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第17話 流言から始まる

紙吹雪が、綺羅星きらぼしのようにきらめいて舞っている。

幾枚もの、名刺サイズの白い紙。夜空に散っているそれを、あさひはただ見上げていた。そよ風が、旭の天鵞絨びろうど色の髪をさらう。紙の一枚が、旭の目の前まで舞い降りて来る。何も考えず、旭は手を伸ばしてそれを取った。文字が書いてある。

「『盾護旭たてもりあさひの魂は美味い』……?」

(僕の名前?魂?)

旭はもう一度、紙吹雪を見上げる。全ての紙に、同じ文言が書いてあるようだ。それが、夜空の下、あちらこちらへ飛んで行く。地上から、紙吹雪と夜空を飲み込むように、影が広がった。禍々しさを感じるそれに、旭は息を呑む。あっという間に旭にも闇が被さり、後は何も分からなくなった。


早朝。

旭は飛び起きた。嫌な汗が全身から噴き出し、息も苦しい。何度も深呼吸した後、旭は掠れた声で呟く。

「……変な夢見たな」

旭はぼんやりと、天井を見上げる。夜は明けていて、窓から光が差していた。

(僕の魂が美味しい、って何だろう)

ただの夢。でも、妙に気になる。魂が美味いなんて、とんでもないデマだ。しばらく考えていると、階下で玄関のドアが開く音がした。叔父の弥命みことが帰宅して来たことを理解し、旭は考えるのを止めて息を吐き出した。


その日の夕方。

庭を掃除していた旭は、誰かに見られている気がした。辺りを見渡しても、誰もいない。気のせいかとふと地面を見ると、旭以外の裸足の足跡が、旭を囲むようにぐるりと付いている。

「えっ」

ぞくりと、全身総毛立つ。

(今の今まで無かったのに。何で、)

顔を上げると、電気を消している部屋の暗がりが飛び込んで来た。その中に、何か白いものが見える。四本。人の、四つん這いの手足。這って、こちらに向かい部屋を出て来る。夕焼けに照らされて現れたのは、ガリガリに痩けて青白い、見知らぬ男だった。旭に気付くと、にたりと笑い、顔を有り得ない方向に曲げながら駆けて来る。

「ミツケタミツケタミツケタ」

「うわ、」

背筋が凍った。人では無い、と思いながらも足が動かない。飛びかかられたところで、旭は意識を手放した。

通り掛かった弥命に起こされた旭は、足跡と四つん這いの男の話をしたが、もう何も居ない。残っていた足跡を睨んでいる弥命を、旭はぼんやりと眺めていた。


深夜。

騒音で、弥命は目を覚ました。二階の旭の部屋から。旭しかいないはずだが、宴会のような喧騒が響いてくる。

「旭か?何やってんだ……?」

旭では無いだろうと思いつつも、安眠を妨害された苛立ちで、弥命は足早に階段を上り、部屋のドアを勢い良く開ける。

「うるせぇぞ!今何時だと思ってやがる!ーーあ?」

ドアを開けた瞬間、喧騒が消える。畳から生えた数多の白い手に捕らえられた旭が、首を絞められているのを見た。それも一瞬で、手は全て消える。咳込み始めた旭に近付いた弥命の耳に、“美味い魂見つけた”という大勢の声が響いた。


次の日の夕方。

弥命は縁側で、疲れた様子の旭がうたた寝をしているのを見つけた。だが、よく見れば、酷い寝汗でうなされている。黒いもやが、旭の身体に乗っていた。

「う……」

微かな声が苦しそうに溢れるのを聞いて、弥命は旭に近付く。

(昨日から、妙だな)

「誰だ、お前は」

「ウマイタマシイ」

もやに向かって尋ねれば、それだけを答えてパッと消えた。弥命は小さく舌打ちした後、旭の身体を揺らす。

「起きろ、旭」

旭はハッと目を開ける。

「叔父さん……」

起き上がり、呆然としている旭の手には、一枚の紙があった。

「それ何だ?」

「え?」

旭が見ると、片面に文字が書いてあり、見た瞬間に目を見開いた。

「どうして、これが」

弥命も横から、それを見る。

「『盾護旭の魂は美味い』?」

(嫌なもんしか感じねぇ。何だこれ)

