九月三十日。気の早いハロウィンフェアの告知が並び始めた中央通りをしばらく進み、コンビニの角を左に曲がる。そこから五軒目に、海鮮居酒屋の派手な看板がある。でも、入るのはここじゃない。派手な看板に隠れるように建つ、一つ隣の地味な雑居ビルが本当の目的地だ。
赤色がすっかり褪せた『英国風喫茶アルカナム』の文字を横目に見ながら、地下階へ向かう階段を降りる。メッキが剥げかけたドアノブを押すと、からんからんとベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。何名様で……あ、七葉さん!」
駆け寄ってきたエプロン姿の男の子が、癖のある黒髪を揺らしつつ満面の笑みを浮かべる。いや、実際は「男の子」なんて歳じゃないのは知ってるんだけど、小動物っぽい仕草や人懐っこい笑顔を見ていると、どうにもこの子が成人男性という感じがしない。
「こんばんは、
私の声かけさえ待たずに、壮華くんはカウンター席の椅子を引いて、お冷とおしぼりを手早く並べた。机の向こうでは、色黒銀髪の青年――蓮司くんが、揃いのエプロン姿でコーヒー豆を挽いている。豆と刃が擦れる乾いた音が響く中、浅黒い手は一心にコーヒーミルのハンドルを回していて、私にまったく気付いていない。珍しいな、いつもなら、店に入ると同時にぎろっと睨んでくるのに。敵意は全然ないんだけども、正面から見つめられると震えが走るような目で。
「こんばんは」
声をかけると、蓮司くんは手を止めて私を見た。切れ長の目が一瞬大きく見開かれて、すぐにまた細くなった。いつもの、肉食獣めいた鋭い、ちょっと怖い目だ。だのになぜか、この目に見つめられると安心する。
蓮司くんと壮華くんは双子だ。だから、並ぶと顔立ちはそっくり同じだ。けれど蓮司くんは浅黒い肌に銀色の髪、壮華くんは真っ白の肌に黒髪だから、見間違えることはない。……同じ血を分けた兄弟が、ここまで白黒反転したような見た目になるのは不思議だけど、広い世の中、そういうことも時にはあるのかもしれない。
表情もふたりは対照的で、蓮司くんは鋭い目つきで寡黙、壮華くんはいつもにこにこしていて愛想がいい。鋭い蓮司くんとやわらかい壮華くん、色々な意味で対照的だけど、ふたりとも、私の話を真剣に聞いてくれることだけは変わりない。
「……無事だったか、七葉。よくここまでたどりついたな」
どこか大仰な口調に、少し可笑しくなる。笑える余裕が出てきたのは、蓮司くんの顔を見たからかもしれない。
「別に何もないよ、ここは令和の日本だし。月のない夜に闇討ちとか、してくる奴はいないって」
口角を上げつつ、できるかぎりの明るい声を作ると、蓮司くんは少し首を傾げた。
「……さっきよりは元気そうだな」
「蓮司兄さん、さっきからずっと心配してたんだよ。七葉さんが消えてしまうかもしれない、って」
「そんな、大げさだよ! 別に――」
消えるような理由なんて、と言いかけて、喉が詰まった。
ここまでこらえてたものが、一気にせりあがってくる。重い鞄を抱いたまま、肩が震えはじめた。
「……そうだね。会社、辞めてきたし」
正確には辞めさせられた――というか、試用期間後に正式採用してもらえなかったんだけど、その話はもう何回もしてるから、繰り返さずにおく。
「みんなに『次の職場では迷惑かけるなよ』って言われた。……私、よっぽど迷惑だったんだね」
お荷物。役立たず。ひとりよがり。ずっと、それに類することばかり言われ続けてきた。そんなことないと、自分では思ってた。指示された通りのプログラムは、ちゃんと書けてたはずなのに。
「言われたお仕事は、そのとおりにやってたはずなのに。何がいけなかったのか、ちっともわからない」
元々、アプリやスマホゲームを触るのが好きだった。好きすぎて、ごく簡単なアプリなら自分で作れるようになった。将来のお仕事はプログラミングしかないと、ずっと思ってた。
だけど、仕事で作るシステムは、自分ひとりで作るアプリとは全然違ってた。手元のパソコンでは動いていたプログラムが、テスト用のサーバに乗せるとエラーになる。何回見直しても、どこがおかしいのか全然わからない。一、二時間ぐらい悩んでも直らなくて、しかたなく先輩に相談に行くと、あっという間に動くようになった。けど後で見てみると、書き変わっていたのはいつも二、三行だった。
「毎回『詰まったらすぐ質問して』って言われるんだけど……質問しても怒られるばっかりで」
足りなかったのはいつも数行だった。でも、たったそれだけが分からない。何時間も悩んだ後に訊きに行くと、先輩たちは決まって「どこが分からない?」と訊き返してきた。正直に「どこが分からないのか分かりません」と答えると、返ってくる言葉はいつも一緒だった。
(そういうことは、何十分も悩む前に言って。五分考えて分からなかったら、訊きに来て)
冷たい苦笑いが本当に悔しくて、次からは自分でなんとかするんだって、一生懸命自分で調べて、でもどうにもならなくて、仕事は全然進まなくて……そのうちに、先輩は声をかけてくれなくなった。仕事も取り上げられた。
「プログラムだけは、できると思ってたんだけどね……私にできること、ほんとに、何もなくなっちゃった」
泣きたいだけ泣いて、泣き疲れて顔を上げると、目の前に蓮司くんの浅黒い顔があった。相変わらずの鋭い目に、正面からじっと見つめられると、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「……ごめんね。取り乱しちゃって」
「飲め」
蓮司くんが目で示した先では、臙脂色のマグカップが細い湯気を立てていた。白い液面から、ほんのり甘い香りが漂ってくる。
「私、もう注文してたっけ」
「サービスだ。……落ち着くには、ホットミルクがいいだろう」
口をつけると、こくのある牛乳に上品な甘味が混じっている。たぶん蜂蜜だと思う。やさしい温かさと糖分が、喉と胃袋からじんわり身体に満ちていく。胸の辺りにつかえていたものが、ほんの少し溶けた、感じがする。
少し温まった息を、ふう、と吐いて、顔を上げる。
目の前は、いつも通りのアルカナムだった。英国風という触れ込み通り、古びた洋風の椅子やテーブルが並んでいるけれど、アンティークものに詳しくない私には、それが本当に「英国風」なのかよくわからない。フランス風やイタリア風がこっそり混じってても、きっと気付かない。
ただ、そんな私でも、お店の売りが「挽きたてコーヒー」なのはちょっとおかしいと感じる。英国風喫茶なら、出てくるのは紅茶じゃないんだろうか。フランス語名やイタリア語名のお菓子も普通に出てくるし、ここの「英国風」はだいぶいい加減だと感じる。
まあ、そんな大雑把さも、私としては嫌いじゃない。ゆるいお店で、ゆるく話を聞いてもらえる――それが、私にとっては一番大事だから。
会社に捨てられても、両親に馬鹿にされても、この店のふたりだけは私の傍にいてくれる。そんな気が、していた。