アーサーの家はコルアイヌ王国の領地内の、アモイ山中にある。
彼はかつて、コルアイヌ王国の中心都市であるダヴァンに住んでいた。丁度レイアが住んでいる家の近所で、彼女の養親であるレイチェルとも顔なじみだった。
彼は王宮へ勤めるようになった際に生家を出て以来、ダヴァンでは過ごしていない。彼の生家は両親亡き後、土地ごと売り払っている為、今は他人が住んでいる。
アーサーは優れた槍の使い手だった為、十八歳には兵の武術指導者をしていた。王宮へは数年勤めた後辞退し、今は様々な依頼を受けつつ、槍術の特別指南役として時々王宮へあがるという生活スタイルだ。
不定期でも構わないから残ってもらえるよう王から依頼されている時点で、彼は国から相当気に入られているようである。こういうケースは大変珍しい。
窮屈さを嫌う彼にとっては、王宮勤めより今の仕事スタイルが性にあっているようで、家にいる時はのびのびしている。
国から支給される賃金は、独り者が暮らすには充分過ぎる額だった。常に王宮にいた頃より額は下がったが、比較的地味な生活を送る彼は特に困っていないようである。
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──さて、レイア達がアーサー宅を訪れて二・三日経った頃。
朝早くから庭でヒュン、ヒュンと風を切る音がした。一度ではなく、何度もだ。
(何だろう? 朝っぱらから)
アーサーが静かに戸を開けて見ると、少し離れたところに一人の少女が立っていた。
こちらからは右の頬が見えている。
濃い茶色の髪を高く結い上げ一つに結んだ娘が、鞘をつけたままの剣を真っ直ぐに降ろしたり、横に薙いだりしていた。
その度に後ろ髪が、よくしなった鞭のように勢いよく跳ね跳んだ。
額から流れてきたしずくに、光が当たってきらりと輝いている。
開けた戸のすき間からその姿を見ていた口元が緩んだ。
「朝早くから精が出るな。レイア」
「ああ。おはよう、アーサー。のんびりするばかりだと、身体がなまっちゃうからねぇ!」
「久し振りに俺と一勝負どうだ?」
「良いよ。でもお前大丈夫か? 王宮へはもう毎日は行っていないのだろう?」
「どちらかといえば、今の生活の方が実践的だがな。王宮では指南役という名前の監督兼指導係だ。お前が思っている以上に身体を動かすことはない。勿論、勤め始めの方が良く動いてたがな。今思えば下っ端だった頃が気楽で一番良かったよ」
「一気に昇進ということは、腕がそれだけ良かったってことだろう? しかしすぐ辞めちゃうなんて、もったいない」
アーサーは壁に掛けていた鍛錬用の丸太を二本とり、大きな溜め息を一つついた。表情をやや曇らせている。
「城仕えは結構大変なんだぞ。本当は完全に辞めたかったが、王が許してくれなかった」
「人気者はつらいな。でも、理由があるんだろ? 完全に辞められない理由」
「……まあな」
アーサーは手にした丸太を一本、レイアに投げて寄越した。パシリと乾いた音を立ててそれは彼女の手のひらにおさまった。かろうじて握れるような太さの丸太は、ずしりとした重みがある。
「詳細は知らないけど、まあ、生活の糧の一つとすれば良いじゃない」
「否定はしないが、随分と現実的だな」
「日銭がなければ生きていけないからな。それでは、アーサー・シルヴェスター殿。いざ手合わせ願おうか!」
「良かろう。レイア・ガルブレイス君。かかってき給え」
ややおちゃらけたやり取りをしていた二人は、一旦構えると、ともに眼光を光らせた。
その瞬間足元の草の切れ端が舞い飛び、二人の身体は青臭い臭いに包まれた。
右、左、上、下、斜め上、斜め下……。
片方が攻撃に転じれば、相手は受けの姿勢をとる。
カン、カン、カン、カン、カン、カン……。
二本の丸太がかみ合い、
こ気味のいい音が周囲に響き渡った。
両者ともにほぼ互角の撃ち合いだ。
レイアの身のこなしは滑らかで、まるで舞を舞っているかのような動きだ。
休息させていた分の取り戻しは、充分出来ているようである。
(彼女は大丈夫のようだな)
動きのキレを見た彼は一安心した。
アーサーは基本的には槍使いだが、剣術も使えるうえ弓術もこなせる。武術一通り指導出来る程の力を持っている。
レイチェルが護身の為と、幼いレイアに剣術を教え始めてから、レイアとアーサーは二人の時、一緒に鍛錬するようになった。五つ違いで、城に上がる前だったアーサーにとって、レイアは丁度いい練習相手だったのだ。その際、手のサイズにあわせた丸太を剣代わりにして打ち合っていた。だから、太刀筋や動きの癖といったものを互いに知り尽くしている。
ふと昔を思い出したのか、コルアイヌ王国へと引っ越してきたばかりの、可憐な少女の姿が彼の脳裏をよぎった。あの頃のレイアは自信もなく、恥ずかしがり屋で、常にレイチェルの後ろに隠れたがるように逃げていた。現在そんな面影は全てかき消えており、今や背の高さも養親と同じ位となった。良い面構えをするようになっている。
