一日かけてお仕事を終え、私は帰路についた。古橋駅で電車を降りて、いつもの場所へ向かう。
雑居ビルの地下一階、ドアベルを鳴らしながらアルカナムの扉をくぐると、店内はいつもどおりお客でいっぱいだ。狐耳が生えた小太りのおじさん、目がぎょろりと出た痩せすぎのお兄さん……いつもの顔ぶれが、そこかしこのテーブルでくつろいでいる。奥のテーブル席には、茶色い毛の若狐さんと、茶釜の付喪神さんの夫婦も見えた。以前の結婚式二次会以来、あの新婚さんは時々見かけるようになった。梢が残したお揚げメニューは、新規の妖怪客を少なからず呼び込んでいる。
そしてカウンターの向こうでは、やっぱりいつも通り、二人の店員さんが働いていた。
「いらっしゃいませ。空いてるお席へどうぞ!」
屈託のない笑顔で、色白黒髪の店員さん――壮華くんが笑う。傍らでは、色黒銀髪の店員さん――蓮司くんが、コーヒーミルのハンドルを回しながら私を見てくれる。いつもどおりのカウンター席につくと、蓮司くんの口の端がちょっと緩んだ。
あの日のできごとの後、正式に妖狐の頭領を継いだ蓮司くんは、壮華くんの裏切りに対して重い罰を課した。「未来永劫、終わることのなき労役」――人間の用語だと無期懲役にあたるんだろうか。自らの罪の重さを自覚した壮華くんは、黙ってそれを受け入れた。
そして今、壮華くんは喫茶アルカナムで強制労働をさせられている。妖怪としての存在を終えるまで、つまりは死ぬまで、ずっと。
だから、これは無限の苦役――のはずなのだけれど。
「ご注文はお決まりですか?」
小動物めいた輝く笑顔で、ちょこまかと注文を取りに来る様子には、受刑者らしさなんて微塵もない……むしろ以前より楽しそうだ。というか、これが本当に罰だったら、労役を課した本人である頭領様が一緒に働いているはずもない。
「ケーキセット、苺だらけのロールケーキで」
「はい、春限定のやつですね! ご注文を繰り返します。ケーキセットで苺だらけのロールケーキ、お飲み物はブレンドコーヒー。以上、承りました!」
ブレンドコーヒーは、相変わらず自動で足されている。周りを見れば、常連妖怪さんたちの席にも、赤いロールケーキがちらほら見える。
皆、ここが好きなんだよね。いい香りのコーヒーとおいしいお菓子、そして話に耳を傾けてくれる店員さん。
「七葉。仕事はどうだ」
「いまのところ順調だよ。それでね、今日は蓮司くんに大事な話があるんだ」
蓮司くんが身を乗り出してくるのを見計らい、切り出す。
「父さんと母さんが、顔を見せに来てほしいって」
できるだけ小声で言った……つもりだった。
だのに、店内から一斉に歓声があがってしまった。一瞬遅れて、たくさんの拍手まで。
「おお、とうとうご両親公認ですかな!」
「うららかな春に、頭領にも春が来ましたなあ。実にめでたや!」
囃し立てられて蓮司くんがうつむく。無言で頬を赤らめている様子に、妖狐の頭領らしさは微塵もない。けどこれも、蓮司くんらしさだと思う。
そんな私も顔が熱くて、できればちょっとだけ、ここから消えていたいんだけども。
あの後、私は、物だらけで足の踏み場もなかった部屋を片付けた。
どうしても必要な物だけを残して、あとは今の職場に引き取ってもらった。梢に手伝ってもらって掃除もして、今では人を呼べる程度には綺麗になっている。そして、その状態を、なんと一ヶ月維持した。
……半年前のあの日、家に帰った後、私は父さん母さんと話をした。そして訊いた。どうしてあなたたちは、私のプライベートに遠慮なくずかずか踏み込んでくるのか、と。
答えは「あなたがちゃんとしないから」。
頭の芯が熱くなるのを抑えつつ、私は頷いて訊き返した。「どうなったら『ちゃんとしてる』と思ってもらえるの」と。
答えは「ちゃんと片付けること」。
胸がむかむかするのを我慢して、私はまた訊き返した。「どういう状態になれば『ちゃんと片付いている』と思ってもらえるの」と。
答えは「いらないものがないこと、いるものが整理整頓されていること」。
そこでだいぶ言い合いになった。「いるもの」「いらないもの」の基準は、私と二人で違いすぎた。ほとんど喧嘩になりかけていた話し合いを、とりなしてくれたのは梢だった。
