早朝。
何故か目が覚めた。特に何も考えず、階下に降りる。叔父さんはまだ、帰って来ていないみたいだ。
縁側に出て、足を止める。朝の薄青の庭一面に、紅い彼岸花が咲いていた。昨日までは、いつも通りの庭だったのに。吹いた風が、少し涼しい。その風に揺れる彼岸花たちを見て、実在している花なのだとぼんやり思う。庭の彼岸花の群れの真ん中。紅と黒の着物姿の女性が一人、伏し目がちに立っていた。黒く長い髪が、艷やかに青い光を受けている。一枚の絵のようで、僕はその光景をしばらく黙って見つめていた。女性は緩やかに顔を上げて、僕を見る。よく見たら、手に一輪、彼岸花を持っていた。
「……貴方様を、お迎えに参りました」
「え?」
「参りましょう」
女性の目が、金色に煌めいた気がする。彼女は、彼岸花を両手に持ち、そのまま僕へと差し出すように静かに突き出した。
ああ、そうか。受け取らないといけないんだっけ。
僕は、庭に降りる。彼岸花の群れが、身体に纏わりつくように触れた。女性は美しい微笑で、僕が来るのを待っている。黒い髪が、風に緩く靡いていた。頭が、痺れたようにぼんやりする。
「さあーーあなた」
僕も手を伸ばした。彼岸花の鮮やかな緑色の茎に、触れた時。
「何やってんだ?旭」
澄み渡るように、その声が僕の中に広がった。目眩がして、一瞬目を閉じる。目を開けると、いつの間にか叔父さんが目の前に立っていた。
「こんな時間に、裸足で彼岸花持って。寝ぼけてんのか?」
彼岸花の群れも、女性も、ほんの一瞬前まであった景色は、何もかも消えていた。手には、さっきまで女性が持っていた彼岸花が一輪。僕は庭を見渡した後、叔父さんにさっきまでの話をする。
「ふうん」
叔父さんは気のなさそうな返事を寄越した後、待ってろと言いおいて中に入る。直ぐに、手に鋏を持って戻って来た。手渡され、分からないまま受け取る。
「その女、旭と結婚するつもりで来てたぞ。旭、プロポーズしたのか?」
結婚?プロポーズ?
叔父さんは、面白そうに笑って僕を見ていた。全く面白くない。
「覚えが無いです」
首を横に振りながら答えると、叔父さんは声を出して笑う。
「だろうな。だから鋏持って来たんだけど」
「どういうことですか?」
「花を切りゃ良い。花の部分を落とすようにな」
叔父さんはジェスチャーで、スパッと空を切る。まだよく分からないが、僕は言われた通りに花に鋏を入れる。刃が茎に触れた時、あの女性の微笑みが浮かんだ。
どうしてこうなったか、分からないけれど。僕は、貴女と結婚しない。
あっさりと切れて地に落ちた紅い花は、あっという間に萎えて枯れる。しばらく見ていると、枯れた花も手に持つ茎も、消えた。
「どっか……そうねぇ、寺か神社で彼岸花見たか?」
僕と同じように地面を見ていた叔父さんに聞かれ、少し考える。……ああ、そうだ。
「大学近くのお寺の敷地内で、一輪だけ見ました」
叔父さんは一つ頷いた。
「じゃあ、それだな。彼岸花の一目惚れだよ」
「一目惚れ?」
「そ。旭に一目惚れ。からのお仕掛け女房でもやる気だったんだろ」
突拍子もない話に、頭が働くことを止める。
「そんなこと…あるんですか」
彼岸花が、一目惚れ?僕に?
「今、現にされるとこだっただろうが」
叔父さんは欠伸混じりに言いながら、中に向かって歩き出す。縁側に上がる時、叔父さんは肩越しに僕を振り向いて、不敵に笑った。
「人間の婿取りに、化けて来るくらいだからな。その辺に咲いてる花には、無理だろ」
後は、さっさと自分の部屋の方へと歩いて行った。僕も縁側に上がって、庭を見る。一面の紅い彼岸花の海と、その真ん中に立つ、紅と黒の着物の女性が見えた気がした。けど、風が吹いた瞬間、その光景は一瞬で消え去る。
入れ替わるように、昇り切った陽の、橙の光が落ちて来た。