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第17話 俺の名前は殿下じゃない

「——俺の名前は『殿下』じゃないって知っているか?」


 小さい殿下が不満顔で……拗ねてる?

 うっ、可愛いらしいわ。その顔はずるい。


「と、当然じゃないですか。エルネスト・ベルファスト王太子殿下」

「ふっ。頑なに名を呼ばないから知らないかと思ったよ」


 そっぽを向いて不機嫌そうにしている姿も可愛い。


「さすがにそんな訳はありません。名を呼ぶ許可を与えられておりませんので」


——は?

と殿下が口をぽかんと開けた。


「いやいやいや、初対面のときに言っているだろう?」

「いいえ」

「本当に? 婚約して六年もの間、俺は一度も名前で読んで欲しいと言わなかったのか?」


 信じられないという顔で殿下が食い下がるので、私も自分の記憶が間違っているのか不安になってきた。それでも、一度も言われていないと思う……


「ええ。おそらく……」


 なにぶん昔のことで、はっきりと覚えていないのだけれど……しかも私も頑なに距離を置いていたので、名前で呼ぼうなどと思ったことはなかった……


「それは……すまなかった。俺は最初から間違っていたんだな」

「いえ、この件に関して謝罪は必要ないですよ」

 これについてはお互い様だ。


「では、改めて言うよ。君には名前で呼んでほしい」


「はい。エルネスト様」

 私は『殿下』という敬称をつけずに初めて名前を口にした。声に出すと長年のわだかまりが解消されたようで胸があたたかくなった。


「様はいらない」

「えっ、それはさすがに不敬といいますか、呼びづらいといいますか……」

「ではエルと呼んでくれ」

「そ、それはもっと呼びづらいです」

「俺たちは婚約者だろう。エルだ」譲らない殿下。


 今まで不仲と噂だった私が殿下を愛称で呼んだら、周囲にどんな目でみられるだろう……


「君にはエルと呼んでほしいんだ」

 だが、こんな風に懇願されたら無下になどできない。


 意を決して「……エル」と呼んでみると、殿下が目尻を染めてはにかむように笑った。


 小さい殿下なので、ものすごく可愛い。


「はは。ちょっと照れるがいいなこれ。これからはそう呼べよ」

 なんだか、すごく嬉しそうで、胸がぽかぽかした。


「はい」 

 満足そうな殿下の可愛らしい姿を眺めてにこにこしていると……ふたたび、殿下が口を尖らせた。


「……おい、お前の名を呼ぶ許可はもらえないのか」

「殿下はいつも呼んでいるじゃないですか」

「エル……だろ」

 拗ねた姿がほんとうに可愛い。


「……エルは普段からリリアンナと呼んでますよね。お前と呼ばれるほうが断然多いですけれど」

「すまん。今度からはちゃんと名で呼ぶ。許可をくれないか」

「……エルのお好きなように呼んでください」


 殿下は顎をさわさわしながら考えていたかと思うと、小さくつぶやいた。


「——リリィ」


そしてもう一度

響きを確かめるようにはっきりと。


「リリィ」


 目の奥を覗き込むように見つめられると、ぶわっと頬に熱があがってきて、私は顔を両手で覆ってうつむいた。


「で、殿下のお気持ちがわかりました。なんといえばいいのか、ものすごく恥ずかしいです」

 胸がむずがゆくて、落ち着かない。


「エル……だろ。何度も呼んで覚えろ。いつまでも覚えなかったらお仕置きするからな」


 私はゆるんだ頬を揉みながら「善処します」と応えた。




 その夜、私たちは婚約してから初めて長い長い会話をした。殿下とふたりだけで、体面を取り繕わず話せる日がくるなんて思ってもみなかった。


 これまでの確執を思えば夢のようで、足元がふわふわして現実感がなかった。笑っているのに、気を緩めたら泣いてしまいそうだった。






   ◇◇◇



 翌朝——

 小さくなって六日目

 俺はふたたび学園の図書館にいた。


 昨日は王宮の書庫を調べたが解呪の手掛かりは見つからず、俺は次の一手に困っていた。


 今日はダミーのぬいぐるみをリリアンナに持たせて日中は図書館で過ごす予定だ。解呪のために一緒にいるといっても、ポケットで授業を聞いているだけでは意味がないはずだ。考えたいこともあるし、下の学年の授業を聞いても意味がないので、図書館で過ごすことにしたのだ。


