「甥君が幽世に向かわれておりますよ」
「は?」
宵の口。
弥命は、自宅の縁側で煙草を吸っている。見るともなしに庭を見ていると、和服姿の女が夜気へ滲むように現れた。鮮やかな青い着物に、紅い珊瑚の簪を挿した黒髪の女は、目を伏したまま、微笑んでいる。弥命は、鋭い視線を彼女に向けた。
「あんたは誰だ」
「甥君が助けた者に仕える者にございます。私がお仕えする方は、人に非ず。ですが、人の子である甥君の心にいたく感心し、幽世にてお迎えしようとお考えです」
「……それで、何であんたがここに来る」
「甥君に、何やら“約束事”が視えまして。貴方様と関わりがあるもののようですね。ですので、先に縁有る貴方様に一つ、報せをと思い参じました」
弥命の顔が更に険しくなる。女は、睨む弥命の目をちらりと見上げ、溢れるような笑い声を漏らす。
「私はただ今、報せを告げました。貴方様の約束事、我らには介入出来ませぬ。どうなさるかは御心のままに。ですが、もし甥君を連れ戻されたいのなら、こちらを」
女は弥命の前まで歩いて来て、懐に手を入れる。紙を三枚取り出し、す、と弥命へ差し出した。どれも白紙である。
「これは?」
「手に取れば、必要な姿に」
弥命は、紙と女とを見比べ、三枚を手に取った。それぞれは見る間に、切符へと変わる。往復一組と帰り用が一枚。
「切符?」
「甥君も片道の切符をお持ちです。甥君が辿り着いた駅の名をよんでしまうより前に、お迎えくださいませ。それと。我らはいつでも、甥君を歓迎いたします故」
女は深々とお辞儀すると、ふわりと消え失せた。弥命はしばらく庭を睨んでいたが、心底怠そうに息を吐き出すと、煙草の始末をして立ち上がった。
弥命の持つ切符は、最寄り駅が出発地だった。
まだまだ人の多いホームから、弥命は電車に乗り込む。切符を見ても、目的の駅は名前が読めない。記号のようなものが羅列されている。弥命は、適当に座った座席で息をつく。
(読めたら終わり、ね)
切符を胸ポケットに仕舞い、軽く目を閉じる。青い着物の女が言った、約束事。弥命はその言葉と共に、昔のことを思い出し、無意識に顔を顰める。
(ああ、くそ。面白くない)
思い出したくも無い過去を、無理やり暴かれた不快さ。目を閉じても、周囲の喧騒や無機質なアナウンス、全てに苛立つ。弥命の中のぐるぐるする暗闇に最後に浮かんだのは、幼い旭の顔だった。
ガタン、と大きく揺れ、弥命はハッと目を開けた。喧騒もアナウンスも無くなっている。車内は無人だった。
「……何だ。明るい」
窓の向こうは、眩しく陽が照っている。様々な草花が咲き乱れ、緑が優しく美しく続いていた。ビルや家などの建物も無い。森の中を走っているようだ。弥命はしばらく車窓からの景色を無感動に見やり、切符を取り出す。
「目的地は近いってことかね」
旭は果たして、駅の名をよんでしまったのかどうか。
(どう転んでも面白いっちゃ面白いが。向こうのやり方は好かねぇ)
アナウンスが流れた。どこかの駅に着くらしい。弥命には、駅名部分は聞き取れなかった。電車は速度を落とす。その駅のホームは、四季の花々が咲き乱れていた。埋め尽くすほどの緑。
(緑と花が凄すぎて、遺跡みてーだな。良い景色なんだろうが、異様だ)
ドアが開く。運良く直ぐ側に、こちらに背を向けて立つ旭が見えた。その姿は、陽炎のように時折揺らいでいる。その旭と向かい合うように、影の無い駅員が穏やかに立っていた。旭は手に持つ切符を、じっと見つめている。何か、探るように。
(間一髪か?)
