殿下が小さくなってから五日目。何の進展もないまま今日も日が暮れていく。
昨日の王妃様のお茶会以降、殿下の態度がよそよそしかった。いつも私に見せていた尊大な態度はなりをひそめ口調が柔らかくなった。
今日は朝からダリルと一緒に王宮に行くという話だったが、ダリルだけでは王宮内を歩き回ることはできないはずだ。何をどうやって調べているのだろうか……ダリルに迷惑がかからないとよいのだけれど……
私は殿下とダリルのことが気になって、今日はまったく授業に集中できなかった。
◇
その日の夕刻、殿下はなぜかハルク兄様とダリルと一緒に王宮から戻ってきた。ハルク兄様に秘密を明かしたようだ。王家の秘密と言っていたが問題ないのかしら。
部屋に戻ると殿下から『夜に話したいことがある』と告げられた。
王宮で何か収穫があったのかもしれない……
夕食後、私が身支度を整えて待っていると、石鹸の香りをふわりとまとってお風呂上がりの殿下が開け放した浴室から出てきた。
あの日以降、殿下はお風呂の手伝いを拒んでいる……たしかに、あれは少しはしゃぎ過ぎたと自分でも思っているけれど……
私は殿下をそっと手のひらにのせて、テーブルの上へ移した。テーブルにはドールハウスから移動した小さな椅子を置き、ソファに座る私と向き合えるようにしてある。
殿下はトテトテと椅子に近づいたが、座らずに傍らに立った。
そして私を見上げて、ひと呼吸すると、殿下は唐突に片膝をついた——
はっと目を見開く私に、殿下は跪いたまま、
私の喉がごくりと鳴ると同時に、
殿下の声が力強く響いた。
「リリアンナ・モンブリー公爵令嬢、私の母が君にした事、君の尊厳を傷つけた言葉の数々を心から謝罪する。
私は貴方を不遇な立場に置き、守ることも庇うこともせず、何年も辛い時間を過ごさせた。婚約者にあるまじき愚かな振る舞いだった。これまでの私自身の態度について深く謝罪する」
殿下の心からの真摯な謝罪だった。
——喉の奥がぎゅっと詰まったように苦しくて、何を言えばよいかわからなかった。
何かを言おうとして口を開くが、どうしても言葉にならない……
「私の姿が元に戻ったら、母上が君に無礼な態度をとることを絶対に許さない。母上の茶会に呼ばれたら次は必ず一緒に参加する。君を理不尽な悪意から守ると誓おう。貴方が私との婚約を破棄したいと願うのも当然だ。だが、もし許されるなら愚かな私に一度だけ君に向き合う機会をもらえないだろうか」
殿下は臣下である私に跪いて頭を下げ続けた。
「殿下……」
私がなんとか喉の奥から絞り出した言葉はそれだけだった。
ゆっくりと心の中で硬く凝り固まっていた何かが解けていくのを感じた。
私は胸の前でぎゅっと両手を握り、震える声で口を開いた。
「——謝罪を、受け入れます。殿下」
殿下は顔をあげると、くしゃっと少し泣きそうな顔で目尻を下げた。
「ありがとう、リリアンナ。感謝する。このとおりだ」
仰々しく心臓の上に右手をあてて殿下は再び深々とこうべを垂れた。殿下の金色の髪がさらさらと流れた。
——ああ、殿下は悪い人ではない。己の非を認めて謝れる人なのだ。王妃様の態度は殿下のあずかり知らぬことだったのに……
「……あの、殿下。椅子に座ってくださいませんか」何故かこちらも丁寧な口調になる。
殿下は顔を上げたが動かなかった。
「話づらいので座って頂けると嬉しいです」
きっぱり言うと、今度は素直に腰を上げて人形用の椅子にちょこんと座ってくれた。
何から話せばいいのだろう——
私は視線を落として膝の上で組んだ指をもぞもぞと組み替えた。
君は——
と殿下が静かに話はじめた。
「君は私とふたりのお茶会でも……」
「殿下、いつもの調子で話してください」
こほん——殿下がかわいい咳払いをして言葉を続けた。
「リリアンナ、君は俺とのお茶会でも堅い態度を崩したことはなかっただろう。あれも母上の指示なのか?」
