窓の外に目をやると王立学園に向かう並木道を馬車はゆるゆると登りはじめたところだった。
朝の光が木漏れ日となって馬車の中にまで差し込み、ちらちらと美しい影絵のように揺れ動いている。
青々と枝を広げたセコイアの並木から小鳥のさえずりが聞こえた。
この坂道を登りきれば石造りの校舎が見えてくるはずだ。
「殿下、もうすぐ学園につきます。ポケットに入ってください」私はくまのぬいぐるみを着た殿下に手を差し出した。
私の手に乗った殿下をそっとジャケットのサイドポケットに滑らせると、殿下がもぞもぞと動いてポケットからひょこっと顔を出した。
――うん。ぬいぐるみにしか見えないわ。これなら、大丈夫そう。
「窮屈じゃないですか」と聞くと、殿下が首をひねって答えた。
「うーん、大丈夫そうだが、長時間だとわからないな。無理そうなら合図する」
ここからは殿下の姿をみられないように、気を引き締めなければいけないわ。
私はお腹の中心にぐっと力を入れて、背筋をすっと伸ばした。
「では、馬車を降りますので、これからは極力動かず喋らずでお願いします」
そして、私は小さい殿下をポケットに入れたまま学園に足を踏み入れた。
馬車寄せから校舎へと続く小路を歩きながら考えをめぐらせる。放課後の生徒会室で殿下が小さくなってしまってから、今日で三日になる。
秘密を守るためには、屋敷に閉じこもっているほうが安全だったのかもしれない。
でも、殿下の呪いがいつ解呪できるかわからない中、ずっと学園を休み続けるわけにはいかないわ。
私だけ登校できれば良いのだけれど、解呪のためには一緒にいる必要があるらしいので殿下も一緒に来ることにしたのだ。
今日の殿下は、陛下から贈られた新しいくまのぬいぐるみを着ている。目の部分が透明なガラスになっていて頭まですっぽり隠しても周りの様子を見ることができるからだ。
小路を抜けて中庭に出ると、始業までまだ少し猶予があるため、数人の生徒が立ち止まってなにやら談笑しているのが見えた。近くを通りかかると、なぜかピタッと会話がやんだ。
不審に思いつつ歩みを進めると、いつも殿下の側できゃあきゃあ言っている女生徒たちがいた。彼女たちは侮蔑的な視線を隠そうともせずに、こちらを見ながらひそひそと話している。
――何なのかしら。様子が変だわ
教室について、リリアンナが戸口に姿を見せたとたん、教室のざわめきが不自然にピタッとやんだ。クラスメイトの幾人かが探るような視線を送ってくる。
嫌な空気を感じながら自分の席に向かうと、仲良しのビビアン・グレイシャス侯爵令嬢が近寄ってきた。
「おはよう。リリア」友人のビビアンが普段と変わらぬ様子で言う。
「おはよう。ビビ。ねえ、何かあったの?」
まわりにちらっと視線を送って声をひそめて問いかけると、「ええ。まあ。……後でお話しますわ」とビビは言葉を濁した。
何かが起こっているのは確かなのね……
私は教室を見回して、仲良しのミルラの顔が今日も見えないことに気がついた。
「ミルラは今日もお休みなの?」
「そうみたいなの。昨日も来なかったわ。心配だから、一度お見舞いに行ってこようと思っているの」
「ひどく悪いのかしら?」と私がつぶやくと、
「心配よね……」とビビも表情を曇らせた。
しんみりした空気を振り払うように、ビビが私のポケットを指さして明るい声を上げた。
「その可愛らしいぬいぐるみはどうされたのですか」
ジャケットのサイドポケットから顔だけ出している殿下……もとい、くまちゃんを指さしている。
こちらの様子をうかがいながら眉をひそめて話す女生徒の姿が目の端にうつった。いい機会だわと、私はあえて周りの生徒が聞き取れる声量を意識して口をひらいた。
「昨日の公務で殿下と一緒に他国の大使をお迎えした際に頂いたの。彼の国の風習で婚約した男女がお揃いの守り人形を持つそうなの。好意を無下にしないためにも、しばらく持ち歩くようにと命じられたのよ……」
「それでポケットに入れているのですね」
「ええ、ちょっと可愛らしくて気恥ずかしいのだけれど、私が持ち歩いていることが先方に伝わるようにしたいの」
「まあ、では殿下もお揃いのくまちゃんをお持ちですの?」ビビが明るく笑う。
