無事に出られても、どんな批判を浴びるかわからない……黙っていると悪い考えが次々と浮かんで不安に押しつぶされそうだった。
左肩にふれているダリルの温もりが、湧きあがる恐怖を少しだけ和らげてくれた。
ダリルはいつの間に、こんなに頼もしくなったのだろう。昔は私より小さいくらいだったのに、筋肉質な肩の厚みも、腕の太さもいまでは全然違う。
ひとりだったら、きっと耐えられなかったわ。
「ここにダリルがいてくれて良かった」
ぽつりと言葉をこぼすと、ダリルがふっと微笑んだ。
「大丈夫だ。きっとすぐに警備員の巡回がくるはずだ」
「……うん」
「もしも警備が買収されていても、リリアンの不在に気づいた閣下やジョシュア様がすぐに探してくれるさ」
「……うん」
巡回がこないことにダリルも気づいているのだろう。
「心配するな。大丈夫だから」
そう言って、ダリルが私の頭をぽんぽんっとなでた。その手つきがあまりに優しくて、不覚にも涙がぽろっとこぼれてしまった。
「おい。泣くなよ……」ダリルが驚いておろおろしている。
「騒ぎになったら、お父様やお兄様にご迷惑がかかるわ」
家門の名誉を傷をつけることが悔しくてぽろぽろと涙が落ちる。
「ここまで隙を見せずに頑張ってきたのに……ずっと我慢してきたのに……」
言葉にしたら駄目だった。せきを切ったように涙があふれて止まらなくなった。
「リリアン……」
ダリルが私の肩に腕をまわすと、ぐいっと私の体を引き寄せた。
大きな手で私の頭をそっと自分の肩にのせるように抱いて、髪を優しくなでてくれた。
弱っているときに優しくされたら……よけいに涙が止まらなくなって、私は心に溜まった
ひとしきり泣いて、私が落ち着くまでダリルは静かに肩を抱いてくれた。
「公爵様たちは抜かりないから、何があっても対応してくれるさ」
「……うん」
「もし醜聞になっても、揉み消すくらいできるだろ」
「……うん」
さすがにそれは無理だと思う。
「それに、もし最悪の事態が起きて、どうしても収集がつかなかったら、俺が責任をとってリリアンを嫁にもらうよ」
「……うん?」
驚いて涙が止まった。
「お前にとっては不服かもしれないがな。ちゃんと大事にするぞ」
顔をあげると、いつも調子がいいことしか言わないダリルが真剣な目をしていた。
「俺と醜聞になったら国内の貴族との結婚は無理だろう。国内にいるのが嫌ならお前を連れて、国外に逃げてやる。どうにもならなくなったら俺を頼れ」
ダリルの決意と優しさが胸に染みる。
なんだか胸が熱くなった私は、ぐいっと涙を拭ってダリルに憎まれ口をたたいた。
「国外に行って、どうやって生活するつもりなのよ」
「おっ、元気がでてきたじゃないか。そうだな。じゃあ……どうにもならなかったら国外に逃げるとして……」
ダリルは、いたずらっぽく笑って意外なことを言った。
「実は俺、外国に行くのが夢だったんだ。だから語学の授業は頑張った。帝国語と大陸共通語は何とかなるし、剣がまあまあ使えるから護衛なり冒険者なりできるんじゃないか?」
ダリルが外国に行きたいだなんて初耳だ。
「ダリルは騎士になるんじゃないの?」
「なりたくはないな……」
「どうして? 子供の頃から騎士になりたいって、あんなに頑張ってたのに……」
「理由はかっこ悪いから言いたくない」と拗ねたような顔をした。
私が目をパチクリしていると、ダリルは声を張って「やりたくない事じゃなくて、やりたい事の話をしようぜ!」と仕切り直した。
「リリアンは、もし自由に選べるなら何をしたいんだ?」
「何をしたいかなんて、考えたこともないわ……」
だって貴族の子女として家の為に嫁ぐことは決まっていた。殿下との婚約も公爵家の娘として粛々と受け入れてここまできたのだ。
それ以外の未来があるなんて想像したこともなかった。
「時間はあるだろ。考えてみろよ。もし、何にでもなれるなら何になりたいのか、どんな事をしたいのか」
真っ暗だった未来の道にぱぁっと光が射したような気がした。
「何でもいいなら……自分で選んだ好きな服を着たいわ」
「公爵家の令嬢なんだから、いまだって好きな服くらい着れるだろ?」ダリルが意外そうに言う。
「色々あるのよ……」
ダリルは腑に落ちない顔をしながら、続きをうながした。
「じゃあ、リリアンはどんな服が着たいんだ?」
服なんて興味もないくせに、ダリルは続きをうながした。私の不安を和らげようとしてくれるその配慮が嬉しかった。
「ええと……堅苦しいドレスじゃない服……かな」
ダリルが呆れたような顔をする。
「あのな。着たくない服じゃなくて、着たい服を聞いてんの」
「…………」
「リリアン、『わがまま』と『夢を語ること』は別物だぞ。欲しいものや好きなものは声にだして言っていいんだ。実際に手に入れるかどうかとは別の話だ。好きなものを我慢し続けたら、そのうち自分の好きなものがわからなくなるぞ」
心臓がどくんと鳴った。
「お前は我慢しすぎだ。お前のことを大事にしている人間は、お前が何を好きなのか知りたいはずだぞ。さぼってないで伝える努力をしろよ」
私は頑張って飲み込んでいたつもりなのに、さぼっていたの……?
