レイアは北へと向かっていた。
腰まである濃い茶色の髪を一つにまとめ、後ろの高いところへと結っている。その背には、ネズミ色をした大きな袋が背負われていた。彼女は月に一度あるサビナ市場への買い出しに出ており、そこから故郷である、コルアイヌ王国への帰り道の途中だったのだ。
市場が開かれているサビナは、アルモリカ王国とコルアイヌ王国との間に走る、ラヴァン山脈の手前にある地域である。住む人々のお陰で普段は賑やかであるが、大売り出しの日は買い物客で、更に輪をかけて大変賑やかとなるのだ。
コルアイヌ王国とサビナは距離がある。
徒歩での往復は、日帰り出来る距離ではない。買い出しだけなら一週間前後で往復する者が多い。
ちょっとした旅行だ。彼女の場合、他の用事と被らせることが多い為、二週間の旅になることがしばしばだった。今回はサビナにしか用がない為、いつもより早く帰路につくはずだったが、色々あって出るのが遅くなってしまったのだ。
(らしくなく、つい長居し過ぎたようだ。今日中にラルタ森を通り抜けるのは、正直厳しいかな)
いつもより遅めの出立になった為、普段通らない道で帰ることにした。街は遠ざかり森に差し掛かっているが、陽が傾きかけている。そろそろ宿を見つけないといけない。このまま歩みを進めても、森を抜ける途中で夜が更けてしまうだろう。
(今日は野宿かな……まあ、さほど気にならないが)
暗くなる前にと寝床に出来そうな樹を探していると、数分もたたないうちに一軒の小屋が見つかった。彼女はヘーゼル色の瞳をぱちくりさせ、それが現実であることを確認した。いつもと違う道を通っただけで、こんなに変わるものだろうか
その小屋は丸太で出来ている。
もし住人が居れば、一宿頼む気だったが、戸を開けてみると、やや薄暗く人気がなかった。
「どなたかいませんか?」
見たところ、誰も住んでなさそうな雰囲気だ。念の為声を掛けてみたが、返事はなかった。室内は湿気がこもっており、数日間ほど窓開けがされてなさそうだ。どうやら、この小屋は旅人の為に建てられた建物で、普段は空き家のようである。
「誰のお家か分かりませんが、一晩お邪魔します」
足を踏み入れたレイアは、運んでいた荷物を木でできた椅子の上におろした。小豆色をしたフードつきの外套と臙脂色のチュニックタイプの上着を脱ぎ、荷物の上からかける。左腰に帯びている剣を外して椅子の背もたれに立て掛け、ベージュ色のシャツの腕まくりをした。
両腕を真上に上げてうーんと伸びをすると、両腕の間で大きな膨らみが揺れた。レイアは普段身体のラインが出ない服を着ることが多い為、薄着になると身体の凹凸が目立つ。夜会服を身に付けると誰もが目を引くだろうと思われる位、女性として恵まれた体格をしているのだ。だが腰に剣を帯び、戦う可能性がある仕事もしている彼女は、仕事柄女性を強調するような服をあまり好まない。よって彼女は、常に男物の衣服を縫って調整した服を好んで着用しているのだ。ただでさえ目鼻立ちの整っている顔だ。下手に男心を刺激することは極力避けるに越したことはない。
レイアは黒のスラックスの裾をまくり、簡単だが掃除を始めた。窓を全て開け放つと、心地よい風が小屋内へふわりと入り込んできた。
埃をはたきを使ってはたきつつ、家具を素早くチェックする。鍋や器といったものもあるし、簡素だが寝台もある。台所もあり、調理器具も最低限揃っていた。材料さえあれば簡単な煮炊き位は出来そうだ。
(ここは便利だな。雨に降られた時の雨宿りにも良さそうだ。小屋が一戸出来たと先日話しに聞いていたが、ひょっとしたらこの建物のことなのかもしれないな)
レイアは一段落すると、水汲み桶を天秤棒にぶら下げ、近くの川へと出かけて行った。
⚔ ⚔ ⚔
それからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。
入り口から大きな音が突然聞こえてきて、レイアは顔を上げた。
(誰だ!? )
いつもの習慣で思わず剣を掴んで身構えたが、誰も入ってくる様子がない。
ごくりとつばを飲み込み、息を潜めて戸をそっと開けてみると、人が一人倒れていた。
体格的に若い男のようだ。明るい茶色の髪が床にこぼれ落ちている。背中までの長さがあるそれには、あちこち土のような塊がついており、毛先が絡まっているようだ。灰色の上着と白いスラックスがあちこち擦り切れていて、血と土で真っ黒になっている。どうやら彼はこの小屋の灯りを目指して来たに違いない。迷い人だろうか。
「大丈夫か?」
「……」
その者は呼吸をしているのは分かるが、意識が明瞭かは良く分からない。煤や土で黒く汚れた顔を良く見たところ、年は自分と近そうである。
(さて、どうしようかな。そのままにしておくわけにはいかないし……)
レイアは自分の身の丈より高い彼を肩で支えるようにし、小屋の中へと運び込んだ。そして、そのまま門灯代わりにつけていたろうそくを、口で一気に吹き消した。寝台に布を敷き、抱えていた身体をそこへ横たえてやる。視野に飛び込んできた青年のあまりの悲惨さに、彼女は息を呑み思わず目を見開いた。
(こいつはひどいな……物盗りにあったとは思えないのだが……)
その青年の全身は傷だらけだった。袖や襟元から覗く肌には、青黒い打撲の跡や切り傷や裂傷が多数ある。左手首につけられた黒い腕輪が、無機質な光を帯びていた。荷物は特にないようだが、盗まれたのだろうか?
虐待? 暴行? 事件の被害者?
物騒な言葉ばかりがレイアの頭の中を駆け巡ったが、詳細は気が付いたら本人から聞けばよいかと割り切った。
(何はともあれ、まずは手当をしなくては……)
レイアは月一の買い出しの時以外にも、旅で家を空けることがあった。応急処置に必要なものを荷物としていつも持ち歩いている。荷物の袋の中より、軟膏の入った丸い容器を取り出した。中には怪我に大変良く効く軟膏が入っている。
ひとまず、壷から水を柄杓ですくって小さな手桶を満たし、手拭い代わりの布を浸した。清拭で可能な限り汚れを落とし、少量の酒と軟膏で手当をするつもりだ。
暖炉に焚べた焚き火がパチパチと音を立て、薪の割れる音が室内へと響き渡っている。上に掛けられた鍋の中で、水がポコポコと音を立て始めた。白い湯気がゆらりと上へ上へと登っていった。