「ち、か……?」
その、あまりに弱々しいか細い声が自分のものだと気付くのに、しばらくの時間がかかった。
俺は動くことはできない。目の前の光景を脳が拒絶して麻痺を起こしてるからだ。
恋人のちかりが、見知らぬ男と唇を重ねている。全くありえない光景を目にしているからだ。やがて男は名残惜しそうにちかりを離す。そしてちかりに何かを言っているが、この距離からだとよく聞き取れない。
「あ、あの……」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
その声が届いたのかちかりは振り向いた。
その瞳は俺の目を捉える。だが表情はいつもと変わらないように見えた。そう、なんでもないかのように。
「良介、どうしたの?」
その声が、俺をまた現実に引き戻した。彼女の口から流れ出るその声は、ただ思ったことを口に出してたけの、いつもの彼女の声色だった。本当に、どうして俺がここにいるのか? それだけを聞いている。何の揺らぎも感じないいつもの彼女の声。
しばらくの間、彼女と俺の視線は交錯したままだった。そして、ちかりはそっと男の手を放し、少しだけ歩いてきた。
「それじゃあバイバイ」
相手の男にそれだけ言うと、ちかりは俺の方に向かって雑草を踏む音を下駄で鳴らしながら近づいてくる
相手の男が戸惑っている。俺と同じで、今の現実をよく理解できていないようだ。
だが俺と違うのは再起動が早かったことだろう。何もよく分かっていない顔で、しかしここにいるのはまずいと感じたのか、名前も知らないその男は去って行った。
近づいてくるちかりの姿が、冷たい風のように俺の背筋を感じられた。
俺はただ立ち尽くし、何度も何度も頭の中で繰り返されるのは彼女と男とのキスの光景だった。
やがてちかりが戻ってきた。彼女は静かに俺に寄り添い、頬に触れるようにその小さな手を差し伸べてきて……。
「良介」
「ッ!!」
その瞬間、俺の足は勝手に動いた。一目散、彼女を置いて林を飛び出し、境内を飛び出し、祭りの会場を飛び出して行った。
「っはぁ……! ぁっはぁ……」
息が上がる。心臓が激しく鼓動する。苦しい。
どこに向かうのかも考えず、ただ走り続けて、喉の奥を掻きむしるように息を吐きながら足を止めた。
周囲を見渡せば見られた住宅街。見慣れた街灯に照らされた、俺の家の周辺。
……帰ってきたんだ。何も考えないように走りながらも、俺の足は帰巣本能が働いていた。
「……」
しばらくそのまま落ち着くまでその場に佇んだ。
息を整えようとするその時間思い出されるのは愛しいはずの彼女と見知らぬ男とのキス。
考えたくなくても、俺の意識を無意識が拒む。
どういう理由でだ? 何故ちかりはあそこでキスをしていたんだ?
