蓮司くんの表情は、表向き変わっていなかった。けれど短刀を握る手が、ひどく震えている。蓮司くんは気持ちが顔に出にくい性質だから、きっと今は、とても動揺しているんだと思う。
「そんなはずは、ない。俺は、確かに覚えている」
喋り方も落ち着いている。けれどやっぱり、揺らぎの色が抑えきれていない。
「子供の頃、母上に面倒をみていただいたことも。壮華や屋敷の者たちと遊んだことも。はじめて、コーヒー豆を挽いた日のことも……確かに、覚えて――」
言葉が、急に途切れる。右手は短刀を握ったまま、蓮司くんは、左手で額を押さえた。
「……違う。豆を挽いたのは……俺じゃない。白い手の誰か……壮華? 違う、あいつは、豆もミルも触らない、触ったこともない――」
蓮司くんの目が、大きく見開かれる。傍で見ていてもわかるくらいに、息が荒くなっていく。
「兄さん、考えちゃだめだ!」
壮華くんが叫ぶ。
「兄さんは兄さんだ! だから余計なこと――」
「やれやれ。わかっておったであろう、こうなることは」
かすれた声で、番紅花さんが哄笑する。
「妾の力が失われれば、隠れていたものもすべて露になる。当然の道理にも思い至らぬとは、浅知恵にもほどがあるのう」
「……壮華」
頭を振りながら、蓮司くんは声を絞り出した。
「説明してくれ。何がどうなってるのか、俺にはさっぱりわからない……知らなくていいとか言うなよ、俺はおまえの兄だ。そのうえ戒め部屋に放り込まれたり、散々迷惑こうむってる」
「嫌だって言ったら?」
「この場で兄弟の縁を切る。もう、兄とも弟とも思わん」
壮華くんは、少し困った感じの苦笑いを浮かべた。眼光が和らいだせいか、いまの壮華くんの顔は、いつもの小動物めいた微笑みに近い……でもこの状況だから、正直、明るさが空恐ろしい。
「僕が黙ってても、そこの女狐があることないこと喋っちゃうだろうしね。わかったよ」
これみよがしに大きな溜息をついて、壮華くんは蓮司くんに向き直った。
「さっき聞かされた通り、僕と兄さんはそこの女狐――番紅花の息子じゃない。もっと言うなら、妖狐ですらない」
壮華くんは、懐から小さな箱を取り出した。アルカナムでいつも使っていた、タロットカードのデッキだった。それを自分の顔の横に上げて、壮華くんはまばゆいばかりの笑顔を浮かべた。
「これが、僕だよ」
言っていることが、よくわからない。
「……どういうことだ?」
「言ってる通りの意味だよ。このカードが僕だってこと。……より正しく言えば、僕は、このカードに宿った付喪神だ」
横から、番紅花さんのかすれた声が挟まる。
「正しくは付喪神ですらないがな。九十九年を経ておらぬ、なりそこないの魂にすぎぬ」
「悔しいけどそのとおりだよ。自分自身では形すら保てない、妖怪未満のできそこない……それが僕だ」
ふう、と大きく息を吐き、壮華くんは天井を仰いだ。
「昔々……といっても数十年前だけどね。妖狐の女頭領には跡継ぎ息子がいた。
「……蓮華は海の向こうに憧れておった。舶来の物を好んでな、特に占いやまじないに目がなかった。星を読むと言って奇妙な図を書いてみたり、売り出されたばかりの占い札を取り寄せて、熱心にめくってみたりしてな。そして――」
語る番紅花さんの目は、ここではないどこか遠くを見ているように思えた。
「――舶来の豆を、薬と信じて熱心に飲んでおった。奇妙な器具で豆を挽き、黒い汁を煮出してな。妾には苦くて飲めたものではなかったが、蓮華はあの香りをことのほか好んでおったなあ」
「……覚えている」
いつのまにか、蓮司くんは涙を流していた。左手で額を押さえて、うなだれながら。
「今は、はっきり思い出せる……俺と壮華と同じ顔の誰かが、ミルのハンドルを回しているところを。俺と同じ銀の髪、壮華と同じ白い肌の、誰かが」
私はそっと、蓮司くんの背中を撫でた。今この場で、私にできることはそれだけだった。
「白い誰かは、俺じゃない……俺に見えてるなら、それは自分の姿形じゃない。なら、俺は――」
「……たぶん、もう気付いてると思うけど」
壮華くんは一瞬黙った後、ためらいつつも口を開いた。
「アルカナムで、兄さんがいつも使ってるコーヒーミル。あれはもともと、蓮華さんが使っていたもので――」
「そうか」
蓮司くんは涙を流したまま、自嘲気味に笑った。
「あれが、俺か……あれに触っていると、落ち着くとは思っていた」
壮華くんは悲しげに笑っていた。やさしくて人好きのする壮華くんが、今だけは戻ってきたみたいだった。
「兄さんには知ってほしくなかった。狐の子のままで、僕の兄さんのままで、いてほしかった。いなくなった誰かの代わりだなんて、思ってほしくなかった……だから少しの間だけ、戒め部屋に入っていてほしかったんだけどね。すべてが終わった後、僕が迎えに行くまでは」
「して、壮華よ。おまえに真実を洩らした者は誰だ。我が狐どもには、固く口止めしてあったはずだが」
番紅花さんに問われ、壮華くんの顔から見る間に柔らかさが消えた。冷酷さのこもった目が、黒泥に埋もれた妖狐の頭領をにらみつけた。
「『僕』が、教えてくれたよ」
言いつつ壮華くんは、手に持ったままのカードデッキを高く掲げた。
「僕自身を占うと、いつも結果がおかしくてね。心の傷や悲しみ……そんなカードばかり出てくる。変だと思って、いろいろ調べ始めて……立入禁止の書庫に忍び込んで、全部思い出した。子供の頃の記憶だと信じてたものが、全部嘘だったともわかったよ」
言葉とは裏腹に、壮華くんの表情は朗らかな、曇りひとつない笑顔だった。
「酷いじゃないか。ただ持ち主を慕っていただけの魂に、偽の記憶を植え付けてこき使うなんてさ。親のふりなんてして、子のふりなんてさせて、可愛がるわけでもなく駒にして……どうしてそんな真似ができるのか、僕にはさっぱりわからない」
壮華くんは、泥に埋もれたままの番紅花さんへ向き直った。
「しょせん、何もできないと思ってたのかな。できそこないの付喪神もどきなんて、簡単に騙せるし、こき使っても問題ないし、仮に反逆してもすぐ消せる、と……でもね」
壮華くんが右手を上げると、番紅花さんが激しい呻きをあげた。泥に呑まれたままの身体の周りで、激しい波が渦巻いている。まるで、中心の何かを引きちぎろうとするかのように。
「できそこないでも束になれば、強い者ひとりを押し潰すことだってできる」
泥が激しく渦を巻き、番紅花さんの高い叫びがあがった。
「さあ、命乞いをするなら今のうちだ。見捨てられた者の、できそこないと呼ばれた者の恨み、その身でたっぷりと味わってもらうよ?」
真昼の太陽のように屈託ない笑顔で、壮華くんは愉快げに言った。