弥命が紙を睨んでいると、旭が口を開いた。

「……夢を、見たんです」

旭は、先日見た夢の話をする。弥命は最後まで黙って聞いていた。旭が語り終えると、感心したような声で呟く。

「なるほどねぇ……正夢になってる訳だ」

「だから、変なことが続いてるんでしょうか」

あごに手をやり、弥命は旭の手元の紙を見る。不意に、旭の影から更に濃い黒が、伸び上がった。気付いた弥命が、旭の腕を掴んで共に飛び退き庭に出て、距離を取る。

「何だ?」

低い声で言う弥命に、その黒は笑う。人の形になり、黒い袴を着た、美麗な一人の若い男の姿になった。旭と弥命を真っ直ぐ見、微笑んでいる。

「ごきげんよう、盾護旭さん、御剣弥命みつるぎみことさん」

旭は目を丸くした。弥命の睨む目に、凶悪さが増す。

「何故、俺たちの名を知ってる」

「ずっと、見ておりましたので」

微笑んだままの男の手には、弥命が持つものと同じ紙がある。文言を二人に見せるように、紙をかかげた。

「わたくしがこちらを、皆に広めました。皆さん、行動が早いですね。もう旭さんの元へ来ているようで」

「え?」

旭の揺れる瞳を、男は面白そうに見ている。

「理由は」

弥命が問うと、男は音も無く滑るように弥命に近付き、その目を覗き込むように見る。男は、美麗さの中に一片いっぺんの邪悪さを混ぜ、笑みを深める。弥命は、男の目が怪しく光るのを見た。

「貴方に、困ってほしいのです」

「俺に?」

覗き込む目を真っ直ぐに睨み返し、弥命は問う。男はそれには答えず、更に続けた。

「それに、良い見物になると思いまして。面白いことお好きでしょう?貴方」

男はふわりと飛んで、弥命から距離を取る。そして、旭を見た。

「盾護旭さんには、以前、してやられてしまいましたね。自分の手が燃えても尚、呪いを破くとは」

「呪い、って」

旭を見ながら少しおどけたように言う男に、弥命は目を見開く。

「お前。まさか俺を呪ってたまじないの、」

「その、残りのようなモノです。わたくしを使った者は、もう人として機能していませんからね。ふふ、あれだけ粉々にされたのですから、当然ですが。だからこそ、わたくしを破った旭さんは面白い」

旭のかたわらに居た弥命が、不意にがくりと膝を着く。

「叔父さん?」

「……何しやがった」

旭も屈んで、その身体を支える。男の笑い声が響く。

「始めましょう」

弥命は悪態をつきながら、微かな声で旭の耳へささやいた。

「……旭、万寿まんじゅと離れるな」

後はぐらりと身体がかしいで、旭へと倒れ込む。

「叔父さん!」

旭は訳が分からないまま、弥命を受け止める。弥命は眠っていた。男は眠る弥命を見つめ、楽しげに目を細める。

「旭さん。その紙を持って、どうぞ夢へお越しください」

「夢?」

「彼を助けたいなら」

男の言葉に、旭は弥命の服を一瞬強く握る。

「それに。彼を困らせるには、貴方が必要不可欠なんです。協力してくださいね。旭さん」

男を見上げる旭の目には、強い光が宿っている。

「叔父さんに何を、」

その目を嬉しそうに見、男は空へ浮かび上がった。

「知りたくば、夢へおいでください。そうそう。わたくしの名はアダナシ、と申します。以後お見知り置きを」

アダナシは黒い影となり、花が散るように消えていった。



旭は、部屋で眠る弥命の枕元に正座し、弥命の寝顔をじっと見つめている。謎の男と出会った中で倒れてから、何をしても目覚めない弥命。その寝息は今も健やかで、起こせば普通に起きそうでさえある。旭は手にガラス細工の亀・万寿を持ち、夢で見たのと同じあの紙を見ていた。

