母さんに手を引かれて夜道を走る。昨日、幼馴染のサヤと二人でおにぎりを食べたあの高台を抜け、遠くへ、もっと遠くへ。
「はぁっ……はぁっ……」
息を切らせて必死に走り続けてきた僕らは、息を整える為立ち止まり、かがんで身を隠した。
ふと村の方角に目を向けると、その方角だけ赤々とした光が見え、故郷の末路を悟り、感情はぐちゃぐちゃになる。
父さんも友人もみんなみんな、もう二度と会うことは出来ない。
涙が込み上げてくるのを必死に堪える。今は泣いている場合じゃない! 今はとにかく遠くへ逃げて、母さんを守らないと……!
僕と母さんが移動しようと立ち上がったその時だった。
「虫ケラがコソコソと、それは隠れているのか?」
――――――ッ!!!
不意に背後から聞こえた声に悪寒が走る。身体が硬直し、鼓動が高まり汗が吹き出す。本能が全身に危険を伝えている。
母さんも同じく、身動き出来ない程に怯えている。
追いつかれたのか……! だとしたら父さんはもう……!
恐怖に埋め尽くされた僕の心の中に炎が灯る。それは怒り。父さんを殺したであろう魔族に、恐怖よりも怒りが勝ったのだ。
僕は声がした方に振り返る。父さんや村の皆の仇を目に焼きつける為に。
だが――
そこにあるのはどこまでも吸い込まれそうな、闇。
暗がりとはまったく違う、おぞましい異質な闇だ。
その闇を見た瞬間、僕は呼吸を忘れた。自分というものが吸い込まれていくような虚無そのものを前に、まるで生きることを忘れたかのように、自分を見失いかけた。
「お……まえ…………は…………!」
「貴様は…………!」
僕と闇の言葉が重なる。
「その忌々しいツラ……忘れはせんぞ!! 何故、貴様がここに……いや、何故生きておる!?」
闇は激しい怒りの感情を僕に向ける。その衝撃だけでも気を失いそうになる僕の精神を必死に現実に留まらせる。
今この闇が妙な事を言ったような気がした。まるで会ったことがあるような口ぶりだ。当然まったく身に覚えがない。
「お前……の事なんて……! 知らない……! 何者だっ!」
喉が声を紡ぐ事を拒絶する程の恐怖を前に、灯る怒りに任せてなんとか声を絞り出す。
「クカカ……。よくよく思えばヤツであるはずが無いな。だが貴様も勇者の子孫か。つくづく忌々しい血だな」
一人何かに納得したように呟く闇。そして異質な視線を僕に向けたのを感じる。……いや、僕が持つ剣に向けているんだ。
「見つけたぞ。……虫ケラ、お前が持っているそれだ。勇者が解放の神剣と銘打ったその忌々しい剣をよこせ。その剣を我が魔王の剣に造り変え、貴様らの希望の象徴を絶望の権化に変えてやるのだ! 愉快であろう? クカカ!」
魔王と名乗った闇がゆっくり近づいてくる。
魔王との距離が近くなるに連れ、呼吸が、鼓動が、汗が、悪寒が、震えが強くなる。
「よこせ」
力づくで奪うのは容易であろうに、魔王は楽しんでいるのだ。人間が恐怖し壊れていく様を。
僕は、勇気を振り絞って声を張り上げる。これだけは確認しなければならない。
「む、村の人達を……っ! ど、どうしたっ!」
魔王は深い闇の奥でニヤっと笑ったような気がした。
「お前の故郷の虫共は、我が配下に命じて駆除してやったわ。クカカカカ!」
――――ッ!!
「貴様ぁーー!」
体温が急激に上がるような激情と共に僕は無我夢中に左手で解放の神剣を抜き放ち、斬りかかった!
――ギィィン!――
「うわぁぁ!」
振り下ろした斬撃は魔王に接触する前に、何かに弾かれて僕ははじき飛ばされた。未熟故なのか、魔王が化け物だからなのか…。無力感が僕の戦意を急激に削いでいく。
「……ハッ。かつて我を苦しめたその剣も、随分衰えたものだ。まあいい、もう飽きた」
恐怖に抗い、なんとか振り払った母さんが飛び込んでくる。
「クサビ! 動きなさいっ! 逃げるのよ!」
「ほう! まだあがくか? クカカ!」
母さんはそのまま僕の手を引き走り出した。相手は魔王だ。その気になれば一瞬で追いついてくるはずだ。
逃げ切れるはずがない……!