弥命は、旭の手から引ったくるように切符を取り上げる。
「ーー読むな。帰れなくなる」
左耳の金魚が、空を泳ぐ。それに、旭の目が奪われる。
「あなたは、」
まるで見知らぬ人への呼びかけ。弥命の胸の奥深くが、ちりと痛む。
(記憶が消え掛かってるな)
「戻って来い、
弥命は、その名に祈るような気持ちを乗せて呼び、旭の頭を撫でるように手で押す。柔らかな、旭の天鵞絨色の髪が跳ねる。見開かれたその目が、弥命に向く。
「……
弥命は無意識に、笑みを浮かべた。ふらついた旭の腕を掴んで支えると、持って来ていた切符を手に握らせる。
「帰りの切符だ。電車はもう来てる」
振り向いた旭は、電車を見つけて目を丸くする。いつの間にか閉まっていたドアが開き、風が旭の前髪をさらう。一度、駅員を振り向いた。駅員は旭を見つめ、穏やかな顔で微笑んでいる。
「あなたのような方なら。いつでも歓迎いたしますよ。この先も」
固まってしまった旭の肩を弥命が押し、車内に入れる。弥命が来た時と同じ、無人の車内。弥命も乗り込んだ。駅員を見ている。
「この場所は面白くて惜しいが、この子にゃまだ早い」
(こんな訪れ方して良い場所でもねぇし)
駅員は、にこりと笑った。ドアが閉まる。ガタン、と揺れて、電車は動き出す。しばらく窓の向こうの景色を見ていた旭は、やがて弥命の方を向く。
「叔父さん」
だが、その身体は不意にふらつき、そのまま崩れた。倒れる前に、弥命はその身体を支え、座席に座らせる。少し顔が青いが、ぐっすりと眠っていた。
「難儀なもんだよ、本当に」
弥命は旭の隣に座り、肩に頭をもたれさせてやる。安心したように穏やかになっていく旭の寝顔を、弥命は息をついてしばらく眺めていた。
目を閉じた記憶が無いが、ガタン、と大きく揺れた衝撃で、弥命は目を開ける。人々の喧騒、無機質なアナウンス。ちらほらと、車内に座っている客。通常通りの電車の車内。
(戻って来たか)
ほう、と弥命は息を吐く。隣では、旭が変わらず眠っている。よほど心地良いのか、弥命に上半身のほとんどを預ける勢いでもたれていた。成人したとはいえ、まだ僅かにあどけなさを残した寝顔に、弥命は内心苦笑いを浮かべる。
(こういう顔は、昔とあんま変わんねーのなあ)
窓の向こうはすっかり夜。弥命がスマホを見れば、深夜に近い時刻を示された。
(こんな時間かよ。あー疲れた……腹減ったし)
「おい、旭。起きろー。駅に着くぞ」
弥命は旭の肩を揺らしながら、声を掛ける。目を開けた旭は、まだぼんやりとしていたが、自分の体勢を自覚した瞬間、慌てて弥命から離れた。
「すみません」
景色を見ながら遅い夕飯のことを考えていた弥命は、さして気にもとめずに旭を見やる。
「晩飯、あばら家のラーメン食い行くか」
「前、連れて行ってもらったラーメン屋さんですか」
「そ。美味いだろ、あそこのラーメン」
弥命は不敵に笑う。旭はホッとしたように息をつく。
「ええ、まあ」
そんな会話をしていると、最寄り駅のホームに電車が滑り込んだ。
「あの駅が何だったのか、叔父さんは知ってるんですか?」
深夜。ラーメン屋からの帰り道。
ぶらぶらと旭の少し先を歩く弥命の背に、旭の声がぶつかる。弥命は怠そうに答えた。
「詳しくは知らんが、まあ、境界の場所だろ」
「境界」
「ざっくり言えば、生と死の狭間みたいな?」
適当な調子で答えてから、弥命は楽しげに笑う。
「ほとんどあの世だったかもな。旭、自分のことほとんど思い出せなくなってただろ」
肩越しに、弥命が振り向く。左耳の金魚が揺れた。旭は少し考えて答える。
