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第4話 煩悩とたたかう殿下

 ぐふっっ


 腹の上に何か重たいものがのってきて俺は目を覚ました。暗闇で目をこらすと怪物のような巨大な手に押さえつけられている。


「うおっ」


 じたばたと暴れて巨大な手を跳ねのけると、俺は見慣れない部屋にいることに気がついた。


 落ち着いたサーモンピンクの寝具。ベッドサイドに置かれた女神像を模したランプ。ほのかに漂う花のような芳しい香り。


――ここはリリアンナの寝室か


 まだ真夜中なのだろう、カーテンの隙間から見える空は真っ暗だった。


 自身の幼児のような手に気づき、俺は夕方に起きた出来事を思い出した。ああ、首飾りが光って俺の体は小さくなったんだった……


 公爵の部屋から戻った後、ベッドに転がされて待っているうちに寝入ってしまったのだろう。




「ううーん」


 リリアンナが身じろぎした。目の前で彼女はすうすうと寝息をたてている。





 正直いって俺はリリアンナが苦手だった。


 幼い頃は仲良く遊んだこともあったのに、いつしか表情の読めない笑みを張りつけて距離を置かれるようになったからだ。


 なぜ嫌われたのか、原因がわからずに悲しかった。母上は俺を見下しているからだと言っていたが、俺は信じなかった。


 「俺に不満があるなら教えて欲しい」「何かしてほしいことはあるか」と何度も歩み寄ろうとしたのだが、取りつく島もなくて……学園に入ったころには俺も諦めて距離をとるようになったのだ。


 大人になれば、いつかは分かり合える日がくるんじゃないかと思っていたのに……売り言葉に買い言葉でまさかこんな事態になるなんてな。


 昼間はかっとなって『お前よりふさわしい者はいくらでもいる』と言ったが、派閥や後ろ盾を考えてリリアンナが一番ふさわしいから選ばれたのだと、俺だってわかっている。


 地位も能力もリリアンナを超える令嬢はいないのだから、性格が合わないというだけで、婚約破棄が認められるわけがないよな……


 それよりもこの体だ!どうしてこうなった。何の呪いだ。父上に聞けば戻り方がわかるのだろうか……


――はぁ困ったな




 悶々としていると、ぎしっと寝台が揺れてリリアンナが寝返りをうった。ふわりと花のような香りがしてドキッとする。


 彼女は薄手の桃色の寝衣を着て、あどけない顔をしていた。大きく開いた襟元からこぼれそうなほど豊かな胸の谷間がちらっと見え……


 はっとして両手で目を覆った。

 盗み見など紳士のやることではない……


 俺は理性を総動員して目をつぶり、眠ろうと努力した。だが、眠ろうとすればするほど目が冴えて、まったく眠気が訪れない。


 カチコチと時計の音がやけに大きく聞こえる。やわらかい香りが鼻孔をくすぐり、俺の横ですうすうと寝息をたてるリリアンナ。



 カチコチカチコチ


 悶々とする俺


 カチコチカチコチ


 眠れない……




 頑張った。

 俺だって頑張ったんだ。


 だが、見るくらいならいいじゃないか。俺はついに煩悩に負けた……


 しかたないだろう、王太子といえど俺は十七歳の健康な男子なんだ。目の前にこんな立派ものを置かれて我慢できるわけないだろう。




 しどけなく薄く開いた桃色の唇。呼吸をするたびに柔らかそうなふくらみがゆったりと上下する。


 衣擦れの音がして、リリアンナが俺のほうに向きをかえた。胸元のシルクのリボンがするりとほどけた。


――リボンをといて触れてみたい


 いやいやいや、待て待て俺。さすがにそれは駄目だ。それだけは俺の矜持きょうじがゆるさない。


 心臓がばくばく高鳴り、目はギンギンに冴えて、そこから目が離せなかった。


 夜がしらじらと明けるころまで俺は不埒な煩悩と戦い続けたのだった。





――翌朝

 陛下との謁見のため、夜明けとともに起こされた。ほとんど眠れなかった俺はぼやけた目をごしごしと擦った。


「あまりよく眠れなかったのですか」

 俺とは対照的に爽やかな笑顔を浮かべてリリアンナが尋ねてくる。


 あんなのを前に年頃の男子が眠れるわけがないだろう。寝不足の俺はじろりとリリアンナを睨んだ。


「お前のとなりでぐっすり寝られるわけがないだろう」


 つい、不機嫌な物言いになってしまった。


 俺の態度に気を悪くしたリリアンナは眉をしかめて「そんなのお互い様ですっ」と吐き捨ててベッドから降りた。


 いやいや、一晩中、理性と煩悩のはざまで戦った俺とお前が同じわけないだろう。


 ありったけの理性を総動員して不埒な行いをしなかった俺を褒めるところだぞ。


「お前は恥じらいもなく、ぐーすかぐーすか寝てただろうが。俺はお前にどつかれたり大変だったんだからな」


「なっ」

リリアンナが頬を真っ赤に染めた。


おお、珍しくリリアンナが劣勢だ。昨日さんざん侮辱されたことを思い出して、つい口が滑った。


「お前と一緒に寝る旦那は可哀想だな」


 リリアンナの顔がみるみる険しくなり、まとう空気が冷たくなる。失言だと思ったがもう遅かった。俺はばかだ。


「私たち婚約破棄しましょうって言いましたよね。王宮にお送りしたら、もう二度と顔を合わせたくありませんっ」


 その言葉を聞いたとたん、俺の胸がギューと痛んだ。いや、比喩ではなく物理的に。


「イタタタタ」


 怒り心頭のリリアンナがすたすたと奥の衣裳部屋のほうへ歩いていく。すると突然、伸びきったゴムが弾けたように体が吹っ飛んだ。


「うわぁあああああああ」


 俺の叫び声に振り向いたリリアンナの胸に、ぼふっ、俺が埋まった。


 豊満な胸に顔が埋まるように引っついているため、息ができない。助けてくれ。じたばたと暴れる。


「きゃああああ」


 取り乱したリリアンナがすかさず俺を鷲掴みにして、ぺいっと部屋の隅に放り投げた。幸いふわふわのクマの着ぐるみのお陰で怪我はない。


「オイ!投げ捨てることないだろうっ」と怒鳴ったが

「何するんですか。変態ですか!」とリリアンナも負けじと叫んだ。


 リリアンナが自分の体を抱いて、不審者を見る目をして俺から距離をとる。


「俺が自分から飛んでいけるわけがないだろ。ちょっと待て、なんでそんな目で見るんだ」


 ずりずりと後ずさるリリアンナに、俺が一歩近づこうとすると、リリアンナが突き放すように叫んだ。


「近寄らないで!」


「痛っ」


 胸に鋭い痛みを感じたとたん、再び妙な引力でひっぱられる。


 ぼふっ…………


 やわらかい胸の谷間から恐る恐る顔をあげると、ぷるぷると涙目で震えるリリアンナがいた。


 リリアンナは、がしっと俺をひっつかんで、すたすたとベランダに出ると全力で振りかぶって俺をぶん投げようとした。


「待て、待て、やめろ! リリアンナ、落ち着け。捨てるな。窓の外はだめだ。すまん。悪かった。俺を捨てないでくれっ!!」


 俺は婚約者の腕に必死にすがりついたのだった。


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