「夢へ行く、ってどうすれば良いんだろう」

元より悪夢や怪異にい疲れているところに、弥命は倒れるわ、男はさっさと消えるわで、旭には考える余裕が無かった。突飛なことばかり起こる。

「ーーその紙を持って、側で寝れば良いんだよ」

不意に隣から聞こえた声。旭が見れば、青い着物の少女が一人、座っている。彼女自身が青い光を放ち、旭の目にも人間ではないことが分かる。

「君は、」

「貴方の魂が美味しい、って聞いたから来たの。でも、もっと面白いことになりそうだから」

少女の言葉に、旭はぞくりとする。

「私は食べないよ。やめた」

にっこりと、少女は怖いような笑みを浮かべる。旭はゆっくりと、深呼吸した。

「ありがとう。教えてくれて」

「うふふ。食べない代わりに、夢に行くの手伝ってあげる。たくさん集まってるから。ここで、身体を守っててあげるね」

部屋の向こうで、ざわざわと何か大勢の気配がする。顔色を失くす旭を笑い、少女はふわりと浮いて、旭の瞳を覗き込むように見た。少女の目が、星のように輝く。その光に、旭は目が眩んだ。

「なっ!?」

視界が青い光の渦になる。めまいがして、両手に万寿と紙を持ったまま、旭は弥命の傍らに倒れ、何も分からなくなった。


旭が目を開けると、そこは懐かしい場所だった。

祖父母の家の側にある、大きな神社。人は誰もおらず、連なる提灯の明かりがぼんやりと照っている。その参道を、旭と少年は歩いていた。深緑色の髪に同じ色の袴姿の少年は、旭のお守りであるガラス細工の亀・万寿と名乗った。

「やっぱり、君は万寿だったんだね」

旭が柔らかく笑うのを見て、万寿は首を少しすくめる。

「名乗り遅れてまして、すみません」

深緑色の髪は、万寿の両目を覆っていて表情が分かりにくい。だが、落ち込んでいるのが伝わって来る。旭はそっと、万寿の頭を撫でた。

「いつもありがとう」

万寿はハッとしたように旭を見上げ、嬉しそうに笑う。それを優しい眼差しで見てから、旭は辺りを見た。

「知ってる場所だけど、微妙に違う……やっぱりここは、夢の中なんだね」

しばらく歩いて行くと、大き過ぎる神木が現れた。その根元に、誰かが座っている。

「……叔父さん?」

旭はパッと駆け出す。万寿も続いた。座る弥命は眠っていて、身体中に巡る白い紐のようなもので木に縛られている。屈んだ旭は弥命の肩に触れ、身体を揺らす。左耳の朱い大きな金魚も、ゆらゆらと揺蕩たゆたう。

「叔父さん。弥命叔父さん!」

緩やかに、弥命は目を開く。旭を見ると、息をつき、笑みを浮かべた。

「旭か」

「叔父さん……」

旭はホッとして息を吐き出す。弥命はそんな旭を見て笑う。

「動けねぇから寝てた。夢の中で寝るってのも変な話だが。万寿はちゃんと、側にいるな」

「叔父さん、万寿のことーー」

言いかけた旭の言葉を、万寿が遮る。

「旭さん!」

万寿の声で旭が振り向くと、木の影が黒く伸び上がり、アダナシが現れた。にっこりと微笑む。

「ごきげんよう、旭さん。弥命さん」

「アダナシ……」

立ち上がった旭が呟くのを、弥命だけが聞いている。アダナシは、旭を見て嬉しそうに笑った。

「来ていただけて嬉しいです、旭さん。早速始めましょうか。弥命さんを助けたくば。縄を結んで来てください」

「……はい?」

「場所は、貴方の夢にある貴方の家の庭です。そこに、黒い大きな縄が二本ありますので、それを結んでください」

様々な疑問が浮かぶが、旭は空を睨みつつ、考え考え言う。

「結ぶだけで、良いんですか」

アダナシはにこりと笑う。

「ええ。それだけです。邪魔はしませんよ。私は弥命さんに困ってほしいので」

旭は首を傾げる。

「それでどうして、叔父さんが困るんですか?」

「結んでもらって、貴方が弥命さんを助けたら、分かります」

(なら、結ばない方が良いんじゃ。でも、叔父さんが、)

