泥の渦の中心で、番紅花さんは苦しげに、けれど愉快げに笑った。
「命乞い、か。許しを乞えば、助ける気があるのか?」
黒い波の動きが、少し緩やかになる。
「謝る気になったのかい?」
「訊いてみておるだけよ。許す気があるようには見えぬのでなあ」
はは、と、壮華くんは乾いた笑い声をあげた。
「『力』を、渡してくれないかな。妖狐の頭としての力を、全部。素直に渡してくれたら、命までは取らないよ」
「己が立場は、わかっておるようじゃな……壮華よ、蓮司よ、しょせん、おまえたちは付喪神のなりそこない。我が霊力によって生かされておる駒。妾を失えば、ただ消えゆくのみ」
「だから、もらうんだよ。あんたがいなくても、僕と兄さんが生きられるように。もう、あんたを――いや、他の何者も、恐れなくていいように!」
はっとした。
私が前職を辞めてきたとき、壮華くんは言っていた。「今まではクビが怖くて、できなかったこともあると思うんだけど……もう、何も恐れなくていいんだ、って思えば気が楽かも」。あの言葉は、壮華くんが誰かを恐れ続けていたからこそ、出てきたのかもしれなかった。
「断れば?」
「奪い取るだけさ」
黒い渦の動きが、再び速くなった。手を入れたら、ねじ切られそうなくらいに。
「この子たちは飢えてる……付喪神にさえなれなかった、機械の魂たち。僕と同じできそこない。僕の力じゃ、まともな形を与えることさえできなかったけれど――」
番紅花さんの肌から、みるみる艶が失われていく。銀色の髪も、先の方から、かさかさした白に変わっていく。
「――みんな、力には飢えてるから。喜んで喰らってくれるよ。骨の一本も残さずに」
心臓を、握りつぶされるように感じた。
壮華くん、本当に、番紅花さんを手にかけるつもりなんだ――腑に落ちた瞬間、私は叫んでいた。
「だめだよ、壮華くん……!」
壮華くんは振り向いてくれた。さっきまで話していた内容が嘘のように、いつもの優しい笑顔で。
「七葉さん。ごめんね、変なことに関わらせちゃって」
「そういうことじゃなくて!!」
私は必死に言葉を探した。知ってる誰かが、知ってる誰かの命を奪うなんて、そんなこと、あってほしくない。あっていいわけがない。
「やめようよ……こういうの。ふたりとも、ちょっと落ち着いて――」
「七葉さんの親御さんを巻き込んじゃったのは、申し訳なかったと思ってる」
話が噛み合ってない。わざと逸らしてるんだろうか。私の話なんて聞きたくないってことだろうか。
「この子たちは『捨てられたくない』んだ……だから自分たちを捨てようとする人や、逆に大事にしてくれそうな人は、見境なく取り込んでしまう。ごめんね、僕にもっと力があれば、ちゃんとコントロールできたんだけど。でも――」
壮華くんの手が、淡く光った。
「――今の僕は、少し強くなった」
やわらかい光が、目の前の「影」の壁に吸い込まれていく。次の瞬間、泥の壁の中から、見慣れた人の姿がふたつ吐き出されてきた。
「父さん。……母さん!」
揺すってみると意識はあった。目を覚ましたふたりは、力の入っていない手で私に抱きついてきた。
「七葉……七葉」
「大丈夫、だった……?」
背に回された手が震えている。私は父さんと母さんの背中を、ゆっくりと撫でた。ふたりとも、服は取り込まれた時のままだ。健康状態は……病院で診てもらわないとわからないけど、私の見るかぎり、大きな怪我や不調はなさそうに見える。
「さあ七葉さん。もうこれで、僕たちに関わる理由はなくなったよね」
言いつつ壮華くんは、番紅花さんの方へ向き直り――私に背を向けた。
「さよなら。楽しかったよ」
壮華くんの声はどこまでも明るい。どうしてこんな悲しいことを、こんなにさわやかに言えるのか。全然わからない。わかりたくもない。
「壮華くん、待って! 話を聞いてよ! せめて――」
叫ぶ私の肩に、固い掌が置かれた。
「七葉。まずは、ご両親を外へ」
蓮司くんだった。もう、泣いてはいなかった。涙の乾いた目で、守り刀を携え、壮華くんの背を見つめていた。
「……でも」
「あいつは俺がなんとかする。あんたは、あんたにしかできないことをしろ」
怖かった。取り返しのつかないことをしようとしている誰かを、そのままにして立ち去るのは不安だった。だけど、今は確かに、まずやるべきことがあるのかもしれなかった。
「わかった」
震える両親に肩を貸し、私は、集積所の建物を出た。
外に出れば、暗い空に星は見えない。街の灯りが強すぎて、小さな光は覆い隠されてしまう。
行儀が悪いとは思いつつ、私は父さんと母さんを地面に座らせた。まだ十月も半ば頃だから、幸いコンクリートは冷たくない。肩を落とした二人の顔を、交互に覗き込んでみる。