「ほら、言ってみろ」背中をぽんっと叩かれた。
背中を押されて、ずっと心のなかに眠っていた幼い頃の思い出がよみがえってきた。
「……ずっと覚えている服があるの……昔、花まつりの会場を馬車で通り過ぎたとき、みかけたの……明るい色のスカート。スカートのすそには鮮やかな花の刺しゅうが施されていてお花畑みたいだった。すこし襟が開いた白いブラウスを着ていて……」
――恋人と手を繋いで笑っていた。幸福の象徴みたいな風景だった。
突然、ひらめいた。
「あ、私! 針仕事はできるの、そんな服を作る仕事ならできるかも」
ダリルがふっと笑った。
「そんな服なら冒険者の稼ぎでも買えるだろ。俺が好きなだけ買ってやる。やりたい仕事を考えてみろよ」
好きな仕事なんて想像したことがない。少しだけ楽しい心持ちになって、自分が何をしたいのか考えた。
「うーん。商売はあまり興味がないから、翻訳の仕事とか? 好きな小説を翻訳して売るの。あぁでもせっかく努力して身につけた特技を生かすとしたら、領地経営の補佐官とかバリバリお金を稼げそうな気がするわね」
「おい、それじゃあ俺より稼ぎがよさそうだな」と不満そうだ。
「あら、私がこれまでの人生でどれだけ努力してきたと思うの。うだつのあがらない冒険者よりは稼ぐつもりよ。そうなったらダリルを養ってあげるわ」
「ははは。それでこそリリアンだよ」ダリルが快活に笑った。
「ダリルと結婚する人は幸せになるわね……」
ぽつりとこぼすと、ダリルがさも当然のように言った。
「嫁さんを幸せにするのは当たり前だろ。自分の家族を幸せにできないやつは男じゃないって親父がいつも口うるさく言ってるしな」
「バシュレイおじ様はああみえて愛妻家だものね」
「まわりからは、手負いの巨大な熊みたいに思われてるけどな」
巨漢で髭もじゃで『鬼のバシュレイ』と呼ばれるおじ様が夫人には頭があがらない姿を思い出して、わたしはくすくす笑った。
夕方のオレンジ色の光が次第に弱まり室内の暗さが増してきた。地べたに座っているせいで床からじわじわと冷気が忍びよってくる。
――もうすぐ夜がくる
このあと訪れる暗闇と社交界を駆け巡る醜聞を想像してぶるっと体が震えた。
「リリアン、寒いのか。真っ青だぞ」ダリルが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
ダリルはじっと動きを止めて何かを考えているようだったが……床に座った姿勢のまま両手と両足を軽く開いて言った。
「なあ、寒いならここに来るか?」
それがどういう体勢になるか想像して、私はぎしっと固まる。
「え、いえ、いくらダリルでも……」
「緊急事態なんだから恥ずかしがってる場合じゃないだろ。このまま夜になったらもっと寒くなるんだぞ。俺に寄りかかっていれば多少ましになるだろ」
言いながらダリルも気恥ずかしいのかちょっと目が泳いでいる。
先ほどまでとは違う種類の沈黙が漂った……
「ええい、お前ら! 黙って聞いていれば、いちゃいちゃするのもいい加減にしろっっ!」
突然、可愛らしい声が響いて私は心臓が止まるほど驚いた。
あっけにとられる二人の前に、ポケットからぬいぐるみがもぞもぞと這い出してきた。
「で、でん……」
「は、はあああ?」
ダリルが驚いて膝立ちになり殿下を指さして叫んだ。
「え、ええええ、お守り人形、動いてんだけど!」
「人形じゃない!」
くまちゃん姿の殿下が、私の膝に飛び乗って、被り物を脱いで顔を出した。
「えっ、ええっ。紫の瞳……まさか、え、まさか殿下? はあっ嘘だろ……」
ダリルが殿下と私の顔を交互にみた。
私は呆然とするダリルに、こくっと頷いてみせた。
「おい、リリアンナ。この着ぐるみのままじゃ動けない。脱がしてくれ」殿下が私に向かって言う。