「パパとママがいらなくても、七葉姉には必要なものってあるから。それじゃあ、これでどう?」
いるものといらないものは私が決める。いるものはきちんと収納する。収納、つまり整理整頓ができているかどうかは、両親が定期的に確かめる。できていれば確認回数は減らしていく。最後の確認を終えたら、その時点で部屋の鍵を変え、以後勝手に踏み込むことはしない――この梢案で折り合いがついた。
そして最後に、梢は付け加えてくれた。
「七葉姉が片付けられるようになったら、当然、お部屋に人を呼んでもいいはずだよね?」
頷く両親の横で、梢は、私に向けて片目をつぶってみせた。
ちゃんとしてるかどうかの判定には、一ヶ月ではまだ少し早い気もするけれど……今は父さんも母さんも、私の話を聞いてくれる。それはたぶん、私が話を聞いたからだ。
ずいぶんいろいろなものの、声が聞こえるようになった気がする。声があるとは思っていなかったもの。声はあったけれど、聞こうとしていなかったもの。
声が聞こえるようになれば、昔のことも少し違う風に見えてくる。前の職場で動かせなかったプログラムのことも。たぶん私には「他の機能の声」が聞こえていなかったんだと思う。仕事で書くプログラムは、いろいろな設定や入出力を他の機能と合わせなければいけない。そうでないと全体は動かせない。あの頃の私に「声」が聞こえていたなら、結果は少し違っていたんだろうか……なんてことも、思ったりする。
とはいえ、それは過ぎたこと。いま私に聞こえているのは、一番辛かった時からずっと、ここで話を聞いてくれていたふたりの声だ。
「兄さんが、ちゃんと七葉さんのご両親にご挨拶できるか心配だよ……ほら、兄さんって愛想ないし」
「一応これでも、今は妖狐の頭領だからな……人であれ妖怪であれ、誰かを率いる者が、まともに会話もできなくてどうする」
「まあそうだね。でも、話す内容は事前に用意しといたほうがいいと思うよ? いざとなると、頭真っ白になるかもしれないし」
壮華くんが、笑いながらロールケーキをお皿に乗せている。蓮司くんの浅黒い顔が、またほんのり赤くなった気がした。
「蓮司様、おめでとうございます! そこでわたくしから、ひとつ提案があるのですが」
声をあげたのは、テーブル席の茶釜さんだった。結婚式の日と同じ、おっとりした声色と曇りない微笑みで、茶釜さんは言った。
「おふたりの前途を、『油揚げステーキ』でお祝いするのはいかがでしょう? 私たちの結婚式以来、あれはいちども供されていないそうですし」
「それは君が食べたいだけだろう? あれは特別な日の限定メニューだと――」
苦笑いする茶狐さんの肩を、茶釜さんは、うふふと笑いながら軽く叩いた。
「なら問題ありませんでしょう? ほかならぬ蓮司頭領様の、特別な日なのですから!」
店内から、大きな拍手が一斉にあがる。壮華くんが、うーんと呻きながら私の方を見た。
「この流れじゃあ、やるしかなさそうだね……七葉さん、梢さんに連絡取ってくれる? 油揚げステーキ、作りに来てくれないかって」
「バイトのない日なら、たぶん大丈夫だと思う。梢もたまにはこっちの近況、聞きたいと思うし」
「そうだね、僕も聞いてほしい話はあるし。たとえば――」
意味深な薄笑いを浮かべながら、壮華くんは私と蓮司くんを交互に見た。
「――不愛想で口下手でぼんやりしてて察しが悪くて危なっかしい上の兄弟が、自分の手を離れて遠くへ行っちゃいそうな時の気持ちとかね。話せるの、梢さんくらいだよ」
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味!」
大股でカウンターを出てきた蓮司くんが、壮華くんの頭を掴んでぐりぐりする。店内のあちこちであがった笑い声は、幸い、とてもあたたかかった。
壮華くんの話を、梢が聞く。梢の話は、きっと壮華くんが聞いてくれる。
……蓮司くんと私はこれから、父さんと母さんに話をする。一緒に、傍に居続けるために。
蓮司くんは、どんな話を聞かせてくれるんだろうか。晴れてお付き合いすることになったら……私と蓮司くんは、どんな話をしていくんだろうか。
たくさん聞かせてほしい。いくらでも聞きたい。
これまで私の声を、ずっと、聞いてくれていたあなただから。
【了】