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第21話 帝国の英雄

 ポルトの港湾施設を出た後は、ムバラム教の簡易礼拝所を案内することになった。商人や水夫たちが滞在する環境を見てもらうためだ。


 港町を歩きながらも、アスワド殿下は近衛隊員に話しかけたり、兄様と連れ立って笑いあったり、気さくに周囲の者と会話を交わしているようだった。




 道すがら何気なく目をやると路地の片隅にガリガリに痩せているのに目だけが異様にぎょろぎょろした者が座り込んでいるのが目についた。


「あれはエルス中毒者だ……」護衛についているハルク兄様がそっと耳打ちした。


 一度その存在に気づくと街のあちらこちらでエルス中毒者が目についた。路地裏、馬車の停車場の脇。街路樹の陰。以前来た時には見なかった光景だ。


 本当にエルス麻薬がわが領に広まっているんだわ……いいようのない不安が押し寄せて胸がざわざわする。



 そうして歩いているうちに、丸い屋根が特徴的な建物が見えてきた。兄様が饒舌に話しているのが耳に入る。


「商団の中には敬虔なムバラム教の信者も多いので、簡易礼拝所を用意してあります。到着するころには祈りの時間になると思いますので、必要な方はこちらで礼拝のお時間をお過ごしください」


 異国の地にこのような宗教施設があることに、アスワド殿下たちはしきりに感心しているようだった。


 本当に良い交易相手になりそうなのに、すべて演技なのかしら……




 礼拝が終わり、ムバラム料理を出す食堂へ一行が足を踏み入れると、アスワド殿下に気づいたムバラム出身の商人や水夫たちが憧れの英雄の登場にざわめいた。


 彼らは目を輝かせて上気した顔で次々に最敬礼をとった。そういう民たちに殿下は気軽に声をかけていった。


 ムバラム王族は傲慢で下の者に容赦がないと評判だったが、アスワド殿下は評判とはまったく違う人物のようだった。


 お茶の時間では主に兄様と殿下が会話を主導し、終始にこやかに雑談をして過ごした。話すのは主に小麦と鉄鋼の輸送方法についてだった。


「アスワド殿下、そろそろ別邸に移動しましょう」


 頃合いをみて兄様が視察の終わりを告げた。


「晩餐はこの地方の名産を揃えておりますので、お楽しみいただけると幸いです」

「ああ、海鮮が有名だとか?」

「ええ、香辛料のきいたカニ料理が絶品なのですが、殿下は辛い物はお好きですか」


 兄様たちは晩餐の話をしながら食堂を後にした。建物を出ると、まだ日が暮れる時間ではないのに、空は分厚い灰色の雲に覆われ、ぽつりぽつりと大粒の雨だれが落ちてきた。


 護衛たちが雨除けの外套をまとって馬を引いてくる。


 ベルファス王家の豪華な馬車に、アスワド殿下と側近、兄様と私の四名で乗り込み別邸へ移動することになった。


 馬車の窓ガラスを雨粒が流れていく。

 強い風が馬車を揺らし、一瞬ぴかっと雷光が閃いたかと思うと、どんよりと濁った雨雲の向こうからゴロゴロと重苦しい雷鳴が轟いた。



 馬車の中で兄様が申し訳なさそうに私に言った。


「リリアンナ、我々は別件で出かけなければいけないんだ。後を頼んでいいか」

「え、兄様。この天気の中を外出されるのですか?」

「いや、むしろ、この天気で助かるな」


 ――それは夜陰にまぎれられるということ?


「あの、お食事はどうされるのでしょうか?」

「我々は邸についたら執務室にこもるから簡易的な食事を頼むよ、豪華な晩餐はちょっと無理そうだな」


 視線をめぐらすとアスワド殿下も侍従も何でもない顔をしている。


 外で晩餐の話をしていたのは、別邸で過ごしているという建前が必要なのかしら——


 兄様の顔をみて、私はしっかりと頷いた。


「わかりました。お兄様のお部屋と皆様が滞在されるお部屋は明かりを入れて人の気配があるようにしておきます。何時に戻られてもお湯が使えるように、準備しておきます。邸のことはお気になさらず」そう言うと、兄が満足そうに頷いた。