私が着ぐるみを脱がせて、殿下がシャツとズボン姿になる様子をダリルは口を開けたまま見ていた。
うんうん。わかる。わかるわ。とても信じられないわよね。
くまの着ぐるみを脱ぎ捨てて身軽になった殿下がダリルを見上げて言った。
「訳あってこの姿だが説明は後だ。ダリル、棚にのぼって俺を窓から外に落とせ。表にまわって扉に干渉しているものを外してくる」
「ええっ! 殿下にそんなこと……」
「この場で俺しかできないんだから、俺がやるしかないだろ! これは命令だ。さっさと動け」
王族の命は絶対だ。
ダリルは制服のジャケットを脱いで棚をよじ登ると、脱いだ服を右手にぐるぐると巻き付けて窓枠に残るガラスを払いのけた。
「準備できました」とダリルが手を伸ばす。私は殿下を両手で持ち上げて、ダリルへと手渡した。
ダリルの手に渡る直前、殿下が私を見て言った。
「もし扉を開けられなくても、絶対に助けを呼んでくる。時間はかかるかもしれないが、心配せずに待ってろ」
素っ気ない言い方だったけれど、殿下の優しさが伝わってきた。私は何を言えばいいのかわからず頷くしかできなかった。
そしてダリルの手に移った殿下はそのまま窓の外に消えて行った――
棚から降りたダリルはまだ呆けたような顔をしたまま尋ねる。
「――どういうことだ?」
見られてしまったなら、秘密にはできないわよね。私は先日の出来事をかいつまんで説明した。
「自分の目で殿下の姿を見ていなかったら、到底信じられない話だな」
「ごめんなさい。陛下の命で私からは何も話せなかったの」
「いや、それは仕方ない。軽々しく話せるようなことじゃない。だけど、なあ、さっきの会話。殿下が聞いてたんだよな。まずくないか……?」
ダリルが青くなっている。
言われてみると確かに……
私を慰めるためとはいえ、殿下の前でダリルの発言はかなり……
「あー、そう……ね。途中から私も殿下がいることを忘れてたわ」おほほほと笑ってごまかした。
「おほほじゃねえ。まずいだろっ」
「でもダリルの発言のほうがマシよ。私はあの日、殿下をさんざん侮辱して婚約破棄を叩きつけたんだから」
「ええっ。まじかよ。……お前、我慢の限界だったんだなぁ」ダリルがしみじみと言った。
「ん? いや。ちょっとまて、婚約破棄だって?」
コクリと頷く私。
「おい! じゃあ余計に俺の発言はまずくないか? リリアンと俺が恋人同士っていう噂に信ぴょう性がでてくるじゃねえか。ちゃんと殿下の誤解をといてくれよっ。頼むよっ」ダリルが騒々しく叫んだ。
ガタガタ、ガタン。扉のほうから音がしたかと思うと、ぐぐぐっと扉が少し動いた。
すかさずダリルが駆け寄りガラガラと扉を引いた。
――ああ
私は安堵のあまり足の力が抜けて、ペタッと床に座り込んだ。
ダリルはすかさず殿下にかけつけ、感謝の声をあげる。
「殿下!ありがとうございます。本当に助かりました!」
殿下はそれには応えず、座り込んだ私の膝にトテトテと乗って私を見上げた。
「おい、大丈夫か」
私を心配する殿下の髪にはクモの巣がからみ、白いシャツもあちこち草の汁や土埃で汚れていた。
「殿下こそ……お怪我はありませんか」
「ああ、問題ない」
素っ気ない殿下の言葉がいつもとは違って聞こえた。
私は殿下の髪についたクモの巣を指でつまんで、ホコリをぱたぱたと落とした。
殿下の頬の汚れをそっと指で拭って、この小さな体でどれだけ大変だったんだろうと、なんだか涙が出そうだった。
ダリルは制服のジャケットをばんばんと払った後、床にちらばった紙をざざっと端によせると、ふたり分の鞄を小脇に抱えて持ってきた。
座り込む私に「とにかくここを出よう」と手を差し伸べた。
私は殿下をそっとポケットにいれてダリルの手をとり、ついに備品室を後にしたのだった。