「ええ、お揃いのものを殿下も頂いたわ。でも、さすがに殿方が持つには可愛いすぎるので隠して持ち歩いているのではないかしら。ふふふ」
――少し無理があったかもしれないが、これで私がぬいぐるみを持ち歩いている理由を周知できたはず
聞き耳を立てていた生徒の口からぬいぐるみの話ははすぐに学園中に広まるだろう。
「しばらくの間、目立つように持ち歩こうと思っているのだけれど、困っているのよ。ポケットがない服もあるでしょう。ドレスを着るタイミングもあるかもしれない。何かいいアイデアはないかしら?」
それを聞いたとたん、ビビの顔がぱあっと輝いた。
「まあ! それでしたらぴったりの物があるんです! うちの商会で売り出そうとしているものなんですが、リリアは隣国でアクセサリーのようなポーチが流行っているのを知っているかしら?」
ふるふると首を振ると、ビビが教えてくれた。
「貴族の令嬢は自分で荷物をもつことがあまりないでしょう? たいがいメイドが運でくれるけれど、メイドが入れない場所もあるじゃない。それでね、これくらいの大きさの貴婦人が持てるアクセサリーのようなバッグを作ったの!」
ビビは空中にくるっと丸を描きながら、目をキラキラさせていた。
まわりの女生徒たちが今度は別の意味でちらちらと視線を送り、きき耳をたてているのが可笑しかった。
グレイシャス商会が売り出す商品はいつも流行の最先端なのだ。
興奮したビビは頬を上気させて、こちらが追いつけないほどの勢いで語った。
「チュールレースを重ねて一輪のバラの花を模したものや、本物の真珠や宝石をちりばめたものをね、細い金の鎖で肩にかけられるようにしたの。ウエストにチェーンをまわして腰ることもできるの……先日試作品ができたのだけれど、とっても素敵なのよ!」
――確かに、そういうものがあれば、殿下を入れて運べそうだわ
「試作品ということは、まだ購入することはできないのよね?」と私が尋ねると……
「何を言っているのリリア。リリアが使ってくれるなら、差し上げるわ。ぜひ、使って欲しいの」と勢い込んで言われた。
「ええっ! ビビの一存で決めてよいことなの?」未発売の商品を勝手に譲っていいのだろうかと私が不安になっていると
「モンブリー公爵令嬢が無料で宣伝してくれるってことでしょう。大ヒット間違いなしだもの。私、よくやったって絶対褒められるわよ。こちらがお金を払ってもいいくらいだわ。明日、さっそく持ってくるわね」
「まあ、ビビったら」ビビの明け透けな言い方に思わず笑いがもれた。
グレイシャス侯爵家は、高位貴族にしてはめずらしく大規模な商会を経営していて、ビビはたまに令嬢らしくない商売人のようなことを言うのだ。
授業が始まる時間になったので、ビビにお礼を言って席についた。しっかり宣伝に協力して、何か別のかたちでお礼をしようと心に決めた。
◇
殿下は大人しくポケットの中で授業を受けていた。
姿が見えないように肘でポケットを囲ってガードしていたので、もぞもぞ動いているところは誰にも見られていないだろう……
昼休みになると、ビビと二人で中庭のガゼボに向かった。ガゼボの白い柱に淡いピンクのつるバラが絡まり、あたり一面に上品な芳香が満ちていた。
――ここなら誰にも聞かれずに話せるわね
小さい殿下は食事をとらないので、ポケットで寝ているように見える。
ビビがランチを食べながら、学園に広まっているという噂話を教えてくれた。
いわく、公爵令嬢のリリアンナには秘密の恋人がいて非常に親密な仲になっている。リリアンナの不貞がばれて殿下と大喧嘩したという話もある。遠くないうちに殿下とリリアンナの婚約は破談になるという噂もあるらしい。
ビビが言うには、なぜか学園内で急速に広まっているので人為的なものを感じると。
――もしかして、生徒会室での殿下と私の喧嘩を誰かに聞かれたのかしら
だが、そうだとすると殿下以外の恋人がいるという点がおかしい。あの生徒会室で、恋人の話なんてしていないもの。誰が何の目的でこんな噂を流しているのかしら。
こういった噂話はいちいち反論することもできないし、放っておくのは外聞が悪い。私にできることは気にしていないふりをして虚勢を張ることしかない。
いつまでたっても他人に悪意を向けられることに慣れることはなくて、私の心はどんよりと重くなった。