どこか闇を思わせるやや薄暗い店内に、様々なにおいが立ちこめている。煙草の匂い、汗の匂い、香水の匂い。この店は夜十一時まで営業しており、安い割には酒も料理も旨いと評判である。仕事帰りに立ち寄る者が多く、今日も繁盛しているようだ。明る過ぎない店内の照明が、居心地の良いほんのりとした温もりを提供してくれる。
今丁度夜八時頃だろうか。流行歌の奔流があふれかえる中、客達の他愛ない会話、卑猥な会話、店の者が食器を片付ける音が違和感なく混じり合っている。
その中で、二人の男が額をつけるように向かい合ってグラスを傾けていた。片方は翡翠色の瞳を持った茶髪の男、もう片方はハニーブラウンの短髪を持ち、タレ目で人の良さそうな笑顔が愛嬌のある男だった。見たところ、仕事帰りで一緒に一杯やっているところだろう。
グラスに入った琥珀色の液体の上に、真っ白な泡がクリームのように、こんもりと乗っている。ほんのわずかに感じる苦みと、冷た過ぎず温過ぎずの絶妙な温度のお陰で、仕事終わりの疲れた身体にとって至高の一杯となっている。五臓六腑に沁みわたるとは、こういうことを言うのだろう。
「どうだ? タカト。新しい職場にはそろそろ慣れたか?」
「いや~慣れるしかねぇだろ! という気でいるが、現実は中々厳しいぜ……」
「前の方が良かったとか?」
「ん〜……金銭面や各種保険と言った方面はこちらの方が安心出来る。勤務時間が昼夜問わずで異常な上、勤務内容がヘビィな分、給料も破格だし」
タカトが言うには、前の職場でも今と似たような仕事を請け負っていたらしい。詳細をあまり口にしないところを見ると、どうやら守秘義務を課せられているようだ。本当はハイスクール卒業から今まで何をしていたかを知りたかったガイスだったが、それ以上は聞かず「へぇ……会わないうちにお前も色々あったんだな」と適度に流した。
ワンピース型の黒い制服に白い前掛けをつけたウエイトレスが、テーブルに料理の乗った皿を置いていった。二つのマスクメロン並みの胸と大きな尻を見せ付けるかのようにゆっさゆさと振りながら去ってゆく。タカトはそれをすかさず目で追いかけつつ、皿の上に乗った湯気のたつ黄金色のフライドチキンに手を伸ばした。
振りかけられたブラックペッパーの香りが鼻をくすぐり、思わず口中につばが湧いてくる。がぶりと噛みつくと、かりかりと香ばしく揚げられた皮の下から、旨い肉汁が口いっぱいに広がってゆく。それから持っていたグラスをぐいっとあおり、中身の液体を喉の奥へと一気に流し込んだ。口の中に残る油がアルコールによって洗われて、さっぱりする。「ぷはぁっ!」と一息ついた彼がテーブルにグラスを叩きつけるように置くと、手の甲で口周りについた白いヒゲを一気に拭い取った。
「なぁタカト。細かいことはさておき、こうしてお前とまた会えたのは喜ばしいことだ。色々頑張れよ。何かあったら相談に乗ってやるから。勿論、出来る範囲内ではあるがな」
「まぁ〜頑張るしかねぇしな。給料が良い分、仕送りも出来るし」
「仕送り?」
「ん? 俺言ってなかったっけ? 施設育ちだって」
タカトの両親は、彼が幼い頃既に他界していた。聞くところによると、彼の物心が付く前に両親共に登山事故で死んだらしい。そのことを聞いたのはハイスクール二年次の時だったことを、ガイスは今更のように思い出した。
「……そうだったな。悪い。すっかり忘れていた」
「そこの施設長にガキの頃世話になった分を〝寄付〟の形で返してる。こういう形でねぇと金を受け取ってくれねぇんだよあの人は。素直に受け取ってくれりゃあ良いのに、面倒くせぇったらありゃしねぇ」
彼は働きだしてからこれまでずっと、育った施設への仕送りを欠かさず続けているそうだ。食費を含めた生活費に学費と、一人前になるまでに掛かった分――とてもではないが、一昼夜で返せる金額ではないだろう――を、彼なりに返そうとしている。いい加減でチャラそうな外見に似合わず、義理堅い一面もあるものだと、ガイスは彼に対する認識を改めた。
「周りから何か哀れみの目を向けられるから、何か薄気味悪いぜ。そりゃあさ、全く寂しくねぇと言えば嘘だけどよ。元々いねぇから実感はねぇし、イマイチ良く分からねぇしな。親が両方いねぇというだけで、全然悲しくもない」
と、当時のタカトは飄々とした顔でさらりと語っていた。確かに、悲しむも何も顔すら覚えていないのに、一体何を悲しめと言うのだろうか。
「最初からなければ失うものもないから、怖くもなんともねぇ。それに、ないならゲットしちまえば良いだけだしな。施設の人達がみんな良い人達ばかりだったから、親がたくさんいるようなものだったし、それはそれで悪くないぞ」
彼は、そんなことを平然と言うような生徒だった。今思えば、随分現実的というか、妙に大人びたところがあった――普段遅刻常習犯で、宿題はサボるのが日常茶飯事という問題児だったけれども。
確かに実親がいなければ、友達や恩師と言った、代わりの者がいれば良い。実際、親は子より先に死ぬものだから、早いうちに縁のある他人を見つけた方が、その後の人生はより豊かになる。彼はそのことを生まれつき、身を持って理解しているのかもしれない。お陰で短気で多少気性が荒くても、陽気で大らかな性格に育ち、彼の周りには不思議と人が集まってくるような人間に育った。