自然と動きを止めたアーサーを不審に思い、レイアは腕を下におろした。
「アーサー? 一体どうした?」
「いや……昔を懐かしく思い出してね。まさか、あの頃レイチェルさんに連れられた可愛い子が、まさかこんな風に育つとは夢にも思わなかったなぁと」
「何さ。皮肉か?」
「褒めてるんだよ。あの時のお前はまだ何も分からずおどおどしてたじゃねぇか。随分たくましくなったと思ってな」
アーサーの言葉を聞いたレイアは、不満気に頬をぷうと膨らませ、それを見た彼は軽快な笑い声をあげた。
「……それ、レディに対する褒め言葉とは思えないけど」
「ははは! レディを気取りたいなら、武術ばかりではなく、行儀作法の鍛錬もしないとな」
「ふん! 通り一遍等の家事は出来るんだから、無用だ」
「お前ならそう言うと思ったよ。それに──」
途端に紫色の目元を細めた。それは温かい太陽の光のように、どこか慈愛に満ちていた。
「お嬢さんとしての鍛錬のみでは今の世界では生き抜けんと、少なくとも俺は思っている。アルモリカ王国の一件があってから、尚更な。お前を色んな意味で一人前に育て上げてくれたレイチェルさんに、感謝するんだな」
その時、レイアは背後に視線を感じた。誰かに自分の後ろ姿をじっと見つめられている感じがするのだ。貪欲な気持ちが溢れ出るような、その気持ちを必死に抑えているような、それでいてどこか諦念めいた薄暗い感じのする、何とも言えない視線──。
(おや? 誰かがこちらを見ている。しかも先程からずっとだ)
彼女が家の方を振り返って見ると、明るい茶色の毛先のはためいているのが視野に入った。視線の主はずっとこちらを見ていたに違いない。
(あれは……?)
彼女は後を追いかけ、白い袖から突き出ている、腕輪のある左手首をつかまえると、青年は身体をびくりと震わせた。
「誰かと思ったら……おはよう。アリオン。体調はどう?」
呼ばれた青年は、振り返ると金茶色の瞳をゆっくりと細めた。一瞬その顔に複雑な表情が浮かんだ。何かを確かめようとして緊張しているような表情だった。レイアは一瞬何だろうと思い目を瞬かせてみたが、視線の先には、いつもの穏やかで口元に笑みを浮かべた顔しかなかった。彼は目の下のくまもなくなり、頬も若干膨らみを取り戻している。以前と比べて顔色が随分と良くなったようだ。
「ありがとう。おかげで随分良くなった。セレナにも先程、普通通り生活しても大丈夫、と太鼓判を押されたよ」
「良かった! 顔色も良さそうだし。重量も少し戻ったんじゃないのか?」
「ああ。少しなら。しかし筋肉が少し落ちているから、鍛えないといけないな……と、いけない。忘れないうちにこれを……」
彼が右手を突き出している。
よく見てみると、その手にぶら下げられているのは、透明な小さな丸い石に羽飾りのついた首飾りだった。カンペルロ王国の追っ手から逃がす為、彼に渡していたままだったことをレイアは瞬時に思い出した。彼はこれを自分に返すタイミングをずっと探していたに違いない。
「すまない。返すのをすっかり忘れていた」
「そうだったね。これ、実はレイチェル……私の養親なんだけど、彼女から生前もらい受けたものなんだ。彼女が常に肌身離さずつけていてね……」
「それって……つまり形見じゃないか! そんな大切なものを私なんかに預けて良かったのか?」
「何かね、あんたを守ってくれそうな、そんな予感がしたんだ。結果的にはあんたに守ってもらったようなものだったけど。ま、いっか」
レイアはぺろりと舌を出し、どこか照れ臭そうな笑顔を浮かべた。
アリオンが何か言おうとした時、家の中から春の日差しのような、柔らかい声がした。同時にぱたぱたと軽やかな足音が近付いてくる。
「やっぱりここにいた。おはよう。みんなもう少しで朝ご飯が出来るわよ」
「ありがとうセレナ! あ~お腹空いたぁ!! 急いで汗を流してくるね!!」
レイアは小屋の奥にある浴室へと、軽やかな足取りでかけて行った。
一方、汗を手ぬぐいでゆっくりと拭き取っているアーサーの元に、アリオンが歩み寄った。その表情は真剣そのものだった。
「アーサー。君は確か、コルアイヌの王宮にて、武術指導をしていると聞いたのだが」
「ああ。渋々だがな。一応専門は槍だが、剣も扱えるぞ」
「是非、私の腕を見て欲しいのだが」
「それは構わんが、一体どうした?」
アーサーの問いに対し、アリオンは意を決したように話し始めた。
彼が言うことには、人魚としての〝力〟があまり使えない以上、自分で身を守る為にはある程度武術に頼らねばならない。
カンペルロ王国がアルモリカ王国に侵攻して以来、思うように身体を動かせなかった日々が続いたから、すっかり腕が鈍っている。完全にとは言わぬが、近い位まで戻したいとのことだった。
「分かった。あんたにとっては死活問題だもんな。承知した」
「ありがとう。手を煩わせすまないが、よろしく頼む。礼は落ち着いたらするよ」
アリオンの頬からこわばりがとけていた。
少し、ほっとしたような、そんな表情だった。