「おかわりはいいか?」
蓮司くんが訊いてくる。アルカナムはコーヒーのおかわりが割引になってて、二杯目以降は一杯百五十円で飲める。駅前どころか、住宅街の喫茶店と比べても破格の安さだと思うんだけど、なんでお客が入らないのか本当にわからない。
「そうだね、頼みたいのは山々だけど……今日は、あんまり飲んだら眠れなくなりそう」
「なら、ホットミルクにしてみるか。ジュースもあるが」
ちょっと考え込む。ああは言ったけど、せっかく蓮司くんのコーヒーが飲める席にいるのに、ミルクやジュースってのも少し味気ない。
「間取って、カフェオレでいいかな。ホットで」
軽く頷いて、蓮司くんはカウンターの向こうに回る。すかさず、壮華くんが空になった机を拭いてくれた。お礼を言うと、くりくりした目が悪戯っぽく細まった。
「できるまでに、カード引いてみる?」
「引く引く!」
アルカナム名物、壮華くんのタロット占いだ。一応、単独で頼むと一回五百円ってことになってるんだけど、一品以上注文したらサービスで無料になるから、お金を払った記憶はない。
きれいにした机の上に、壮華くんが黒いベルベットの布を広げて、いつもの使い込まれたカードデッキを裏向きに置いた。ふと、不安になってくる。
「今のこの状況で、『死神』とか出たら嫌だなあ」
壮華くんは、やさしく笑いながら首を横に振った。
「そうでもないかな。今日『死神』が出るとしたら、それは吉兆だと思うよ」
「え、そうなの?」
「『死神』は『ひとつのことが終わって、新しいことが始まる』って意味だからね。今出てくるなら、悪い流れを断ち切って新しい方に行ける証だと思うよ。というより、タロットは吉凶占いじゃないから、悪いカードってものはないよ」
腑に落ちきらないけど、人好きのする笑顔で明るく説明してもらうと、そんな気もしてくる。壮華くんは黒布の上で、手早くカードを混ぜてまとめ直した。
「さ、一枚引いてみて。いつもどおり、上下は逆にしないでね」
横一列に広げられた七十八枚の中から、真ん中少し右あたりの一枚を引き出して、表に返す。
「……あ」
思わず、声が出た。
ベッドから身を起こした誰かが、顔を覆って泣いている。真っ黒な背景に、剣が九本浮かんでいる。絵柄が、あからさまに鬱々しい。
「ソード九の正位置だね。深い嘆きとか、夜も眠れないほどの心の痛みとか……『完全な悲しみのカード』って言われてるね」
「それ、ものすごく悪いんじゃない……?」
「本当にそうかな?」
壮華くんは、私の肩をやさしく撫でながら目を細めた。
「七葉さん、これまですごくがんばってたじゃない。お仕事ちゃんとしなきゃ、きちんとしなきゃって。きっとその間、悲しいとか辛いとかは考えないようにしてたと思うんだ」
「そうかも……しれないけど」
確かに言う通りかもしれないけど、なんだかやっぱり釈然としない。壮華くんは続ける。
「でも、もうその必要はないから。一度、『ちゃんと悲しんでおく』必要があるのかもしれないよ。その時は僕たちが――あっ」
気がつくと、カフェオレのマグをお盆に乗せた蓮司くんが横に立っていた。カードとクロスをしまおうとする白い手を、蓮司くんはじろりと見た。
「今回のカードはこれか」
「そうだね、ソードの九。七葉さん、本当に傷ついてるんだと思うよ。お仕事の――」
「……いや」
蓮司くんが、急に険しい顔になった。声色が、急に険を含みはじめた。
「これは、今までのことじゃない……これからだ」
「え?」
私と壮華くんが、同時に蓮司くんの顔を見た。細めた目が、剣の並ぶカードを、焼き切れそうなくらいの眼光でにらみつけている。
「七葉、気をつけろ。なにかが起きる」
「蓮司くん……タロット読めたの?」
「いや、兄さんは詳しい意味までは知らないはず。けど」
壮華くんまで、つられて声が低くなっている。
「これは、本当に気をつけた方がいい。兄さんが口を挟んでくるときは、確かにいつも……なにかあるから」
「え、ちょっと」
二人して脅してくるとかひどい――そう言おうとした時、スマホが震えた。ショートメールの着信通知だった。
『七葉姉 今、パパとママとお部屋掃除してます。九時に帰ってくる前には綺麗にしときますね。梢』
顔から血の気が引いていくのが、自分でわかった。鞄を抱えて、私は席を立った。
「どうした」
「ごめん、ちょっと急ぎの用事ができちゃって……お会計、これで」
お金を渡すと、蓮司くんは顔を曇らせた。私を帰したくない……のだろうか。
「……くれぐれも気をつけろよ。月が翳る夜の一人歩きは」
「分かった。……ありがと」
蓮司くんにそれしか返せないまま、私は喫茶アルカナムを後にした。