「……まぁ、ここまで無事に生きて来れたわけだ。死んだらそこでおしまい。人生は生きた者勝ちだしな、タカト。これから先もどんどん楽しまないとな」
「ああ。何とかして生き延びねぇとな」
「心配しなくても、お前なら大丈夫だろ。俺が保証してやる」
「そう言われても、不安というか、何故か全然嬉しく聞こえねぇんだよなぁ……」
先程まで満面の笑みだったが、微妙に口角が引きつっている。意地悪心がふと湧いてきた旧友は、ここぞとつついてみたくなった。アルコールが入っているために、少し気が大きくなっているのだろう。
「ひょっとして、それって、例の〝美人〟のせいか? お前にしては、随分手こずってるようだな」
「……お前までからかうんじゃねぇよ。手こずるも何も……あ~あ。どうせ美人なら……」
タカトはすかさず、胸の前に両手で大きな膨らみを示すジェスチャーをした。
「とび〜っきりの美人で、盛りあがっているべき部分の盛りあがり方がすげぇの! 身体の前も後ろもな!! 同じ美人ならそちらの方が良いに決まってんだろ?──勿論人間のな。さっきの料理運んできてくれたオネエサンはアンストロンだから論外だがな。てめぇも同じ男なら分かるだろぉ? このどこか無念というか、複雑な心境をよぉ……」
ガイスは、テーブルにオイオイと突っ伏している針頭を眺めつつ、彼は泣き上戸だったのかと認識を新たにしていた。
部署は異なるとは言え、ガイスも若い男だ。彼の気持ちは分からなくもない。なにせ、いつ死ぬか分からないような危険な職場だ。バディ相手が胸も尻も豊満な絶世の美女で、共にミッションをこなしつつ、あわよくばベッドの相手にもなれる相手なら……と、つい夢見がちになっても仕方がない。大きな双丘の谷間に顔を埋めてその柔らかさを存分に堪能したのは、一体何ヶ月前のことだろう。熱い血潮の流れる肉体を持つ若い男に、不埒な妄想をするなという方が、酷というものだ。
「お前の気持ちも分かるけどな。俺の部署ならともかく、実戦部隊で好みの相手を探すのは、はっきり言って非現実だ。ついでに言っておくけど相棒が女性だと、色々面倒なこともあるらしいぞ」
ガイスは皿に手を伸ばしつつ、無意識だがつい話に力が入っていた。
「基本的に俺達は歩くお財布と認識されているものと思っていた方が良いな。幾ら有能でも生物学的に女性であれば、世話を焼いたり気を遣ったりがどこかで必要だし。彼女が何らかの形でいつも胸にかかえこんでいる、種々の感情というものが後になって色々面倒なことを引き起こすこともあるようだし……」
「……お前えらい詳しいな。そこの部分をもっと詳細に教えろよ」
指摘され、思わず墓穴を掘りかけたことに気付いたガイスは慌てて急ブレーキをかけた。咀嚼していたフライドポテトと共に、言い出しかけた言葉を喉の奥へと押し込む。
「わははは! まぁまぁ! お前の場合、相手に気を遣わなくて良いという点だけは確実だということを単に言いたかっただけだ。それだけでも本当に良かったな〜」
タカトは旧友に後ろから背中を盛大に叩かれたが、あんまりフォローになっていないような気がするのは何故だろうか。旧友は無責任にもけらけら笑い続けている。
「まぁ、焦らずいけよ。これから先は長い。息が合うようになって、仕事がやりやすくなると思うから……いつかは」
「……てめぇ他人事だと思って……何だよ今の間は!! くっそ~これから先が長過ぎるのも嫌だし、長そうに見えて実は短かった……という顛末も、状況によっては嫌過ぎ……」
タカトのぼやきは最後まで言い終えることはなかった。いきなり二メートル位先にある大きな窓ガラスが粉々に砕け散ったのだ。続いて、目もくらむほどの純白の閃光とともに、耳がつぶれそうな大きい爆発音が轟き渡る。猛烈な爆風がすぐ近くから襲いかかり、二人は座っていた椅子ごと背後へ急に吹き飛ばされた。
「危ねぇっ!!」
タカトは反射的に左腕を伸ばして旧友の身体を抱きとめ、己のテーブルをすかさず盾にし、飛んでくる大小のガラスやら木の枝や砂利の弾丸から自分達の身を守った。
あちらこちらから悲鳴が上がる中、大勢の人々がその場から逃げようとしてパニックに陥った。奥の棚から、何枚もの皿やグラスが落ちて不協和音を奏でいる。床には酒の瓶が何本も転がり落ちては、いくつもの水たまりを作っていた。
「ガイス、お前は非戦闘員だ。ここは俺に任せ、なるべく早くここから逃げろ。良いな」
「おい、タカト! お前……」
「俺はアルコールに強いから大丈夫だ。多少酒が入ったって酔わないから、判断は鈍りゃあしねぇよ。その気になりゃあ、一気に分解も出来るぜ!!」
どこまでが本当でどこまでが出任せなのか不明だが、それを言う張本人の顔色は全く変わってない。酒が一滴も入ってないと言ってもバレなさそうである。タカトは長い足を使って椅子を後ろへ一気に蹴り飛ばし、目の前にある机の上に乗り、ガラスが割れた窓の枠を飛び越え、真っ暗な歩道へと飛び出していった。