そんな僕の胸の内を見透かすように、必死に駆けながら母さんは言う。
「クサビ。貴方は誰よりも心の強い子……。誰よりも、それこそ勇者さまにだって負けない勇気があるわ……! 生きることを諦めてはダメ!」
魔王に追われる極限状態であっても、努めて穏やかに励ましてくれる母さん。この言葉を信じなければ僕は親不孝者になってしまう。
――諦めない。生きることを諦めない!
しかし、現実とは時に残酷だ。僕らに奇跡なんて起こることは無く。魔物に回り込まれて退路を絶たれながらも逃げたが、やがて崖に追い込まれてしまった。
後ろには崖、崖下は流れの早い川だ。呑まれれば助かる保証は無い。もう逃げる場所がない……。
「ここまでだな。虫ケラよ」
じりじりと迫る魔王。崖の先に追いやられる僕と母さん。母さんは僕を庇うように魔王の前に阻む。
「諦めろ。大人しくその剣を渡すなら、虫ケラから昇格させてやるぞ? 嬉しかろう? クカカ!」
「渡してはダメよ! その剣は絶対に――」
「――黙れ」
魔王から黒い風が吹いたと同時に、母さんの左腕が斬り飛ばされたのが見えた……! 母さんの悲鳴が響く。
「――母さん!!」
腕を切り落とされておびただしい出血をしながらも僕を庇おうとする母さん。荒い呼吸と汗をかきながら必死に魔王の前に立ちはだかる。
母さんは痛みに耐えながら僕に意識を向けながらできる限り穏やかに言葉を紡ぐ。
「クサビ……。その……っ……解放の神剣は……はぁ……はぁっ……魔王を討ち果たす事ができる剣と……伝えられているわ……くっ……! その、剣こそが! 世界の希望……っ」
「か、母さん……腕……!! 血が……っ!」
「クサビ……。私の可愛い子……。もっと、一緒に居てあげたかった……! 愛しているわ……」
「母さん……ッ」
わかってしまった。これが今生の別れとなる事を。認めたくなかった。だがこの現実を覆す手段も力も時間もない。
母さんは優しい笑みを僕に向けたあと、意を決したような表情に変わり僕を突き飛ばした!
――生きることを諦めないで――
最後に見た母さんの表情がそう言っているように見えた。
「あ……。あああ…………っ」
僕は母さんに手を伸ばしたまま崖下の川に転落し、川の流れの勢いに呑み込まれ流されていった。
これでいい……あの子ならきっと生き延びてくれるはずよ。
クサビを突き飛ばした私はすでに出血量からみて助からない状態だった。私にできることは少ない。それでも一縷の望みに掛けて、魔力を全身に巡らせる。
「貴様……興が覚めるようなことをするじゃないか」
「……貴方に息子の命も、剣も渡さない。代わりに私の命をくれてやるわ……」
魔力を極限まで高める。自分のすべての魔力よりももっと多くの魔力を……!
魔術における禁術。己の魔力の限界を超えてさらに魔力を引き出す禁忌。触媒となるのは自らの寿命。
命を燃やして力に変える最終手段。
眩い光が私の全身を纏い、光の波動を魔王に浴びせかける。もう魔術の発動を開始している。
最期に使う魔術に選んだのは拘束術。傷は与えられずともしばらく身動きを封じるくらいはしてみせる。
私の命は今この時の為にあったのだと、寿命が尽きるまで命を燃やし続ける。
「寿命すら使った光魔術とはな。確かにそれなら僅かばかりは我を止めることができるだろうよ。……まったくつまらん事だ。……まあいい。貴様の息子が苦しむ様を冥土から嘆くがいい」
「クサビ……。貴方を信じてる。お父さんといつまでも見守っているわ……――――」
その瞬間、魔術の発動を同時に私という存在は完全に消滅し、眩い光が膨張して魔王を包み込み、光の檻を化した。
クサビの母ユイが発動させた光の檻は、魔王の動きを一時間程留めるに至った。やがて光の檻が消滅し、クサビと剣を見失った魔王は、まるで遊戯に飽きたように魔族領へと帰り、部下に捜索を任せるのだった――――