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第三十二話 海に降る雪

──今から七・八年くらい前のことだが、アルモリカの海に珍しく雪のようなものが見えた年があった。


 静まりかえる海の水は、ただ深く、沈黙していた。

 人の想いすら溶かしこむように。

 その日の波は、穏やかだった──


 深い海の底に、太陽の光が深く差し込んでいる。

 その光はだんだんと暗くなり、珊瑚礁へと向かった。

 赤や茶色の珊瑚礁は、青緑色の水と色鮮やかな魚の群れとともに、美しいコントラストを生み出している。

 広がる陽の光を反射したその鱗は、きらきらと輝いていた。


 月夜の浜辺のような微光がただよっている海底で、人魚の親子が二人、大きな岩に腰掛けつつ、水面を眺めていた。


 遥か上のあたりから、

 ふわふわ、ふわふわと、

 小さくて真っ白いものが無数に舞い降りてきている。 


 子供の人魚は降りてきているものを指さしながら、パライバ・ブルーの瞳をきらきらと輝かせていた。


「父上、あれは何ですか?」 

「あれか? あれはな、地上ではマリンスノーと言われているものだ」

「マリンスノー?」

「ああ。〝海に降る雪〟だ。まるで雪みたいだろう?」


 彼らのまわりにも、ふわふわとした柔らかいものが降りてきている。


「とっても綺麗ですね」

「あれはな、この海の中で生きている小さな生物の死骸だ」

「死骸!?」

「ああ。そうだ。今我々の周りを取り囲むこの海の中、この中で生きている小さな生物の、生きていた証だ」


 彼らはこのような光の届かない、深い海に生息する生物が食べる貴重な餌となっている。

 そしてつかもうとしても、すぐに壊れて消えてしまう、大変脆いものだ。


 父王が試しに手を伸ばしてみせたが、その白い浮遊物はとらえられることなく、あっという間に消えていった。

 まるで、溶けて消えゆく白雪のように。 


 彼は息子に語りかけた。

 春の海のように穏やかな光を瞳にたたえながら。 


「息子よ。良く見ておくがいい」


 生命は生まれ、やがて老いて死ぬ。 

 そして、あっけなく失われてゆくものだ。


「生まれたものに死は平等に訪れる。それはどんな生き物にとっても同じことだ。そして、いつ訪れるかは誰にも分からない。生命は脆く、儚いもの。だからこそ、大切に生きねばならない」 

「はい。父上」 

「我々シアーズ家の者は何百人、何千人、何万人ものアルモリカ族の生命を守るよう運命づけられた一族だ。アリオン。今日のことを良く覚えていて欲しい」


 父王は、パライバ・ブルーに穏やかな光を浮かべた瞳で息子の顔を見ながら、語り続けた。 


「今は私とお前の母親が担っているこの任を、いつかはお前に引き継ぐことになるだろう。どうか、次の世代にも引き継いで行って欲しい」


 我々は生き続ける。

 この脆く儚く美しい生命達を守り続けながら。

 生命の営みを、輝きを。

 見守りながら、生き続けてゆく。


 波の動きに合わせて、

 まっ白なマリンスノーがあたりに舞い踊っていた。


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