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ゴミ袋と怪異

 私の住んでいるマンションは、古橋駅から歩いて十分ほどの所にある。アルカナムを出て中央通りに戻って、道なりに進んでいくつも信号を抜ければ、雑居ビルの群れがだんだんマンションに替わっていく。嫌な予感に追い立てられるように、私は交差点を曲がった。

 少し進むと、煉瓦色の外壁が見えてくる。ここ「コーポ古橋」の三階、三三七号室が私の部屋だ。

 エレベーターを出ると、三三七号室から出てきた人影と鉢合わせた。シンプルなグレーのポロシャツに、細いジーンズをはいたセミロングヘアの女子は、満面の笑みで私に話しかけてきた。


「あ、七葉姉おかえり! 早かったね」


 妹の梢だ。いつもの無邪気な笑顔で、目を細めて話しかけられると、さっきまでの焦りとイライラが半分くらい溶けて流れる気がする……けど半分になっても、元が多くて強い。私は梢をにらみつけた。


「梢、退職の話、父さんたちに言った!?」

「ああごめん。黙ってようと思ってたんだけど、残業多いの気にしてたからさ……どうせ今月で終わりだから、って、ぽろっと」

「ぽろっと、で済む話じゃない!」

「でもどうせバレる話でしょ? 多少早くなったところで――」


 笑ったままの梢の後ろで、部屋の扉が開いた。玄関には、古橋市指定のゴミ袋がぎゅうぎゅうに積まれていて、触ったら崩れてきそうだ。半透明の袋から透けて見える中身に、私は驚いて声を上げた。


「ちょっと、これ捨てたの!?」

「これってどれ」

「全部! 全部だけど……たとえばこれとか」


 私は、「古橋市指定」の文字の隙間に見えるチラシを指差した。駅前のハンバーガーショップのキャンペーン広告だった。


「これ、クーポンついてたのに……週末ぐらいに食べに行くつもりで、とってあったのに」

「期限、今日だったわよ。ほんといつも、使わないクーポンばっかり溜め込んで」


 母さんの声と共に、目の前にまた、新しいゴミ袋がどさりと置かれた。中身はだいたい布系で……ビニール越しに、ぐしゃぐしゃに折られた兎の耳が、ある。私の大事なぬいぐるみ――うさことミミ吉だった。

 絡まるように詰め込まれた、白い耳と茶色の耳。袋の口を開けて助け出そうとすると、急に、手の甲に痛みが走った。


「なにやってる」


 冷ややかな父さんの声が飛んでくる。私は、玄関の奥を全力でにらんだ。


「勝手に入らないでって、いつも言ってるじゃない!」

「そういうことは、一人で片付けできるようになってから言いなさい」


 露骨な溜息を混ぜながら、母さんが言ってくる。

 奥に見える私の部屋は、ぐちゃぐちゃになっていた。それに、とっておいた物がたくさんなくなってる。あとで読もうと思っていた雑誌も、再利用するつもりで綺麗に剥がした包装紙やリボンも、寄付に持って行くつもりだった古切手も、全部なくなっている。

 仕分けして整理できないのは、確かに私が悪いかもしれない。でも、全部いっぺんに捨てるのはひどいと思う。


「七葉、あなたほんと、どうしてこんな子に育ったのかしらね。放っとくとすぐ、部屋をゴミだらけにしちゃって」

「ゴミじゃない!」


 うさことミミ吉の袋だけでも取ろうとすると、また父さんに手を叩かれた。

 思い出す。あの日も、こんな風に捨てられたんだ。「最初の」うさことミミ吉も。小学校から帰ってきたら、部屋の中がからっぽになっていて、私の大切なものが全部なくなってたんだ。


「返してよ! 勝手に捨てないでよ!!」


 立ちふさがる父さんの後ろで、母さんが部屋のものを端からゴミ袋に詰めていく。


「あなたに任せといたら、人間の住める場所じゃなくなっちゃうわ。……梢はちゃんと片付けられるのにねえ」


 この人たちはいつもそうだ。

 ひとの物を勝手に捨てて。梢よりも出来が悪いと罵ってきて。就職してようやく離れられたと思ったのに、なにかあるたびに押しかけてくる。

 なんで、勝手に決められなきゃいけないんだろう。捨てるものと残すものを、この人たちに。

 強い怒りが、沸き起こってくる。


「勝手に決めないでよ! ここ私の部屋だよ。ここにあるもの、全部私のだよ!」


 今ある力を全部、声に籠める。


「近所迷惑だぞ。今何時だと思ってる」


 知ったことか。


「いらないものは、全部ゴミだって言うのなら――」


 聞く耳持ってない父さんに、手を止めもせずにひとのものをゴミ袋に詰め続ける母さんに、全力の呪詛を叩きつける。知らず、涙があふれてくる。


「――あなたたちが、一番のゴミだよ!」

「ちょ、ちょっと、七葉姉」


 梢がなだめに来ても、堰を切った言葉は止まらない。視界が涙でぐちゃぐちゃになる。


「いなくなってよ! 今すぐ消えてよ! 人間を捨てられるゴミ箱があるなら、あんたたち二人とも捨ててやる」

「七葉姉!」


 梢が叫ぶ。


「ほっといて梢! もう、やってられな――」

「そうじゃなくって!!」


 切羽詰まった声色で、ようやく気付いた。

 辺りが暗い。玄関の灯りは点いているはずなのに、豆球の灯り並みに光が弱い。


「ヤバい……ヤバいよ、七葉姉」


 梢の声が震えている。


「パパ、ママ、大丈夫!? 聞こえてたら返事して!?」


 梢の声色が切羽詰まってくる。涙を拭って、あらためて前を見た。


「ひ……っ」


 パパは変わらず、私の前に立っていた。けれど顔は土気色で、まばたきもしていなくて、固まった手足はぴくりとも動いていない。胴体には真っ黒な泥が絡みついて、巨大なアメーバみたいにのそのそ蠢いていた。


「い、いったい何なの!?」


 息を呑む。ママもパパの後ろで固まっていて、同じような泥に呑まれかけている。部屋の中は、壁も天井も泥にまみれて真っ黒だ。黒がすっかり光を吸い込んで、灯りがあるのかないのかさえ、もうわからない。


「梢! いる!?」

「ここだよ、お姉ちゃん!」


 私のもとに走り寄ってくる梢の前で、パパとママはすっかり泥に覆われてしまった。黒い人型は、見る間に体積を減らし、細く低くなっていく。

 逃げなきゃ。このままじゃ、私たちも襲われる。

 だけど、でも、父さんと母さんを見捨てていいの?


「七葉姉! 逃げよう!!」

「え、あ、でも、父さんたちが」


 二人を心配する心が残っていたことに、少し自分で驚きつつも、足が動かない。


「なんかあれ、めちゃくちゃヤバいって! まずどっか安全な――」


 梢に手を引かれつつも、身体がすくんで動けない。さっきまで父さんだった黒い人型は、目の前で地面に崩れて、黒い泥の海になって広がった。少し遅れて、母さんも。

 広がる黒が、玄関を滴り落ちて、ゴミ袋の隙間を縫って、這い寄ってくる――私の足元に。

 それでも足は動かなかった。なぜこんなに身体がガタガタ震えているのか、わからない。わからないけれど、手にも足にも、まるで力が入らない。

 私も、溶かされてしまうんだろうか――流れてくる泥を見ながら、目を閉じた時。

 急に、瞼の裏が白く染まった。

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