婚約者のエルネスト王太子殿下に呼び出され、私はひと気のない放課後の生徒会室に足を踏み入れた。
殿下とふたりっきりで話すのは何年ぶりだろう。交流の茶会では常に王妃様の侍女と護衛が近くにいて、ささいな言動まで見張られていたため、ろくに話もできなかった。
この機会に少しでも殿下との関係を改善できればと思ったのに――期待した私が愚かだった。呼び出された理由がこんなことだなんて……
私の前には、不快感をあらわに私をにらみつける殿下がいた。
「リリアンナ、お前はなぜイザベラに陰湿な嫌がらせを繰り返しているんだ」
「嫌がらせとは何のことでしょう。身に覚えがございません」
「イザベラとその友人が俺に泣きついてきたのだ。お前が執拗に嫌がらせを繰り返しているとな。公爵令嬢という権威をかさに横暴な態度をとっているのだろう。それに――」
殿下が次々に挙げるでたらめな罪を聞きながら、私の心はどんどん真っ黒に塗りつぶされていった。
婚約してから何年も、王妃様による理不尽な扱いに耐えてきた。擦り切れた心はずっと悲鳴をあげている。
あなたの後ろ盾になるために私が犠牲になっているのに、なぜあなたにまでこんな仕打ちを受けなければならないのか。
腹の底からふつふつとどす黒い感情が湧きあがってくる。もう、我慢の限界だった。あなたも私と同じくらい傷つけばいい――
私はほの暗い怒りを押し殺して淑女の仮面をかぶり『氷姫』らしい冷笑を浮かべた。
「ふふ、殿下は騙されやすくて心配になりますわね。殿下にすり寄ってくる者の意図を疑ったこともないのでしょう?」
「なん、だと……」
殿下が一瞬ひるんだのは、ふだんは逆らうことがない私が、急に不遜な態度をとったからだろう。
「……お前はイザベラが嘘をついていると言いたいのか」殿下が眉根をよせた。
「私は嫌がらせをした覚えがないのですから、イザベラ嬢が嘘をついていることになりますよね」
「言い逃れをするな!イザベラのことを『はしたない』『ふしだら』などと言って、多くの生徒の前で罵倒して恥をかかせただろう。それにお茶会から締め出されて参加させてもらえないとイザベラは泣いていたんだぞ!」
「まあ、殿下。それで、イザベラ嬢の言い分をそっくりそのまま信じたとおっしゃるのですね。殿下はいまだに評判どおりの素直なお方なのですね」
王太子殿下は私よりひとつ年上の十七歳だ。私はあえて微笑ましい子供のいたずらを見るような目で殿下を眺めた。
「おい、俺を馬鹿にしているのか……」殿下の優美な顔がぎりっと歪んだ。
「あら、馬鹿になど。殿下を見習って思ったことをそのまま口に出したまでですわ」
今度こそ殿下の顔色がはっきりと変わるのがわかった。殿下の瞳に強い怒りが浮かぶ。
重臣たちの間で『エルネスト殿下は学業優秀で人柄は良いが王の器ではない』と囁かれていることは、きっと殿下の耳にも届いている。
裏表がなく率直な物言いも、懐に入れた者の真意を疑わない純粋さも美徳ではあるが統治者としては失格なのだ。
「イザベラ嬢には男性との距離について苦言を呈しただけですわ。『ふしだら』だなんてたとえ思っていても私が口に出すはずがないでしょう」
「どんな理由だったとしても公衆の面前で貶める必要があったのか!」
「あえて、第三者の目があるところを選んだ理由もわからないのですね。その様子では、その場にいた生徒たちに事実確認すらしていないのでしょう?」
殿下は自分の非に気づいたのか、ぐっと黙り込んだ。
「殿下は未婚のご令嬢が婚約者のいる殿方に抱きついたりすることをどうお思いですの」
「何を言いたいのかわかるが……イザベラは妹のようなものだ。彼女に他意はない」
「殿下がどう思っていようと彼女はあなたの妹ではありませんし、彼女のあざとい演技をたしなめない殿下の評判も下がっています」
「そうやって、またイザベラを馬鹿にしているではないか! お前は、イザベラに嫉妬しているのか?」
「はあ?」
「……嫉妬か。イザベラが言うとおり、嫉妬してこんな嫌がらせを繰り返しているのか」
ははっ。あまりに馬鹿馬鹿しくて、淑女らしくない乾いた笑いが漏れてしまった。表情を消した私は、殿下に氷のような視線を注ぐ。
「――私が望んだ婚約でもないのに、なぜ、私が嫉妬するのですか」
あたりが凍りつきそうなほど冷ややかな声で告げると、なぜか殿下が酷く傷ついた顔をした。
「それにお茶会の件は、仲の良い方だけを招いたプライベートな集まりです。普段おつきあいの無い方に参加したいと言われても困ります」