ふふ、とアダナシは笑う。

「悩んでいますね。このままでは、弥命さんはずっとここに縛られたままですよ。弥命さんもいくらか試されたようですが、ここからは逃げられません」

弥命はアダナシを睨んでいる。その視線を受け、アダナシは可笑しそうにまた笑った。万寿がぎゅっと、旭の服の裾を掴む。旭は、弥命とアダナシを見比べて、深く息を吐き出した。

「結んで来ましょう」

「さすがです」

アダナシは、小さく拍手をする。

「旭、」

弥命の声に、万寿はパッと旭の服から手を離す。旭は弥命に向き直って、また屈む。苦い顔をした弥命の額には、大粒の汗がいくつも浮かんでいる。

「ここで起きているのは、大変なんですよ」

背後から、アダナシの楽しそうな声が掛かる。

「叔父さん」

(叔父さんが困るなんてこと、あるのかな。今も、そうといえばそうなのかもしれないけど)

普段の弥命を見ている分に、旭にはイマイチ想像がつかない。

「叔父さんって、困ることあるんですか?」

旭の質問に、弥命は目を丸くした後、旭を軽く睨んで笑う。

「こんな時に、んな質問されることだな」

旭はハッとする。

(それもそうだ。喋るのも辛そうなのに)

「すみません」

旭は服の袖で、弥命の額の汗を拭う。

(叔父さんに気の利いたことは、言えそうに無いな)

弥命は目を見張って、旭を見上げる。

「行って来ますね」

弥命は何か言おうとして、めまいに襲われる。声も掠れて言葉にならない。それには気付かず、万寿を伴って、旭は立ち上がる。少しふらついたのを、万寿に支えられた。旭も、疲弊している。参道を進んで突然消えた二人を、弥命は苦い思いで見送った。

(旭の方がダメージがデカい……コイツ、これも見越してやがるな)

酷い眠気に襲われ、思考は散る。弥命の視界は直ぐ真っ暗になった。

アダナシは楽しそうに弥命を見ていたが、やがて姿を消した。


旭と万寿は、自宅の庭にいた。

置いてある物、生えている植物が微妙に違い、まだ夢の中だと再認識する。

三日月の照らす庭には、空から降りる黒く大きな縄が二本あった。二人で見上げても、どこから縄が降りて来ているのか分からない。

「これを結べば良いのかな」

「黒い縄ですしねぇ」

二人顔を見合わせた後、旭は二本の縄を結ぶ。結ばれた縄は形を変え、結び目の先が上向いた。ぐにゃりと、空間が歪む。

「わ、」

「旭さん、縁側に」

万寿に言われて縁側を見てみれば、弥命が倒れている。

「叔父さん」

旭が声を掛けて揺すると、弥命は目覚めた。

「だりー……身体が動かねぇ……」

息を深く吐き出し、弥命は旭を見上げる。

「旭。夢はお前がそう望めば、いくらでも変えられる」

「それって……」

旭の言葉は最後まで続かなかった。頭上から、地中から、数多の影が現れて、旭は地に倒される。

「うわ、」

「旭さん!」

万寿の声が聞こえるが、旭には姿が見えない。黒い手、白い手、巨大な目玉、布のようなモノ、鬼、人の形をした何か、そういった人間ではないモノたちに身体中を掴まれる。彼らに埋もれ、旭の姿は見えなくなっていた。食べようとする口が迫って来るが、淡い緑色の光に阻まれて、皆、旭を口にすることは出来ない。弥命の側に立つ万寿が、目を閉じて手を組み、旭を守っている。庭中にあやかしたちが溢れていた。

「ーー始まっていますね」

アダナシが、旭たちと対峙するように姿を現した。

「てめぇ、この為に縄を結ばせたな」

弥命が寝たまま、射殺さんばかりの目でアダナシを睨む。アダナシは満足そうに笑って頷く。

「ええ。縄を結んだら、彼らがやって来れるようにしました。貴方は困るし、けれど面白いものも見られるし、一石二鳥でしょう?」

弥命は、悔しそうな、痛みを耐えるような顔になって更にアダナシを睨む。

「良いですよ、その表情。人間はそうでないと。呪いが生きられなくなる」

アダナシはうたうようにそう言うと、微笑んだ。会話を聞いていた旭は、内心首を傾げる。

(僕がこうなると、何で叔父さんが困るんだろう?)