「そう……ですね。叔父さんに名前を言われるまで、忘れてました。それを何とも思ってませんでしたし」
旭の答えに、弥命は立ち止まって溜息をつく。
(肝の冷えること平気で言うじゃん……)
「結構ギリギリだったんだぜ。あの切符の行き先が、あの駅の名前が、完全に読めちまってたら詰んでたよ。まあ、それはそれで面白そうではあるが」
旭の顔から血の気が引く。その顔を見、弥命はやや安心する。旭は、納得がいっていないように言葉を返す。
「僕、あんな切符を手に入れた覚え、無いんですけど」
「電車に乗る前、人助けしただろ」
弥命の言葉に、旭は少し考えて、あ、という顔をする。
「小さいお爺さんを背負って、駅のホームに連れて行きました。何で知ってるんですか?」
不思議そうな顔の旭に、弥命は笑うだけで何も答えない。
(あの女の説明すんの、だりーからな)
「それで、その爺さんに何か言われたな?」
弥命が重ねて言えば、旭は頷いた。
「“お前さんのような人間が行ける良い場所がある。そこへ案内してやろう”と。でも、その言葉だけで、切符なんて貰ってません」
「それだな。切符は旭が気付いてなかっただけだ」
「あのお爺さん、人間じゃないんですか」
「さあな。そこまで俺は知らん」
弥命は前を向いて、歩き出す。
「叔父さんは何で来れたんですか。帰りの切符も、」
旭は追いながら、珍しく弥命へ質問を重ねる。弥命は笑いながら、ちらりと振り向いた。感情の起伏や執着心が分かりにくいこの甥っ子が食い付いて来るのが、少し面白くなっていた。金魚のピアス以来の食い付きぶりである。
(面倒くせーし、昔話はまだしたくねーし、話さんけども)
「教えてくれたやつがいたんだ。説明は面倒だから無しな。帰ってこれたんだ。それで良いだろ」
弥命が言えば、旭はすん、と落ち着いた。納得したようだ。それでも旭は、何か言いたげに呼びかける。
「叔父さん」
「ん?まだ質問か」
怠そうに前を向いた弥命の後ろ姿へ、旭は言った。
「ありがとうございました」
感謝と、気恥ずかしさのようなものも含んだその言葉は、それでも確かに弥命へと届く。弥命のいつもの鋭い眼光や険しい雰囲気は、一気に和らいだものへ変わる。だが、旭はそれに気付くことは無い。旭の言葉に返事を返すでもなく、弥命はしばらく無言で歩いていたが、また口を開いた。
「あの駅、良い場所だったか?」
旭は目を丸くしたが、考え考え、答える。
「そうですね。心地良い場所だと思ってます。この世じゃないと知っても」
弥命は、ふうん、と思案を含んだまま返事を返した。
(ああいう場と、相性は良いのか。厄介か、それとも……。まあ、俺の考えは変わらんが)
「俺は、あの世に行くことは別に止めないが。行くなら、自分で考え抜いて納得ずくで行け。自分でな。善意の押し付けで知らねえ内に行かされたんじゃ、フェアじゃないだろ。旭にとっては」
旭の瞳が揺れる。じっと弥命の背を見つめる目には、様々な感情がない混ぜになっていた。
「俺は、そういうのは好かない」
(説教くさい。やだね、年取るってのは)
弥命は内心溜息をつきながら、振り向いて旭を見た。
「あーあ、柄にも無いこと言っちまった。やめだやめ。さっさと帰って寝ようぜ。午前様なんだからよ」
弥命は旭に歩み寄り、その肩を叩く。触れられること、その肩が暖かいことに、弥命は改めて安堵する。その安堵を欠片でも旭に気取られぬよう、さっきよりも速足で歩いて行く。旭の確かな返事と足音を背に聞いて、弥命は笑っていた。