侮蔑的な物体が胸の中をのたうち回りながら、喉の奥から這い出て来ようとするのを必死に抑えつつ、仕方なく俺は深く考えた。
…………深く考えた結果、どのようなシチュエーションになろうとも恋人以外の男とキスをする理由にはならない。
それが痴漢のある話は別だ。だけど、彼女の顔には嫌悪感がなかった。
嫌だ、嫌だけれどはっきりと認めなくちゃならない。――愛しい彼女の浮気を。
「ごほっ……!」
不意に込み上げてくる吐き気。
慌てて住んでいる部屋へと駆け込む。
「うぇ……げほ……」
気持ち悪い。
「うぅ……」
涙が溢れ出る。
いざ現場を見ながら何をすることも出来ず、それでいて彼女から逃げ出すことだけは出来た己の間抜けな塊を洗面台に吐き出しながら、俺は泣き続けた。
………………
…………
……
「おい、ちかり。そいつは誰なんだ? なんとか言ってくれ! ちかり、どこへ行くんだ?! そいつと一緒にどこに行くんだ?!! ちかり! ちかり!!!」
俺の叫び声を聞かず、いくら手を伸ばしても届かない。足が前に進まないからだ。そうしている間に見知らぬ男と遠ざかる愛しい彼女……。
俺はただ叫び続けることしか出来なくて……。
………………。
「はっ! 夢か……」
いつの間に寝ていたんだろう? 格好は……非常に残念なことに昨日のまま。つまり、ちかりの浮気は夢じゃなかったってことだ。
窓にカーテンもかけずに寝ていたんだろう、朝の光がこれでもかと言わんばかりに鬱陶しく差し込んでくる。
眩しさに目を手で抑える。すると目が腫れてることに気づく、当然触れると痛い。鏡を見なくちゃわかんないがおそらく腫れてるんだろうな。はぁ……。
俺は高校生だぜ? この歳になってみっとも泣き散らすなんて、いくら彼女が浮気していたからってさぁ。そうだ浮気だ。そんな浮気程度で、浮気程度で……。
その程度のはずなのに、考えるとまた体がずしりと重く感じるような気がした。
「はは、こんなにショックだったんだな。俺」
自嘲気味に呟くと、昨日の出来事が頭の中でフラッシュバックするかのように思い出される。そしてまた、心が重くなる。
「はぁ、学校行かなきゃな」
重い頭と体を引きずって、まずはシャワーでも浴びようと風呂場へと向かう。
今日が日曜である事に気付いたのは、とりあえずスッキリしたからだった。
ひとまずいろいろと冷静になって、そうなってから思うことは腹が空いてるって事だ。
泣き疲れて寝た上に胃の中に入っていたものを出し切ったから、余計に腹が空くのを感じた。
「何をするにしても、まずは飯を食おう」
といって凝ったものを作る気にはなれない。もともと作れないが。
とりあえず保温していた白飯とインスタント味噌汁でも腹の中に納めよう。
時間にして約五分後、調理時間の大半をお湯を沸かすことに費やして朝飯は完成した。
「いただきます」
手を合わせて、いつものように食べ始める。しかし今日はなんだか味気ない感じだ。……そりゃそうか。
淡々と箸と口を動かし、無言のまま味噌汁を飲み干して朝食は終了した。
「ご馳走様」
まだ胸の奥は気持ち悪い。それでも飯を食べたからある程度落ち着いたようだ。
今日は日曜日。
家にこもっていても嫌なことばかり考えてしまうから、気分転換が照らす外に出てみても、やっぱり考えてしまうのは彼女の浮気現場。人間ってやつは考えないようにすればするほど意識してしまう不便な生き物だ。自分の頭の事なのにどうしてこう都合よく行かないのか。
それでも部屋の中にこもってるよりマシか。
「はぁ、どうしてこうなったんだか。……ん?」
当てもなく外を歩き回っていると、気づけば近所の公園に来ていた。そういえばここに来たのはいつ以来だろう? 小学生の頃は学校帰りによく寄っていた覚えがあるが、中学生になってからは一度も来ていない気がする。
「懐かしいもんだ。昔はよくここで……」
「あれ? もしかして良ちん?」
懐かしいあだ名で呼ばれた。声の方を振り向くと……日焼けしたギャルがいた。
あ? 誰だ? どこかで見たような顔、でもいまいち思い出すことができない。
「お久~。まさかこんななっついトコで会うなんて思わなかったじゃん。元気してる? あ、ウチは見ての通りアゲアゲでバリバリの現役JKやってまーっす!」
「あ~えっと、久しぶり。……じゃないな、悪ぃ思い出せない」
「ちょ、ひっど! ウチのこと忘れちゃったわけ!? マジショックなんだけど!」
そんなこと言われてもなぁ。
おそらく幼馴染の誰か、それも疎遠になった女の子だ。
頭をフル回転させて、なんとかなんとか思い出そうとする。あれでもないこれでもない。本当に一体誰なんだ?
『良ちん、わたしのお家ね……今度お引っ越しするんだって。もう会えなくなるんだよ?』
…………あ。
「お前まさか彩美か?! 小一ぐらいの頃に転校したあの」