弥命は旭の魂が食われたところで、面白いものを見た、で済ませそうなところがある人物である。考えている内、また強く身体を掴まれ、押さえつけられた。

「う、」

旭の身体は怠くなって来て、上手く力が入らない。

「防いでいるだけでは、亀さんの力が持たなそうですよ」

万寿の額には、うっすら、汗が見え始めている。楽しげなアダナシの声に、旭は頭を振った。

(どうすればいい?叔父さんは動けないし、万寿も……)

旭は強く目を閉じる。弥命の言葉がよみがえった。

(夢は、僕がそう望めば、いくらでも変えられる……)

まぶたの裏の暗闇に浮かんだのは、何故か、祖父との幼い頃の思い出。幼い旭は、さっきまでいた神社の境内けいだいで、祖父の隣に座り、祖父が持つ甘酒を見ている。祖父は、旭を見て微笑んだ。

“この神社の甘酒には、元気になるだけじゃなくて、悪いモノを払い、福を招く力があるんだよ。旭も、神様にありがとうして飲もうね”

(それは、僕にじゃなくて、)

祖父と甘酒だけが、鮮明に浮かび上がる。

「……叔父さんに」

旭が、自分が声に出して呟いていたことに気付くと同時に、縁側から声が響く。

「やれやれ。相変わらず面白いことを巻き起こすね、お前は」

「……親父」

座る旭の祖父に抱き起こされた弥命が、甘酒を飲まされている。旭はその声を聞いて、何も分からないながら、安堵する。

(叔父さんは大丈夫。後は万寿が。ここから抜け出さないと)

アダナシは、面白そうに目を細めた。

数多あまたの手が、足が、身体が、旭を押さえつけてびくともしない。痛くはないが、冷たく、重かった。

(どいてくれ……!)

旭が念じると、あやかしたちはパッと旭から離れて散る。起き上がった旭の目に、縁側から庭に降りて来た弥命が映った。ざわざわと、あやかしの波が割れる。祖父の姿は、もう無かった。

「流言には、流言だ」

しっかりとした弥命の声が聞こえて、旭は弥命を見た。言いながらかかげた弥命の手に、白い紙が現れる。それには、

『盾護旭には魔を祓う力がある』

そう、しるされていた。それを、その場にいる全員が見た。弥命が紙を空へ放ると、それは無数に増え、夜空に散らばって行く。旭にむらがっていたモノたちは、逃げるように姿を消しはじめ、やがて何も居なくなった。万寿が、旭の元へ来る。旭たちとアダナシだけが、庭にいた。アダナシは変わらず微笑みながら、旭たちを見ている。

「もう少し困っているところ、見たかったんですが。仕方ないですね」

「二度と姿見せんな」

凶悪な目で睨む弥命を、アダナシは楽しそうに見る。

「それは出来ません。私の存在は、貴方への呪いが起因なのですから。それに、旭さんが面白いので」

「……僕が?」

アダナシはふわりと浮いて、旭を見下ろす。

「私が困ってほしいのは、弥命さんだけですが。それだけじゃないんですよ、今回は」

アダナシは旭の胸元に、手を押し当てる。青い光が旭の中に入り、旭は小さくうめいて膝を着く。

「『夢渡り』、確かに授けました。これも、呪いわたくしを破ったえん、ということで」

「おい!」

旭を支えながら怒鳴る弥命に、アダナシはにこりと笑いかける。

「ごきげんよう、旭さん、弥命さん」

アダナシは黒い影となり、花が散るように消えていった。



旭は、弥命の部屋で目覚めた。

寝ていたはずの弥命の姿は無く、自分が布団で寝ていたのだ。あの少女も居ない。

(……僕、どうしたんだっけ。叔父さんは、万寿は、)

