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第1話

   1


 朝から何だか違和感があった。


 それは喉に刺さった魚の小骨みたいに僕の胸につっかえて、けれどその正体が何なのかも判らずただもやもやとした感情だけがそこにはあった。


 僕は店の前の掃き掃除をしながら、ふと店裏の路地に向かう小道を覗き込んだ。


 街灯の消えた薄暗い路地にはおばあさんが一人、手押し車?を押しながらこちらに向かって歩いてくるのが見える。


 向かいに住む相良さんだ。


 相良さんは僕と視線が交わると、軽く会釈して、路地を抜けて僕の前を通り過ぎながら、いつもの笑顔で、


「おはよう、晴人くん。今日も暑くなりそうねぇ」


「おはようございます。そうですね。相良さんも身体に気を付けてくださいね」


「ありがとう」


 まるで定型文化したいつもの挨拶を交わすと、相良さんはそのまま家の方へ帰っていった。


 僕は改めて路地を覗き込み、昨夜僕がぶっ倒れていた場所に視線をやった。


 何となく漂ってくる生臭さは、あの時潮見芽衣の猫が食べていた魚の残り香か何かか、それとも、なんて思っていると、店の中ら母親がふらりと姿を現して、そのまま路地の方へ行くと小さな魚を二尾、皿にのっけた状態で道の上にことりと置いた。


「え、何やってんの?」


 僕が問うと、母親はにへらと笑いながら、

「猫の餌」


「はい?」と僕は思わず眉間に皺を寄せる。「まさか、野良猫に餌やってんの?」


「あ、悪いことだって言うのはわかってるのよ? けど、近所の猫に懐かれちゃって、ついつい。本当は家で飼ってあげたいんだけど、ほら、うちは飲食店だし、なによりお父さんが猫アレルギーでしょ? 仕方がないから、餌だけでもって……」


「もしかして、昨日の夜も餌あげてた?」


 すると母親は「えへへ」と誤魔化すように笑うと、

「朝と晩にね。気づかなかった?」

 そう言い残して店の中に戻っていく母親に、僕はため息を吐かずにはいられなかった。


 余計なことをして、ご近所さんに迷惑がられたりとかしてなければいいんだけれど。


 にしても、そうか。母さんが餌なんかやっていたから、昨夜も潮見の猫が食べに来ていたのか。


 それを知らずに、街灯に照らされた猫の影を化け猫だと思い込んでしまって……?


 ……

 …………

 ………………


 なんだろう、よく解らないけれど、やっぱり違和感。


 いったい、このもやもやの正体はなんだろう? わけがわからない。


 僕はもう一度ため息を吐くと、気を取り直して店の前の掃除を再開する。


 まぁ、悩んでたって仕方のないことは考えるだけ無駄だ。


 と、そこへ見慣れたスーツ姿のおじさんがふらりと姿を現して、店の前を素通りして国道の方へふらふらと歩いていくのに気が付いた。


 潮見のおじさんだ。


 僕は潮見さんの背中に、

「おはようございます、潮見さん!」

 挨拶したのだけれど、潮見さんはそんな僕の声がまるで聞こえていないのか、覚束ない足取りで返事することなく去っていった。


 けれど、それは潮見さんだけではなかった。


 いつも店の前を通って出勤していくご近所さんたち全員がそんな感じだったのだ。


 いつも挨拶してくれていた人たちが、無気力に、無関心に、まるで焦点の合わない視線を道路に向けたまま、ふらふらと自動的にバス停や駅、町中に向かって歩いている。


 その姿は自らの意識を失ったゾンビか何かのようで、まるで生気がなく、気持ち悪くて、気味悪くて、僕はそれ以上、誰にも声を掛けることができなかった。


 町の人たちからは『無気力症候群』なんて呼ばれているけれど、もしこれが何かの感染症のように人にうつるものなのだとしたら、と考えるとなんだか恐ろしくなってくる。


 五月から流行り始めていたという、謎の症状、或いは病気……


 いったいその正体は、何なのだろうか。


 僕はひと通り家の手伝いを済ませると、母親に言われるがまま宿題に手を付けた。


 一、二ページほどダラダラと宿題をやっていると、両親が買い出しに行くというので、逃げるなら今がチャンスとばかりに、僕も宿題を放っぽりだして外へ遊びに出ることにした。


 とは言え、何も考えずに遊びに出たものだから、行く当てがあるわけでもないし目的もない。


 暑いばかりの外は、たとえ無気力症候群でなくてもやる気を削ぐほどだった。


 道を歩く人の数もまばらで、時折見かけるサラリーマン風のおじさんやおばさんは皆一様に焦点の合わない眼でふらふらと歩いている。こんな状態で車なんて運転された日には人身事故とか起こされそうで非常に怖い。案外、僕の知らないところでは事故が多発してたりするんじゃないだろうか。