友人との気楽なつきあいまで邪魔されるいわれはない。
「多くの貴族と親交を交えるのも王太子妃の役目だろう」
私の献身をさも当然のように求める殿下に吐き気がするほどの怒りが湧いてくる。なぜそこまで私だけが犠牲にならなければいけないのか。
殿下と婚約してからの私がどれほど我慢していると思っているのか……何も知らないくせに……何も見ようとも知ろうともしないくせに……
抑えきれない怒りに唇がぷるぷると震えて、気がつけば私は淑女の仮面を忘れて、早口でまくしたてていた。
「ほとんどの貴族が、公爵令嬢で次期王太子妃である私と繋がりが欲しいと思っているのです。希望者を受け入れたら、学園中の生徒を受け入れることになりますわ。どうやって選別するのですか! 成績順ですか? それとも爵位の高い順にしますか。ああでも、それだとどちらの場合もイザベラ嬢はすぐには招待できませんわね?」
「なんて傲慢な!!」私の激情に引きずられるように殿下も声を荒げる。
「それなら殿下が気に入ったご令嬢だけを招待すれば満足なのですか! 今みたいに、王太子という権威をかさにごり押しで! 私の個人的なお茶会なのに、殿下のお気に入りのご令嬢を呼べば満足なのですか!?」
「そんなことは言っていないだろう! そんな態度だから、傲岸不遜で冷淡な『氷姫』と悪評がたつんだ!」
――その悪評を流しているのが、殿下がいま庇っているイザベラ嬢ではないか
「ふっ。はは、あははは。殿下はどこまで、おめでたいのかしら。いい加減に目を覚ましてはいかがです?」
殿下は度重なる侮辱に怒りに燃えて、握った拳がぶるぶると震えている。
「――母上が言うとおりだったな! 母上は常々言っていた。どれほど優秀でも、お前のような傲慢な人物は王太子妃にふさわしくないと。他にふさわしいものなどいくらでもいるとな! 俺だってこんな冷たい女と生涯を過ごすなど絶望しかない!」
瞬間、私の中で何かが壊れた。
制御しきれないほどの強烈な怒りが込み上げてくる。
何年も。何年も。我慢してきた。
家門のため、両親のため、国のため。
自分の未来に絶望しているのは私のほうよ!
心をがんじがらめに縛ってきた鎖がカシャリと外れた気がした。
「では、婚約を解消してください――」
その言葉は、考える前に口からこぼれ、地を這うように低く硬く平坦に響いた。自分の口から出た言葉が、まるで他人の言葉のように響いた。
殿下は驚きで目を見開いている。
怒りに突き動かされた私は、殿下へ一歩、また一歩と小さくゆっくりと距離を詰めながら告げた。
「私も、この婚約には、絶望しかありません。婚約を解消しましょう。陛下には殿下からお伝えください。双方、合意の上で婚約を解消したいと……」
「あ、いや……」狼狽える殿下。
私は自分の首元から金色の鎖を引き出した。
「王命によって結ばれた婚約ですが、他にふさわしい方がいらっしゃるのですから、陛下も無下にはしないでしょう——」
首飾りをそっと外すと、手の上にのせて眺めた。
紫色の宝石に金色の蔦が絡みついている首飾り。婚約が結ばれたとき、王家の宝物庫から殿下が選んだ贈り物だった。
――殿下の紫と私の金色
これを貰ったときは、素敵な王子様と幸せな結婚ができると夢見ていた。当時を想うと胸がぎゅっと痛む。
だが、これは今では私を縛る鎖でしかない。
私は胸の痛みを振り払い、殿下の目を見すえてきっぱりと告げた。
「婚約の証をお返しいたします! 私にはもう必要ありません!」
「あ、いや。待ってくれ……」
困惑する殿下の片手を無理やりつかみ、私は殿下の手に首飾りを押し付けた。
「さようなら。殿下」
手を離した瞬間のことだった……
殿下の掌から目が
バサッと何かが落ちる音がして我に返ると、すでに光は消えていた——
「今のは……」
目をこすりながら辺りを見回すと……殿下がいなかった。
「え?殿下?」
部屋の中に姿がない。あの一瞬で外に出る時間なんてなかったはずだ。扉の音もしなかった。
……音
ふと引っかかりを覚えて足元をみると、制服が異様な形でそこに在った。
「え……」
恐る恐るしゃがんで見ると、シャツ、ジャケット、ズボンに靴下までもが、重なったまま中身だけが消えたかのように人の形で落ちている。
どくんどくんと心臓が痛いほど鳴る。
ためらいながら震える手で触れると、その服は今脱いだばかりのように温かかった。
「嘘……でしょう。殿下! 殿下っ! 返事をしてくださいっ」
目の前で、この国の王太子が消えた——
あまりの事態に膝ががくがくと震えて、私はその場にへたり込んだ。