気がつくと、私は誰かの膝の上にいた。見上げると蓮司くんが、ぐったりと肩を落としながら、赤味を含んだ目で私を見下ろしていた。頬に、涙が下った跡があった。
「……蓮司……くん? 私――」
言いかけて、辺りが奇妙に明るいことに気付いた。営業時間外の廃棄物集積場は、灯りもなくて暗かったはず。だのに今は、いくつもの電灯を煌々と点けているくらいに明るい。黒い澱みはすっかり消えていて、広い空間には、基盤や配線が剥き出しになった機械たちがうず高く積もっているばかりだ。
身体を起こしてみると、壊れた機械の山の上に、きらきら輝くもやが漂っている。光は、ここから来ているようだった。
清らかな光の下で、白髪のお婆さんが、気を失った壮華くんを抱いていた。かさついた長い髪に艶はなく、壮華くんの着物を撫でる手も皺だらけだった。着物の薄紫色は番紅花さんと同じだけれど、あの妖艶な美女の面影はまったくない。
妖怪垣を作っていたアルカナムのお客さんたちは、みんな疲れきった表情で、そこかしこに腰を下ろしたり横になったりしている。けれど、視線はみんな同じ方向――お婆さんと壮華くんの方を向いていた。
「ようやったな、娘よ」
番紅花さんと同じ着物の誰かは、皺だらけの顔をくしゃりと崩した。
「あの『影』どもを、よくぞ鎮めたものよ。あやかしの力も持たぬ身でありながら、のう」
私に言われているのだと、ようやく気付いた。確かに今、この場から「影」たちはいなくなっている。けど、鎮めたのかと言われれば自信はない。
「ありがとう、ございます……でもたぶんあの子たち、いなくなったわけではないです。少し眠っているだけで……なにかあったら、また起きるかも」
「それでよい。あやつらは、時至らずして起こされた者ども。無理に励起されぬ限りは、眠っておるじゃろう……そして」
お婆さんは、空中で浮かぶ光を眩しそうに見上げた。
「妾もそろそろ、眠る時が来た」
お婆さんの手が、腕の中の壮華くんを撫でた。背中を、肩を、皺だらけの手が、形をなぞるように伝う。あの冷ややかな番紅花さんだとは信じられないくらい、丁寧でやさしい手つきだった。
「母上! 抜かれた力を戻せば、今ならまだ――」
叫ぶ蓮司くんに、お婆さんはゆっくりと首を振った。
「息子が……蓮華が待っておるのでなあ。生命を繋ぐ力など、妾にはもう要らぬものよ……ただ、そうじゃな、次の頭領は決めておかねばならぬな。無用の諍いを呼ぶのは本意ではないゆえ」
お婆さんが皺だらけの手を上げると、光のもやが玉のように固まった。
そのとき、壮華くんが大きく身じろぎした。瞼がゆっくりと開き――くりくりした目が、大きく見開かれた。
「僕は、ぼく……は……」
「壮華!」
蓮司くんの声に応えて、壮華くんは振り向いた。けど今は、身体を起こす力もないようだった。
「ようやく起きたか、親不孝者よ」
番紅花さんのしわがれた声色が、言葉に似合わずやさしい。
「……ぼくは……しくじった、んだね……」
「己が手に余る力になど、手を伸ばせば滅びは必定。まこと、我が息子とは思えぬ大馬鹿者よ」
「ほんとだよね……返す言葉もないよ」
お婆さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「このような痴れ者に、妖狐の力など間違っても渡すわけにゆかぬわ」
皺だらけの手が、ゆっくりと蓮司くんの方に伸ばされた。光の玉が、同じ方向へゆっくりと動いていく。
「よいか蓮司よ。この力、愚かなる者に奪われぬよう、しかと守るのじゃぞ」
「お待ちください! これを失えば、母上は――」
慌てる蓮司くんへ、お婆さんはくしゃくしゃの顔で笑いかけた。
「言うたであろう、妾には無用のものだと。だが、妖狐の頭領の力、おまえには必要であろう……この力を継げば、おまえは妖狐として生きてゆける」
お婆さんが、いまの姿からは想像もつかない凛とした声で、高らかに叫んだ。
「我、番紅花、妖狐の長として、ここに家督を譲り渡す。我が息子たる妖狐『蓮司』が、我がすべての力を継ぐ者なり――」
言葉と同時に、光の玉が蓮司くんの頭上に降ってくる。
激しい光に、思わず目を閉じた。けれど強烈な光は、瞼越しでさえ眩しい。
「さあ、これよりおまえは妖狐の頭領。力も家屋敷も、得た物は好きに使うがよい。……馬鹿息子の処遇も、すべておまえ次第よ」
妖怪さんたちの叫びが、いくつも重なって聞こえてくる。皆、番紅花さんの名を悲しげに呼んでいた。
ゆっくりと、目を開ける。
蓮司くんの狐の尾が、増えていた。黒いふさふさの尾が九本。その背は、横たわるふたつの身体の前に屈み込んでいた。
うちのひとつ――壮華くんの身体は、ぐったりと横たわったままだ。くりくりした目に溜まった涙が、一筋流れ落ちるのが見えた。
「『息子』って、呼んでたね……最後まで、僕のことまで」
もうひとつは、狐だった。艶のない白い毛皮で覆われて、見るからに老いている。尾は太い一本だけで、息をしている様子は、ない。
私に動物の表情はわからない。けれど目を閉じた狐の顔は、安らかに笑っているように見えた。