 そんなことを考えてしまう程、大人たちの眼は虚ろでまるで死人のようだった。


 僕はあまりの暑さに、涼を取りつつアイスでも食べようとコンビニに入った。


 わずかばかりに生気のある人々の顔がそこにはあって、なんとなく安堵する。


 やはり皆、暑さにやられて頭がぼんやりしているだけなのだろうか。


 僕はコンビニでアイスを買うと外に出てそれを食べながら再び道を歩き出した。


 とりあえず、目的地は商店街。行けば何か暇をつぶせるものがあるだろう、たぶん。


 それにしても、と僕は改めて周囲を見回す。


 何度見ても、道を歩く人々の姿はやはりどこか気味が悪い。明らかにゾンビ化している。或いはこの町全体が何かの呪いにかけられてしまったかのようだと僕は思った。


 それは例えば、悪い魔女が町に呪いをかけて支配しようとしているような――


「あら? よく会いますね」


 ふと後ろから声を掛けられて振り向けば、そこには両手に虹色ラムネと双福饅頭を持った真帆さんの姿があった。


 まただ、と思った。また、虹色ラムネ。


 いったい皆、どこでこれを買っているのだろう。


 さっき入ったコンビニにも、こんなものは置いてなかった気がするけれど。


 コンビニだけじゃない。普段行くスーパーにだって、こんなラムネは置いていない。


 いったい、叔父さんも真帆さんも坂の上の魔女も、どこからこれを手に入れているのだろうか。


「こんな暑いのに、ハルトくんはどこかへお出かけですか?」


「いや、暇なんで適当に歩いているだけです」


「じゃぁ、私もご一緒してよろしいですか? 私もそろそろ暇を持て余してるんですよねぇ」


「真帆さんはいつまでここに?」


「そうですねぇ」と真帆さんは小首を傾げ、少し困ったように、「お仕事が終わるまで、ですかねぇ」


「仕事? ただの旅行者だって言ってませんでした?」


「両方です。お仕事ついでの旅行ですね」


「……なかなか気楽なお仕事で」


「とも言えないんですよねぇ。もう少し簡単に終わると思っていたんですけど、なかなか原因が掴めなくて。非常に困ったさんです」


「原因? 何の?」


 すると真帆さんは「ぷぷっ」と噴き出すように笑ってから、

「秘密ですっ」

 軽くウィンクして見せる。


 なんだよ、いったい……


 僕がそんな真帆さんに眉を寄せると、真帆さんは気にするふうでもなく、

「それにしても、皆さん、ずいぶん疲れたような顔してらっしゃいますよね」


「うん」


「晴人くんは大丈夫ですか?」


「僕は、今のところは」


「それはよかった」真帆さんはにっこり微笑んでから、「そうだ、喉が渇いたでしょう? これをどうぞ」


 そう言って、どこからともなくもう一本、あの虹色ラムネを取り出した。


「……ありがとうございます」


「いえいえ」


 素直に受け取ったそのラムネは、何故かキンキンに冷えていて。


 僕は不思議に思いながらも開封し、栓をしていたビー玉をぷしゅっと中に落としたところで、

「あのさ」

 と真帆さんに声をかけた。


 真帆さんは、

「はい?」

 とこちらに顔を向ける。


 僕はラムネを一口飲んでから、真帆さんに顔を向けて、

「……こないだ会った時、真帆さん、石仏が壊されたとか、祠が壊されたとか、そんな話を探してるって言ってましたよね」


「お、何かありましたか?」

 真帆さんの瞳が、きらりと光る。


 僕は首を横に振ってから、

「いいえ。ただ、本当に怪談目的なのかなって」


 そう、それは何となく、ずっと考えていたことで。


「ほほう? どうしてそう思いました?」


 にやりと笑む真帆さんに、僕はため息を一つ吐いてから、


「ただの興味本位で探してるっていうより、何か別の目的があって探してるように見えました。今日もそうなんじゃないかなって。さっきも言ってましたよね? なかなか原因を掴めないって」


 じっと真帆さんを見つめれば、真帆さんは微笑みを浮かべたまま、何も言わない。


「教えてくれませんか?」


 けれど真帆さんは、にやりと口元を歪ませてから、

「さぁ、どうしましょう」

 などと口にする。


 僕はそんな真帆さんに、

「じゃぁ、当てて見せます」


 興味深そうに、真帆さんは目を細める。


「ほほう?」


「もしかして、無気力症候群と関係ありますか?」


「あの夏バテみたいなやつですね」

 ふんふんと頷く真帆さん。


 僕は立ち止まり、改めて真帆さんの眼を見つめながら、

「あれ、本当にただの夏バテなんですかね。ただの夏バテには見えないんですよ。みんな心ここにあらずだし、ぼんやりしてるし、俺の友達なんて、もしかして変な病気でみんながゾンビ化してるんじゃないかって言ってるし。だって、明らかにおかしいんですよ。まるで何かの呪いみたいなんですもん」


「……」


 口元に手を当て、微笑みを浮かべたまま無言になる真帆さん。


「僕の幼馴染のミナトなんて、だんだん体調が悪くなって、息をするのも辛そうだっていうし」


「……それ、本当ですか?」


 途端に真帆さんの表情が変わる。


 真帆さんは眉間に皺を寄せて、僕の顔を覗き込んできた。


 僕は間近に迫る真帆さんの良い香りにどぎまぎしながら、

「え、う、うん」

 と頷く。


 すると真帆さんは「なるほど」と口にして、

「すみません、前言撤回します。ただ、その前に、その幼馴染のミナトさんの様子を見たいんですけど、おうちまで案内していただけますか?」

 真剣な面持ちで、そう言った。

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