「指示とは、違います。ただ、お茶会にはいつも王妃様の命を受けたメイドや護衛がついていました。何を話しても揚げ足をとられて後から叱責されるので、極力会話をしないようにしていました」
「そうか——。そんな昔から母上は……」
殿下が深く傷ついたような顔をした理由が私にはわからなかった。
「そうとも知らず、君に失礼な態度ばかりとってすまなかった」
「謝罪は必要ありません。殿下は意図して私を貶めようとはしていません。私の態度が悪かったのですから、嫌われても仕方ありません」
そう、私にもわかっていたのに……
「俺は君が入学してからも二人きりになるのを避けていた。学園に入ればメイドも護衛も外れたのに……」
殿下がぎゅっと眉を寄せて肩を落とした。
「君には嫌われていると思っていたし、母上から君の話を色々と聞かされて君のことを誤解していたんだ。もっと君とふたりだけで直接話せば良かった……」
小さい殿下があまりにしょんぼりしているので、気の毒になってきた。
「殿下……、私は王妃様に対して思うところはありますが、殿下を嫌ってはいません。正直、殿下のことをあまり知らなかったですし……備品室で助けて頂いたことも、こうして真摯に謝罪して頂いたことも、予想外で……私こそ殿下を誤解していたのだと思います」
紫の瞳がまっすぐに私に向いている。
本当は殿下が悪いのではないと心の底ではわかっていた。殿下から歩み寄ろうとしてくれた時期もあったのに……
誤解され、すれ違い、傷ついて、いつしか私は諦めたのだ。
彼は悪い人ではないが、素直で人を信じやすく、王妃様を疑うことはない。与えられるものを受け入れ、みずから疑い調べることなどない。
決して私を信じてくれることはないと……諦めたのだ……
それからは頑なに意地を張っていた。
わかりあえないと勝手に決めつけて、距離をおいた。
弱みを見せないことだけを考えて、淑女の仮面で自分を守っていたつもりだったけれど、私は殿下には何をしても良いと考えていたのかしら……
私のほうこそ、ひとりよがりで傲慢だったわ……
私はすっとソファから立ち上がり、床に両ひざをつくと、両手を胸にあて祈るようなポーズで殿下に対して深く頭をさげた。
「殿下、私は殿下ご自身のことを知ろうともせずに、自分の保身のために貴方に失礼な態度を取り続けました。
殿下が歩み寄ろうと手を差し伸べてくださっても、頑なに心を開かず、何度も貴方を失望させました。
長い間至らない婚約者であったと理解しています。私のこれまでの非礼を心より謝罪いたします」
————私と殿下の間に沈黙が落ちた。
私は頭を下げたまま、これまでの自分の過ちを思い返す。私たちは出会った頃、まだ子供だった。私が傷ついたように、彼もまた婚約者の冷たい態度に幾度も傷ついたのかもしれない……
しばらくして、長年の葛藤を飲み込むようにして殿下が口を開いた。
「——謝罪を受け入れる。座ってくれリリアンナ」
ゆっくりとソファに腰を下ろし顔をあげると、殿下がまっすぐに私を見つめていた。
胸がいっぱいで、何かをこらえるような、泣きそうな顔で。
きっと、私たちは同じ顔をしている——
いま、私たちは通じ合っている————
胸がいっぱいで泣き笑いのような顔で殿下に笑みを向けると、殿下が照れたような顔をして優しく微笑んだ。
ふふっ
やっぱり小さい殿下は可愛いわ
なんだか晴れやかな気分になった私は殿下にひとつ提案をした。
「殿下。これからは、もっとお互いに話をするようにしませんか?」
「そうだな。俺も君ともっと話したい。姿が戻ったら君が周りを気にしないで話せる状況を作るよ」と約束してくれた。
「それと……ずっと気になっていたんだが……」
今まで神妙な顔をしていた殿下が、軽く眉根をよせてなぜか拗ねたような顔をした。
「俺の名前は『殿下』じゃないって知っているか?」