王妃様とのお茶会を終えて、公爵邸にたどり着いた頃にはすでに日が暮れていた。
御者が馬車の扉を開くと、灯りをともした玄関ポーチでお兄様が手を差し出して待っていた。
「おかえり、リリィ」
「お兄様!今日は早かったのですね」
「俺も今戻ってきたところだ」
手をとって馬車を降りると、ジョシュア兄様にぎゅっと抱きしめられた。このところ多忙なお兄様とは顔を合わせる機会がなかった。
久しぶりに会えて嬉しい……大好きなお兄様の背中に手をまわしてぎゅっと抱きついた。
「昨日の話は聞いたよ。大変な目にあったな」
私はふるふると頭を振る。
「ダリルがたくさん助けになってくれたわ」
「お前には苦労をかけてばかりだな。何かあったら兄様に言うんだぞ」と兄様は私の頬にキスをした。私も兄様の頬にキスを返す。
と、兄様の後ろから近衛隊の制服を着た大男が現れた。
「俺にはないのか。お姫様」
「ハルク
ハルク兄様はダリルの兄なのだが、幼い頃から親しく過ごしているので本当の兄のような存在だ。むしろ実の兄のジョシュアお兄様よりも私を甘やかしているかもしれない。
中肉中背のダリルと違って、ハルク兄様は筋骨隆々とした大男だ。兄様がいつものように私を軽々と抱えあげ、子供のように縦抱きする。
兄様の顔を見下ろす形になった私は親愛の情を込めて兄様の頬にちゅっと挨拶した。仕事を終えた兄様からは男くさい汗のにおいがした。
「ハルク兄様に会えて嬉しいわ」
「久しぶりだな。リリアン」
ハルク兄様が太陽みたいに笑った。私は強くて優しいハルク兄様が小さなころから大好きだった。
「ジョッシュ、俺はお姫様を部屋に送ってから向かうよ。いいだろ」
お兄様が頷くと、ハルク兄様は私を抱えたまま颯爽と公爵邸のなかへ入っていく。体格の良いハルク兄様に抱えられると私はまるで小さな子供になったようだった。
兄様は安定した足どりで階段をあがりながら心配そうに尋ねた。
「それで……どうして俺のお姫様はそんな顔をしているんだ? 昨日の事件のことか?」
「違うわ。それに、昨日の件はダリルのせいではないのだから、ダリルを責めないでね」
「はっ。それは無理な話だな。ダリルがうかつだったんだ。出口のない部屋に二人で同時に入るなど罠にはまりにいくようなものだ。今頃、親父に鍛えなおされているだろうさ」
「ええっ」
「ダリル自身が望んでいることだ。武のバシュレ家の男なら大事な人くらい守れなくてはな」
ダリルが望んでいるなら私からは何も言えないけれど……叔父様じきじきの特訓だなんてダリルは大丈夫かしら……
鞄を持ってついてきたメイドが私の部屋の扉を開いてくれた。ハルク兄様はためらいなく室内に入り、私をソファに降ろすと目の前に
「……王妃様の茶会で何があったんだ?」
優しい兄様にすがりついて泣いてしまいたかった。
でも、お茶会の席で投げかけられた侮辱的な言葉を兄様に知られたくない。私はじわっと浮かんだ涙を見せないよう俯いて、ふるふると頭を振った。
ハルク兄様は跪いたまま、私の両手をとると真剣な顔をして言った。
「リリアン。いいか。よく聞け。我慢づよいのはお前の美徳だが、ひとりで抱えこまずに何か困ったことがあったら俺に言え。絶対に助けてやる。いつも言っているように、何があっても、どんなことでもだ。お前が望むなら、お前をここから連れて逃げてやってもいい」
兄様は何があっても私の味方だと思うと、じわっと心が温かくなって、私は兄様の首にぎゅっと抱きついた。
「いつもありがとう。ハルク兄様。でも、ふふふ、ダリルも同じことを言ってくれたのよ」
「ふん。半人前のくせになまいきな奴だな」
兄様はニカッと真っ白な歯をみせて笑うと、私の目尻をそっと指で拭って部屋を出て行った。
――王妃様のお茶会から帰宅した夜、殿下は一言も口を聞かなかった
◆ ◆ ◆
朝、人の気配で俺は目を覚ました。メイドが窓を開けリリアンナに朝のあいさつをしている声が聞こえる。
開け放たれた窓から眩しい陽の光とともに清々しい風が入ってきた。
――呪いの発動から五日目の朝だ
リリアンナが支度を終えてメイドが部屋を出ていくまで、俺はドールハウスのベッドに横になったまま考えをめぐらせていた。
昨日の母上の茶会……
茶会の後からリリアンナとはまともに会話を交わしていない……
リリアンナは必要最低限しか話しかけてこなかったし、俺も何かを伝えたいけれど、何を言えばいいのか、何を言っても違うような気がして、考える時間が欲しかった。
――だから今日の予定は都合が良かった。
昨日は登校後、ダリルと合流して学園の図書館を調べた。だが魔道具や呪術に関する本は何も見つからず学園でできることは何もなかった。そこで、ダリルの助けを借りて王宮の書庫へ忍び込む計画を立てていたのだ。
メイドが出ていった後、リリアンナと顔を合わせたが、まるで以前の彼女に戻ったように感情を感じさせない淑女の顔であいさつを受けた。
ここ数日は俺に対しても素の表情を見せてくれていたのに……リリアンナの心が再び閉じてしまったのを感じて、俺はなぜか胸がざわざわした。