起き上がると、酷いめまいがする。枕元に、ガラス細工の亀・万寿が置いてあったのを見た。喉が渇き、咳が出る。

「お、起きたか、旭」

襖が開いて、弥命が顔を出す。叔父さん、と言いかけて、また咳が出る。それを見て、弥命は笑った。



起き出した旭が縁側に行くと、外は夜だった。

座っていた弥命の隣に並んで座り、夜空を見る。弥命は、黒地に浮世絵のような雲の主張が激しい柄シャツ姿で、変わらず左耳に大きな朱い金魚を揺らしていた。丁度吸い終えた煙草を始末し、旭を見る。

「叔父さんは大丈夫なんですか?」

「おかげさまで、ピンピンしてるな。少し、だりーけど」

「そうですか」

ホッとして、旭は息をつく。

「あの夢の中のこと、叔父さんも全部覚えてますか?」

「覚えてるぞ。まさか甘酒出されるとは思わなかったけどな」

くつくつと、弥命が笑う。

「何故か昔のことを思い出して。本当は違うものの方が良かったんでしょうけど」

「旭らしくて良いんじゃねぇの。ーー旭は調子悪いとか無いのか。そもそも疲れてただろ」

「大丈夫です。まだ眠いくらいで」

ふうん、と弥命は思案げに呟く。それから、怠そうにぼやいた。

「アダナシ、って言ったか。面倒くせーのに捕まったな。良い迷惑だ。俺らなんもしてねぇのに」

旭も頷いた。とばっちりも良いところである。

「結局僕はもう、魂食べられたり幽霊に襲われたりしませんよね?」

「大丈夫じゃねぇか?お前もう、魔を祓う設定ついてるし。流言だけど」

「それ大丈夫なんですか」

不安げな旭に、弥命は笑う。

七十五日しちじゅうごにちもすれば、やむだろ。やまないなら、そんときゃそんときだ」

適当に言っているようにしか聞こえないのに、旭は、なら大丈夫かと思ってしまう。

(叔父さんが言うなら……いいか)

黙った旭を眺めながら、弥命は改まった声を出す。

「旭は、俺が困ることあるのか、って聞いたな」

思いもしなかった言葉に、旭も弥命を見る。

「はい。そんな場合じゃなかったのに、すみません」

弥命は息を吐き出す。

「んなことは良い。ーーあるんだぞ、困ること。良い機会だから、教えといてやるよ」

「え?」

弥命は旭を見て、不敵に笑う。夜に見る水のような色の瞳に、旭は吸い込まれそうになる。

「旭に何かあったり、いなくなることだよ。俺は、旭が居る今の生活が気に入ってるんでね。旭に何かあったら俺が困る。ーー分かったか?」

旭は、目を丸くして弥命を見ている。何か言おうとして薄く開いた口が、でも何かが詰まったように何も出ない。

(何て言えば良いのか、分からない……。そんなこと考えない人だと、思ってた)

常に冷静なことの多い旭のそんな表情が可笑しくなり、弥命は噴き出した。笑いながら、旭の背を叩く。

「おもしろ。お前もそんな顔すんだな」

「……知りませんけど。ーー分かりました」

ようやくそう言った旭に、弥命は更に笑った。そんな弥命を見ながら、旭は胸元を押さえる。

「あの。夢渡り、って何ですか?今は別に、どこも何とも無いんですが」

弥命は顎に手をやり、空を睨みながら小さく唸る。

「何となく予想はつくが、俺にも分からん。何かあったら言え。前に言ったろ?助けてやるって。旭は命の恩人だからな」

「命の恩人は大袈裟ですよ」

「今回は助けてやれてねぇけど」

「助けてくれたじゃないですか」

間髪入れずに返しながら、旭は不思議そうに弥命を見た。それから、穏やかな表情になって微笑む。

「いつもありがとうございます、弥命叔父さん」

弥命は、普段の凶悪さが一切消えた目で旭を見て、笑う。それは、旭が初めて見た眼差しだった。


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