる。
薄暗い公園のベンチで暫く待たされると、コンビニ袋を下げたブンガクさんが戻ってきた。
「店って……ここですか?」
「なかなかいい雰囲気だろう?」
ブンガクさんが差し出す手には、350mlの缶ビールが握られていた。俺は戸惑い、無言でそれを受け取る。冷えたアルミ缶の表面は、生温く湿った夜の空気で濡れていた。
缶ビールを傾けて喉を鳴らしたブンガクさんは、ベンチの背もたれに寄りかかって夜空を仰ぎ見る。
「仕事で目の前の世界が萎み始めたら、私はこうやって公園のベンチで酒を飲むんだ」そして、ゆっくりと視線を巡らす。「すると再び、世界は膨らみ始めるのだ」
俺は渡された缶ビールのプルタブに指先を引っ掛け、開ける事なくその感覚を弄ぶ。
「声が聞こえるだろ。笑い声や、怒鳴り声、客引きの黄色い声、誰かの寂しそうな啜り泣き。喧騒と一言で表現される声の集合体の中にだって、沢山の感情が隠れている。その一つ一つを取り出して、眺めるんだ。色とりどりのビーズを摘んで、糸に通していくようにね」
「ふうん」
俺は耳を澄ませた。
確かに、耳に入る喧騒を分解していくと、いくつもの声が折り重なっているものだと気付く。きっと他方からすれば、このブンガクさんの言葉もまた、喧騒の一つに組み込まれているのかもしれない。
「物事は、立方体なんだぜ。景色も、仕事も、人生も」
「は?」
「一面だけじゃ語れないってことさ」
何が言いたいのか理解に苦しむ。
会話をしているようでいて、なんだか得体の知れないふわふわしたものに触れているみたいな、妙な感触を覚えた。それは柔らかくて、温かくて、薄っすらタバコの匂いがした。
「ほら、遠慮せず、飲め飲め」
ブンガクさんに促され、俺はプルタブを開けて爽やかな音を放つその液体を一気に流し込んだ。舌を素通りし、喉を撫でて、胃へと流れ込む。冷たい炭酸の刺激が、俺の中に溜まったモヤモヤの風船に穴をあけ、萎ませていく。
「うめぇ」
思わず溢れる。
「だろう?」
ブンガクさんは笑った。
俺はさっきブンガクさんがしていたように、夜空を仰ぎ見る。
それは一見、何の飾り気もないただの夜空だ。
しかし感覚を研ぎ澄ませば、ネオンに怯えてささやかに主張する砂つぶのような星や、枝豆を茹でたみたいな青臭い匂い、頬をベタつかせる生温い熱、舌の奥で広がる甘いビールの風味が――この空を、生々しく少しだけ気だるい初夏の夜空へと変えていた。
『同じ雨でも、その表現一つで様々な感情を含ませる事が出来るんだぜ』
ふと、そんなブンガクさんの言葉を思い出す。
「同じ夜空でも、なんか、色んなふうに見えるんですね」
夜空を見上げたまま俺は呟く。
「そう、それが『ブンガク』ってもんさ」
ブンガクさんの吐いたタバコの煙が、俺の見上げる空に新たな模様を与えた。
* * *
休み明けの空はあいにくの雨模様だった。
コンビニのビニール傘に当たる雨音を楽しみながら、俺は駅前の通りを抜けて会社へと向かう。信号で立ち止まると、辺りを見渡し、様々な景色を自分の中に落とし込んだ。
電線から滴る水滴、車のタイヤが蹴散らす水溜り、前の女性のさす黄色い傘、横断歩道の向こう側で歩行者信号を眺めるサラリーマン、学生、老夫婦。
彼等が織りなす日常の景色を楽しみながら、俺は会社の前へとたどり着く。
自動ドア前の喫煙スペースでは、ブンガクさんがタバコを燻(くゆ)らせていた。普段なら素通りするところ、ちょっと立ち止まってみる。
俺の存在に気付いたブンガクさんは、左手を上げる。
小さく頭を下げると、俺は傘を畳んでブンガクさんの前に立った。
「少しは休めたか?」
「はい」
俺は頷く。
「それじゃあ、適当に頑張ろうか。目の前に広がる『仕事』の景色もまた、楽しみながら」
そう言ってゆっくり自動ドアへ向かうブンガクさんを俺は呼び止める。
「あの、この前言ってた雨の小説、教えてください。俺も、読んでみたくて」
ブンガクさんは立ち止まり、振り向いて頬を掻いた。その仕草がなんだか照れ隠しのように見えた。
「未来屋(みくりや)環(たまき)って作家の、『傘なき世界で生きる僕らは』って短編だ。オススメだぜ」
自動ドアが開く。
後ろ向きで左手を振るブンガクさんが、ガラスの向こうへと消えていく。
俺はその後ろ姿を眺めてから、振り返る。
いくつもの感情が、雨の糸となって地上へと降り注いでいた。