「大丈夫だった?」
訊くと母さんは震えだした。
「何も覚えてないけど……頭がおかしくなりそう。『助けて』『捨てないで』って……そんな言葉ばかり、ずっと聞こえてきて」
「七葉、おまえは大丈夫だったのか」
父さんの言葉に、どう答えたものか悩む。これまでのことを全部話しても、わかってもらえる気がしない。だから、短く返す。
「とりあえず命に別状はないよ。父さんも母さんも、怪我とかしてない?」
「今のところ、身体に痛むところはないが……いったい何があった。確かおまえの部屋を片付けて――」
あの夜のことを思い出すと、怒りがまた蘇ってくる。ふたりはいつも私のプライベートに踏み込んで、大切な物をめちゃくちゃにしていく。
けど今は心の隅に、ちょっと違う気持ちもあった。
父さんと母さんの話を聞きたい。どうして私の領域に無遠慮に踏み込んでくるのか、理由を聞かせてほしい。
うちよりもっとこじれちゃった親子のところで、話を聞いて、話を聞かせて、と叫んできたところだから……かもしれない。話を聞かないまま、聞かせないままじゃ、たぶん、私たちも前に進みようがないんだ。
どう切り出したものか迷っていると、あたりに突然、聞き覚えのある声が響き渡った。
「あー七葉姉! パパもママも!!」
振り向けば、梢がこちらへ駆けてくるところだった。背後には多くの妖怪さんたちが列をなしている。皆、アルカナムの常連さんたちだった。
「これまでにないくらい、たくさん『影』の気配が現れたっていうから……みんなを案内してきたんだよ。番紅花さん、ここにいるんだよね?」
頷くと、妖怪さんたちは我先にと集積場へ向かっていく。次々と横を通り過ぎていく妖怪さんたちを見送りながら、梢は父さんと母さんの前に屈み込んだ。
「パパ、ママ。大丈夫だった?」
「……梢」
母さんと梢が、無言で抱き合う。父さんの目に涙が浮かぶ。
見ていると、やっぱり私の入る余地なんてない気がしてくる。梢はいい子で、私はできそこないで……と思いかけたところで、頭の奥に、壮華くんの声が響いた。
(自分自身では形すら保てない、妖怪未満のできそこない)
(できそこないの付喪神もどきなんて――)
そうだ。
できそこないにだって、言いたいことくらいあるんだ。
それに、少なくとも私は人間だ。誰かの力で生かされてるわけでも、誰かの都合で消される存在でもない。だったら何だって言えるじゃないか。
「ねえ。父さん、母さん」
梢と抱き合っていたふたりが、私の方を向いた。
「家に帰ったら……一回ゆっくり、話をさせて」
ふたりは、何の話だと言わんばかりに首を傾げている。
でも、話を持ちかける機会は、きっと今しかない。捨てられたものの声をふたりが覚えている間に、私の気持ちを伝えたい。
「私ももう実家を出てるんだし。いろいろ、伝えたいことがあるんだ」
私の「許せない」ラインと、両親の「許せない」ラインは違う。だから、折り合わせないといけない。……大丈夫、こじれにこじれちゃった妖怪の親子よりは、まだ会話が成り立つはず。
それに。
「父さんと母さんの、言いたいことも聞くよ。……いちど、全部出しちゃおう」
考えてみれば、両親の言いたいことをちゃんと聞く機会も、長いことなかった。そして私の言いたいことは、全部蓮司くんと壮華くんに聞いてもらってた。親は、どうせ聞いてくれないと思っていたから。
父さんと母さんの答えを待っていると、ふたりより前に、梢が口を開いた。
「私もそれがいいと思う! 七葉姉、だいぶフラストレーション溜めてる感じだったし。なんなら私も立ち会うよ?」
梢の援護射撃が、とてもありがたい。首を傾げながらも、父さんと母さんは頷いてくれた。
「ありがとね梢。帰ったら家族会議だ」
言いつつ立ち上がって、服の土埃を払う。集積場に向かおうとすると、梢から声がかかった。
「行くの?」
「行く」
「とっても危なそうだよ?」
それはそうだろうね。私は大きく息を吐いて、肩越しに梢を見た。
「危ないのは確かだけど……蓮司くんと壮華くんが中にいるんだ。様子見てこないと」
言えば、梢の目つきがちょっと鋭くなった。短時間のアルバイトとはいえ、梢もアルカナムの従業員だ。同僚のことは気になるんだろう。特に壮華くんとは、料理繋がりで親しくなっていたし。
だったらなおのこと、梢に今の壮華くんは見せたくない。行くのは私ひとりでいい。
「梢は父さんと母さんを見てて。大丈夫、危なくなったらすぐ帰ってくるから」
せいいっぱいの笑顔を作ると、梢は反応に困ったようだった。励ませばいいのか止めればいいのか、迷っているみたいだった。けど、最後には一言だけを言ってきた。
「……気をつけてね」
梢へガッツポーズを作ってみせて、私は、集積所へと踵を返した。