 『殿下ひとりじゃ危ないっすよ』とダリルが付いてきた。俺は少しでも何か情報がないかと魔法が出てくる古いおとぎ話を読み、ダリルは教科書を広げて自習中だ。


 ダリルが先ほどから同じ問題でつまづいているようなので、声をかけた。


「おい、ダリル。ここで間違っているんだ。勘違いしやすいが、こっちの公式を使うんだ」

「あぁ、なるほど。こういうことっすね」

 ダリルは少し指摘をするとすぐ理解して応用できる。すぐに他の例題もすらすらと解き始めた。


「ふーん、お前はなかなか筋がいいな」

「あ、殿下! 脳筋のバシュレイ家だからって俺の頭にも筋肉がつまっていると思ってませんか」

「いや、そこまでは思っていないんだが……座学が得意だとは思わなかっただけだ」

「いや、思ってるじゃないっすか!」


 そういえば、ダリルは語学にも力を入れていると話していたな。


「強さ以外の価値を見出そうとあがいた結果なのか?」

「ちょっと殿下……思ったことを何でも口にすればいいってもんじゃないですからね! 気をつけたほうがいいっすよ。殿下に口答えできる人はいないんですから、こっそり傷ついてる人がいるかもしれないっすよ」


 どう見てもダリルが傷ついているようには見えなかったが、失言だったらしい。


「お前は口答えできるだろ。だが傷ついたのならすまなかった」

「…………」


 ダリルが無言になったので見上げると、ダリルはなぜか嬉しそうな顔をしていた。


「殿下って…………」

「なんだよ」


 こいつ、どうして嬉しそうなんだ。傷ついたんじゃないのか? 


「変なやつだな……」

 俺は再び大きなペンを持って目の前の本に向き合った。






 数学の問題集に取り組んでいたダリルがペンを動かしながら話しかけてくる。


「殿下、リリアンと仲良くなったんすね」

「ん?」

「今朝、リリアンがエルって呼んでましたよね」

「ああ」

「はは、あいつ殿下の前で意地を張るのをやめたんすね。良かったです」

「リリアンナのは意地というより自衛のための鎧のようなものだろう。俺が情けないばかりに、酷い態度をとり続けて申し訳ないことをしたよ。リリィに謝罪して許しを得たんだ」


 ダリルが一瞬目を見開いたあと、すっと笑みをおさめて珍しく真面目な顔をした。


「殿下は……すごいっすね」

「なんだ」

「さっきの俺に対してもそうですが、殿下は間違えたと気づいたときにすぐに過ちを認めて改めることができる人なのですね」

「当然のことだろう。馬鹿にしているのか」

「違いますよ。尊敬しているんです。王族って謝らないのかと思っていました」

「ああ、外交の場だったら簡単に謝るわけないはいかないだろう。でもこれは個人的な話だからな」

「もっと傲慢なのかと思ってたので、すごく……意外でした」

「おい、誰が傲慢だと? 不敬だぞ」じろりと睨みつけると「はははっ」とダリルが真っ白な歯をみせて笑った。



「……あの単純な興味なんですけど、殿下って今までリリアンのことどう思ってたんすか」


聞きづらいことをズバズバ聞いてくる男だ。だけど憎めないのは人徳なのか。


「あぁ、言い訳がましいが……母上がな……リリアンナは公爵家という威光を笠に着て、伯爵家出身の母上や俺を見下していると、何度たしなめても尊大な態度をくずさず悲しいと常々言っていたんだ」


「実際、俺との茶会でリリは常に無表情で俺とは話したくない様子だった。俺から歩み寄ろうとしても堅い態度を崩さないから……正直なところ良い印象はなかった」


ダリルが大げさに片手で目を覆ってなげいてみせた。


「あぁー、それはリリアンも悪いっすよ。そんな態度をとり続けられたら誰でも嫌になりますって」


「母上から聞いた話を盲目的に信じていた俺が悪かったんだ。それに、リリィからも謝罪を受けたよ」


「へぇー。わだかまりが無くなって良かったですね」と嬉しそうだ。


 ダリルがずばずば質問してくるので、俺も気になっていたことを聞くことにした。


「ダリル。お前こそリリィのことをどう思ってるんだ」


 ダリルがぽかんとした顔をした。


「へ?俺ですか?」

「ああ、閉じ込められた時に言ってただろう。さらって逃げてやると。娶るめとると……」


 ダリルは一瞬だけ怪訝な顔をした後、突然「ふはっ」と吹き出した。


「ははっ、ははは。なんだ。良かった。安心しました」


 ダリルは一人で納得して笑っている。

 ……なんだか腹が立つ。


「おい、何笑ってるんだよ」


「いえ、すみません。リリアンは幼い頃から知っているので家族みたいなものです。あの時のあれは、困ったことになったら助けてやるという宣言であって、恋愛感情とかはないっすよ」


 ダリルのにやけ顔にむかむかする。


「お前の兄も……相当だよな」


 リリィを抱き上げて頬にキスをする大男を思い起こした。


「ああ、兄貴はリリアンを溺愛してますからね。

 小さい頃、リリアンは兄貴が大好きで『にいちゃま大好き、にいちゃま行かないで』って兄貴の後をヒナみたいに付いてまわってたんす。

 そんななので兄貴もリリアンを本当の妹のように可愛がってるんすよ」


 俺はダリルの兄の風貌を思い浮かべた。

 リリィはあんな筋肉ゴリラみたいな騎士が好みなのか……


 にやにやとご機嫌なダリルをよそに、俺はなんとなく胸に不機嫌を抱えて、開いたままの本にもう一度向き合った。



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