レイアは青年の傷という傷の手当を済ませた後、良く絞った手拭いで顔をもう一度そっと拭ってやった。すると、色白の皮膚が現れた。
この青年は形の良い眉に鼻筋が通っていて、非常に整った顔立ちをしている。
精悍な身体付きをしていて華奢ではないのだが、どこか繊細だ。
骨格はコルアイヌ人ともカンペルロ人とも違う。
一体どこの国の人間だろうか?
胸と腹には、引き締まった筋肉による陰影が浮き上がっている。
しかし、妙に痩せ気味だ。目の下のクマも酷い。頬が少しこけている。通常ならもっと肉付きが良いはずだが……。
あれこれ考えごとをしていると、かすかだが目の前にあるまぶたがぴくりと動いた。
長いまつ毛が持ち上げられる。
ゆっくりと開かれたその隙間から、金茶色の光が見えた。
そこで突然彼は目をかっと開き、むくりと上半身を起こした。そこには何故か嫌悪感と、激しい動揺の色が映っていた。
(意識が戻った……のか……? )
レイアは足元からぞくりと這ってくるような殺気を感じ、身を固めた。
金茶色が急に青緑色に変わった途端、変な音が聴こえてくる。
笛の音を更に高くしたような音だ。
何かの鳴き声ではないが、聴いていてあまり気持ちの良い音ではない。
鼓膜を突き抜かれるような痛みが身体中を走り、レイアは思わず耳をふさいだ。
それと同時に、びりびりと痺れるような振動が襲ってくる。
「!!」
危険を察知した彼女はぱっと身を横へと避け、耳を押さえつつ低姿勢をとった。
すると、その後ろに積んであった薪の山が一気に真っ二つとなり、床にガラガラと散らばった。それらをちらりと一瞥した後、自分を攻撃した相手へと視線を戻した。
(今のはひょっとして超音波か? この男、一体何者……? )
切れ長の二重の中にある二つの瞳は、いつの間にか元の金茶色に戻っている。
寝台から上半身を起こしただけのまま、ややうつむき加減のその表情は、非常に硬かった。
ぴりぴりとした空気が伝わってきており、周囲に警戒心を張っているのが良く分かる。
まるで、手負いの虎のようだ。
彼に一体何があったのだろうか?
レイアは相手の瞳を見ながら、ゆっくりと声を掛けることにした。
「気が付いたか?」
「……」
「私はあんたを襲わないから、安心しなよ」
「……」
「私は強盗でもなんでもない。ただの旅人だ。嘘じゃない。あんたが倒れているのを見かけて、この小屋へと運び込んだ」
「……」
目の前の青年は顔を上げ、レイアを凝視してきた。やや眉をひそめており、どうやらまだ彼女を信用していないようだった。
しかし、身綺麗にされていて、少しさっぱりした感じがするのと、自分の身体中に施してある応急処置の後に気が付くと、目を大きく広げた。
「ここは……ランデヴェネスト牢獄ではないの……か?」
「そうだ。ここはコルアイヌとサビナの間にある、ラルタ森の入り口付近だ。その森は、丁度カンペルロとコルアイヌの国境近くとも繋がっている」
(言葉は通じるようだな)
室内の程良い温度の効果もあってか、青年の警戒心が若干解けたようだ。しばらく彼は放心したような顔で散乱した薪の後を目にし、やや伏し目がちになった。そして少し申し訳なさそうな顔をして、ようやく多少無理をしているように口を開いた。
「……すまない……身体が勝手に動いて……」
「気にしなくていいよ。そんな小さいこと」
レイアは崩れた薪の片付けをしながら、別の話題を振ることにした。
「それよりもあんた、お腹が空いているだろう? 見たところ、何日かまともな食事が摂れてなさそうだ。すぐ支度をするから、そのまま待っていて」
レイアは湯を沸かしておいた鍋に干し肉を細かく割って入れ込み、摘んでおいた食用の野草やらキノコやらを一緒に入れ、ゆっくりと煮込み始めた。
この干し肉は携帯用で常に持ち歩いている。割ってそのまま食べられるように、予め濃い目に味付けしてある為、お湯で煮出すとそれだけでも上手いスープが出来るのだ。
