それからもつつがなく、本当につつがなく授業を終えてもう放課後だよ!
どうしよう?
いざって時にビビって、ちかりに別れたいと言えてない。
あいつが近づいてくる気配を感じた途端に隠れたり逃げたり、自分で言うのもなんだが俺は別れる気あるのかと……。情けない話だ。
ああどうしよう? このまま帰ろうかな? そうすれば胸の嫌なドキドキともおさらば出来る。根本的な解決には全くならないが。
となれば、やっぱり今日別れを告げてあいつとの恋人関係にピリオドを打つしかない。それ以外に俺が楽なる道は無い、というのに考えるだけで吐き気すら感じる。
何が決意だ、馬鹿野郎俺。
教室を出てトボトボ重い足を引きずる無様な姿が、先日まで彼女との夏休みを妄想して浮かれていた俺の今である。
笑わば笑え! ……やっぱ今の状態を笑われるのは素直にキツいや。
「はぁ……。溜息をついても」
「何してるの?」
一人、と続けようとした時、不意に声が掛けられた。
この声、小さいのに不思議と通りの良い小鳥のさえずりにすら例えられるような女の声は……。
振り返るとキョトンとした顔のちかりが居た。
マズい……、何の覚悟もして無いぞ。
「……あ、いや、その」
「? どうしたの?」
不思議そうに首を小さく傾けるちかり。その仕草は見る人間取っては可憐かもしれんが、今はそれどころじゃない。心臓がバクバクと高鳴ってうるさい。
落ち着け、今から別れを告げるなんて無理があるぞ!
ああでも……このまま何も言わなければ、また同じことを悩み続けるんだ。
喉が急速に乾いていく、目がちりちり滲んで痛い。
「あ、あのさ……。その……」
「……ん」
俺の喉から絞り出された声は、自分でもわかるほど震えていた。
そんな俺を馬鹿にするわけでも茶化すわけでもなく、ただじっと待ってくれるちかり。
その仕草に、今は可愛げよりも逃げ出したい感情を揺さぶられる。
に、逃げてどうする!? この女は俺という彼氏が居ながら知らん男とキスをしていたとんでもないアマだ。しっかりしろ俺の足!
ぐぐっと足に力を込める。地面に縫い付けるように、足の裏から根をはるように、しっかりと。
「……別れよう」
「……」
俺の唐突な言葉に、ちかりが息をのむのがわかった……ような気がする。ごくわずかに、そんな気がする。
ああやっぱりだ……俺は情けない男だ。なんでこう、決定的な言葉を言う時に声が震えてしまうのか。やり遂げた実感を感じない。
で、でも遂に言えたんだ。これで彼女の浮気に苦しむ人生ともおさらば出来る。新しい恋に向かって走れるんだ!
ふぅ、そう思えばなんか落ち着いて来た……ような気がする。ごくわずかに、そんな気がする。
さしものちかりとはいえ、急に俺がこんな事言ったせいで戸惑いを――。
「ん、わかった」
「……え?」
と、戸惑いを……!
「じゃあねバイバイ」
と、戸惑いを……っ! 感じてる様子も無くあっさりと去って行ってしまった。
え? あ、あれ、おかしくない? なんであんなにあっさりなんだ? 浮気するにしてももう少しこう、何かあるだろ……? そんなつもりじゃなかったの! とか。好きなのはあなただけ、あなたと一緒じゃなきゃ生きていけないわ! とか。お願い捨てないで!! とか。
それを見て悦に浸って、お前が悪いんだぞ! 後悔しても遅いんだ!! とか言って、すがるちかりを振り払って新たな恋を探しに行くという勧善懲悪なストーリーが展開されるはずじゃないのか?
何あっさり受け入れてんだよ!? ……何だよそれ? お前にとって俺はその程度の存在だったのか……?
あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!! 駄目だ駄目だこんな考えじゃ!!!
折角関係を清算出来たんだ、過去を振り切って未来に待つ新しい彼女を探しに行くべきだ! それが生産的だ! そうだ、そうしよう!!
俺は間抜けじゃない、だから今胸が苦しいのも気のせいなんだ。そうだそうなんだ。
俺は再び歩き出す、この校舎を出て家路へと。
その足取りは先ほどよりも軽くなった……ような気がする。ごくわずかでは無く、そんな気がする!