 ポルトの別邸にたどり着いた頃には、雨脚が強まり、叩きつけるような雨になっていた。馬車を降りる一瞬の間に濡れねずみのようにずぶ濡れになる。


エントランスホールで兄様が言う。


「リリィ、帰りを待たなくていいから先に休んでいなさい」

「はい。兄様、どうか、くれぐれもお気をつけください」

「ああ、気をつけて行ってくるよ」



アスワド殿下に向きあうと……


「リリアンナ嬢、ポルトの美味しい料理を一緒に味わえなくて残念だ。王都に移動してから晩餐によんでもらえるか」

「もちろんです。アスワド殿下」


 私はムバラム式に胸に両手をあて膝を折ると、戦いへ向かう人の安全を祈る古語で挨拶をした。


「アライクムサーラ ムール イルファターク」


 アスワド殿下が一瞬目を見開いた。


「異国の地でその言葉を言ってくれる女性がいるとは思わなかったよ」


 そして、私の耳に顔を寄せてムバラムの古語でささやいた。

「アシュターク マライ アルアブディ」


 甘いささやき声が耳に響いて、背筋がぞくぞくした。


「え、な、えええ」


 言葉の意味がわかったとたんに、ぶわっと頬が熱くなった。意味は、おそらく、『愛しいあなたの元へ無事に戻ります』だ。


「この古語まで意味がわかるとは思った以上に勉強家だな」

 狼狽える私をみてアスワド殿下がにやにやと笑った。


 からかわれたことに気づいた私が「殿下は思っていたより意地悪ですね」と帝国語で返すと、殿下は「はははっ」と心から楽しそうに笑った。









 夜の闇の中を稲妻の短い光が何度も走り、そのたびに大地を揺るがすような雷鳴が響いた。激しく叩きつけるような雨の中、騎馬の一団がまた一組ポルトの別邸を出て行った。




 俺はハルクのポケットに忍んで、エントランスホールで出発の時を待っている。この場に残っているのは、近衛の精鋭と公爵家の私設騎士団でも精鋭と呼ばれるものだけだ。


 ハルクは俺を連れて行くことに最後まで難色を示していたが、『この体は仮の入れ物で傷ついても問題ない』という説得でついに折れた。


 実際に傷ついても問題ないかどうかは知らないがな……



 近衛隊員たちは視察の際に着用していた白い儀礼用ではなく、戦闘用の隊服を着ている。

 ハルクが俺の入ったポケットのフラップを閉めるといって譲らないので、生地に穴を開けて外を覗けるようにすることを条件に譲歩した。というわけで俺はハルクのポケットの中から外を眺めているところなのだ。


 ハルクから無理やり聞き出したところによると、麻薬の海上取引現場を押さえる計画らしい。ポルト領のエルス吸引窟を潰さずに泳がしていたのは全てこの情報を手に入れる為だったと——


 これからアスワド皇子とジョシュア小公爵は海上の取引現場へ向かい、同時に別動隊がポルト領内の吸引窟と元締めを一掃する。




 カツッと軍靴の踵を合わせる音が響き、隊員たちが一斉にホール正面の階段に向かって姿勢を正したのが見えた。



——帝国の英雄、アスワド第二皇子殿下だ



 階上に現れた皇子の印象は『黒』だった。


 黒い軍装、腰に帯びた反りの深い湾刀、飾り紐も胸の前で交差した革帯も剣帯も、彼の髪色と同じくすべて光を吸い込むような黒だった。


 漆黒のマントをバサッと後ろに払い、アスワド皇子が歩を進める。右手にモンブリー小公爵、左手にはアスワド皇子の側近を従えていた。


 俺は圧倒されていた。

 おそらく横にいる隊員たちも同じだろう。アスワド皇子には圧倒的な王者の風格があった。


 これから荒くれ者を相手にするというのに、まったく気負いを感じさせない。己の強さに対する自信と経験に裏打ちされた余裕があった。


 自然と皇子に視線が吸い寄せられる。



 階段の中央で足を止め、皇子がぐるりと隊員を見渡した。


「アスワド・ライル・ムバラムだ。これから、ポルト港に移動し、俺が連れてきた部隊と合流後、共闘してエルス麻薬の海上取引現場を押さえる。


 ポルトから出航する輸入側の船をモンブリー小公爵の部隊が押さえ、エルスを運んでくる密輸船は俺の指揮で捕らえる。

 黒幕につながる大事な情報源だ。できるだけ殺さずに捕らえろ。絶対に一人も逃がすな。わかったな!」


「「ハッ」」と隊員たちが応えると、アスワド皇子が言葉を継いだ。



 隊員ひとりひとりと目を合わせるようにして皇子は話した。


「俺はモンブリー小公爵に『所属や階級に関係なく精鋭だけを集めろ』と指示した。


 今、この場に残ったお前たちは、武勇を認められた選りすぐりの実力者ということだ。


 まわりの顔ぶれを見てみろ。どうだ。人選には納得したか。


 お前たちは選ばれたからここにいる!

 己の実力を、これまでの研鑽を誇りに思え!


王国の精鋭の顔はしかと覚えたぞ。お前たちの実力を俺にもみせてくれ。


出発だ!!」




「「「ハッ!!」」」

 腹の底から沸き立つような覇気のこもった返礼と、ガツッと軍靴の踵を力強く打ちならすと音が雷鳴のようにホールに響いた。



 隊員たちの顔はみな武を認められた誇りに輝き、目には燃えるような闘志がみなぎっていた——


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