パチパチと薪が爆ぜる音とともに、美味そうな香ばしい香りが小屋内に広がった。
「旅の途中だから、簡単で悪いな。でも何か食べないと、治るものも治らないだろ?」
途中の店で買った、人間の顔の大きさ位はある丸いマナ(発酵パン)を火で軽く炙り、二つに割って一つを青年に渡した。彼女は自分の分を一つ一口大にちぎり、己の口の中へと放り込む。
「マナをせっかく買ったのは良いが、大きすぎて一人では消費しきれないところだった。良かったら一緒に食べて欲しい」
そのマナにはラク(チーズ)がたっぷりと練り込まれていた。炙ったおかげでラクが少しとろけている。食べてみると、程良い塩味が誘い水となったのか、青年の腹の音がなった。
腸が動き始めたらしい。
空腹を感じたのは何日振りだろうかと彼は思う。
よそわれたスープの椀をレイアから受け取ると、得も言われぬ良い香りがした。
白い湯気が旨そうにたっている。
干し肉はほぐれるように柔らかくなっており、本格的な肉のうまみと、スパイスの香りが口の中へと広がっていった。
温かく優しい味が空ききった胃袋に染み渡って、少し痛い。匙でスープをもう一口すすると、彼はほうとため息をついた。胸の中に常に住まっていた、氷のように鋭い感情がみるみる溶けて、すうっと消えて行くような感覚を覚えた。
二皿のスープの器が空となり、人心地ついたあたりで、レイアは少しぽってりした唇を動かし始めた。
「私はレイア・ガルブレイス。レイアと呼んでくれ。あんた、名前は?」
「私は、アリオン・シアーズ。アリオンと呼んでくれれば良い。助けてくれて、どうもありがとう」
彼は見た目人間のようだが、どこか人と違う雰囲気を持っている。先程〝ランデヴェネスト牢獄〟と口走っていた。上品な顔立ちからしてカンペルロ人ではなさそうだが……。
「私はコルアイヌ出身だ。昨日から買い出しでサビナに来ている。帰りが遅くなって宿を探したところ、この小屋を見付けた。ここは借りているだけで、明朝にはコルアイヌを目指して出発する予定だ」
傍でかすかに息を止める音が聞こえた。視線を向けると、アリオンはややうつむきがちな顔をしている。
「私が勝手に話しているだけだから、あんたは自分のことを無理に話さなくても良いよ。これも何かの縁かなと思っただけだ」
すると、彼は薄い唇をこじ開けるかのように動かし始めた。
「……アルモリカ王国を知っているか?」
「アルモリカ王国? ああ、聞いたことがある。まだ訪れたことはないが……確か人魚族の国だろう?」
「私は……そのアルモリカ出身だ」
レイアが息を呑む傍で、アリオンはぽつりぽつりと話し始めた。
自分は人魚で、先月突然侵攻してきたカンペルロ人達によって、ランデヴェネスト牢獄に幽閉されていたこと。先日牢獄から抜け出し、現在カンペルロ人に追われている身だということを。
「あんたが……人魚……?」
レイアは目を大きく広げ、にわかに信じ難い表情をする。
そこでアリオンは自分の腕を見て、黒い腕輪が片方しかないのを確認し、何か呟いた。そして衣服をためらいがちながらも一気に脱ぎ捨てる。
すると、レイアの眼の前で眩い光が迸った。
青緑色の光だ。
その光が消えた途端、言葉を失った。
腰から下がピーコック・ブルーに輝く鱗と尾ひれ。
両腕の前腕にびっしりと巻き付いたような同色の鱗。
ひれのように変化した両耳の色は、尾ひれと同じ色。
筋肉による隆起がうっすらと見える上半身。
パライバ・ブルーに輝く瞳。
黄金に輝く、緩やかにウェーブのかかった、波打つような小麦色の髪。
一人の人魚が現れたのだ。
筋肉の陰影は見えるもののやや痩せ気味なのと、身体中あちこちにある生傷が痛ましいが、宝石のように美しい姿だった。特に内側から発光するようなネオンブルーの瞳は、いつまでも眺めていたくなるような、思わず現実を忘れ去るほどの輝きを持っていた。
「……アリオン……?」
「これが私の本来の姿だ。君には信じてもらえるだろうか?」
その瞳は、切なく少しどこか自信なげだった。