……俺は鉛のような足を引きずるように、その場から去って行った。はぁ。
「またね」
◇◇◇
「……という感じで、泣いてすがる浮気女を振り切ってズバッと引導を渡したってわけだ。これで晴れて俺も自由の身、大手を振って堂々と新しい恋を追い求めることができる身分だ」
「へぇ。僕は晴空さんに会った事無いけど、以前聞いた話と違ってずいぶんと感情的な別れだったんだね」
「お、おう。だがそんな女に未練を抱かず振ってやったんだから、この勢いで次の恋人も見つけたいもんだぜ」
下校時間、その帰り道にたまたま崇吾と出会った。そして、ちかりとの別れ話を聞かせてやった。多少の脚色はあったものの、自分から振るという男気を発揮出来たのだから上々だろう。
崇吾は彼女が出来た事が無いと言っていたから、こういう話を聞かせるのもこいつの今後の参考になるだろう。
……正直崇吾が居て良かった面もある。おかげで、さっきまでの重い感じを大分感じ無くなった。
持つべきものは身の上話を話せる友って事だな。ふぅ。
「じゃあ今日は良くんの失恋を癒す為に、何か奢ってあげようかな?」
「生意気言いやがって。それに失恋にはケリをつけたんだ、慰めは……」
「いらないの? じゃ、奢ってあげない」
「いらないとまでは言ってない。そうだろ? だからここは好意に甘えるのもやぶさかじゃないって事だ」
「何それぇ? その頼み方じゃあ、精々ポテトのSサイズを一つが関の山かな」
「嘘だって、な? 俺なりのお茶目なやり取りだよ。頼む、奢ってくれるならチーズバーガーのダブルとシェイクのLサイズをつけてくれ!」
「それはそれで注文が多いんだけど。ま、いいや! 今回だけ特別って事で」
「はは、話せばわかる親友よ。感謝感謝だ」
「……どっちが生意気なんだか」
というわけで、大親友の崇吾君が奢って下さるとおっしゃるので、金魚の糞となりてバーガーショップまでついていく次第。
なんだよ俺の調子! 戻ってきたじゃないか。……そうだよ、何を引きずる先の長い若人の俺よ!
た、たかだか失恋の一つや二つぐらいでよぉ。
「なぁ?」
「何が?」
学生のお財布にも優しいチェーン店のバーガーショップともなれば、夕方には当然人がごった返す。
息苦しさをすり抜けて、注文とテーブル確保を速やかに済ませた手際に百戦錬磨の手応えを感じながらも、テーブルに肘を付く崇吾に話しかけた。
「お前も気配りの男だ、彼女の一人ぐらい出来てもおかしくないのにな」
「ちょっと余裕な発言だね。僕はさぁ……まぁ、おいおいって感じでいいかなって」
「おいおい、ね。そういう態度こそ余裕だと思うがな。いや、諦めの方かな?」
「……あんまり言うと奢る気無くしちゃうかなぁ僕」
「冗談だってのって。ありがたく美味しくいただきますよ」
頬に手のひらを置いたままジロリと崇吾。元が童顔のこいつにそういう目を向けられても怯みはしないが、拗ねられて困るのは他ならぬ俺だ。だから薬指と小指の間から睨めつけるなよ。
「……まぁ、お前の彼女探しは急ぐ必要は無いかもだけどさ。しかし、俺は次の恋人候補を探そうと心に決めている」
「へぇ、当てがあるんだ?」
「それが問題だ」
当てはない、今のところ当てはないが。まあ、なんだ。こういう親友同士の語らいに心を癒すのも悪いもんじゃないか。
彩美とのやりとりにしてもそうだ、俺はこういう楽しみが好きなのかもしれん。
あいつとだって……。そりゃ俺の方が圧倒的に喋ってたろうけどもさ、それでも短い返しに時間を忘れる魅力があって。……はぁ。
「……」
「急にどうしたの? 今日は浮き沈みが激しいね」
「いや、流石に沈むのはこれで終わりだって! 思いたいかな……」
「そういうところでまた沈んでるじゃないか」
そうかも。でもそれを認めるのはみっともなくないか?
「も、問題無い問題無い! そろそろ出来る頃だろ? ちょっとカウンターに行って構えてるわ」
ちょっと恥ずかしくなったから話を切り上げ、席を離れようと腰を上げる。
「迷惑だと思うけどなぁ。もうちょっとまって……」
「三〇二番のお客様~!」
「あ、は~いここです! ほらね? もうちょっと落ち着きなよ」
「う、うん」
浮き上がった俺の尻は、すぐさま再びの着陸を迎える事となった。
今日は空回りが酷くないか? 別れを切り出した事以外、なんか上手くいかんな。