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第1話

   1


『釣りに行かないか?』


 朝一番。家の前を掃除中、店の古い電話がけたたましく鳴り響いて慌てて受話器を取ると、僕の声を聞くや否や、陸がそう切り出してきたのだった。


 父さんはまだ仕入れから帰ってきておらず、母さんは家のことで忙しそうだった。


 とりあえず店の掃除を済ませてからなら良いよと母さんに許可を取り、僕は使い古したボロの釣竿を持って家を飛び出した。


 錆びかけた自転車を漕いで海沿いの道路を走り、古くからそこにある小さな釣具屋に向かう。


 父さんによれば、まだ父さんが小さかったころからその釣具屋はそこにあったらしい。


 八十歳を超えた爺さんが一人でほそぼそと経営している、地元民しか知らないような、本当に小さな釣具屋さんだ。


 僕が店に着いたときにはすでに陸も優斗も集まっていて、陸は僕の姿に気づくや否や、

「遅いぞハルト!」

 と大きく手を振ってきた。


 僕は自転車から降りつつ、

「ごめん、ごめん」

 と自転車のスタンドを蹴って立てる。


「蒼太もまだ?」


 その姿が見えないことに気づいて訊ねると、陸は首を傾げながら、

「誘ったけど、今日はだるいからやめとくって」


「ふうん?」


「んじゃ、ま、いくべ」


 優斗の言葉に続いて、僕ら三人はその小さな釣具屋の中に並んで入る。


 いつからあるのかわからない釣り竿やリール、おもり、明らかにパッケージの色褪せた網、釣り糸、ルアー、そして青いバケツなどなど、色々なものが所狭しと並んでいる店の奥で、老眼鏡をかけた爺さんがラジオをかけながら新聞に目を落としつつ、

「らっしゃい」

 と不愛想に口にする。


 その爺さんのすぐ近くには上部の開いた小さな水槽がいくつも並んでおり、イソメやゴカイ、オキアミ、カニやユムシといった釣り餌がそれぞれの水槽に入れられ、気味悪くうねうねと蠢いていた。


 触ることも針に刺すことも出来るのだけれど、そうはいっても気味が悪いものはやっぱり気味が悪いことに変わりはない。


 陸や優斗は特に気にならないらしいのだけれど、僕や蒼太はそれが理由で、陸たちに誘われない限り、釣りに行こうなどとは思わない人間だった。


 陸は他の商品には目もくれず、爺さんのところまで歩み寄ると、

「爺さん、イソメちょうだい」


「……はいよ」


 爺さんはよっこらせ、と立ち上がると、腰を屈めながら陸の指定した金額分、パックにイソメを詰め込んでいく。陸はその代金を支払うとこちらに顔を向けて、

「金はあとで割り勘な」

 とにやりと笑んだ。


 それから僕らは店を出ると、自転車を店の脇に置いたまま、歩いて海の方へ向かった。


 向かった、と言っても店と海は目と鼻の先、道路を挟んだ向かい側。


 灰色の防波堤伝いには、いつからそこに居るのか判らない何人もの老人が釣り糸を垂らしていた。


 それぞれが煙草をくゆらしながらぼうっと竿の先を見つめていたり、缶コーヒーを飲みながら談笑していたり、何とも気の抜けた自由な時間って感じだ。


 僕らはその片隅の空いた場所を陣取ると、三人並んで釣り針に餌を刺し、できる限り遠くまで針を飛ばした。


 ぽちゃん、と海に落ちるのを確認して、それぞれ釣竿を構えた。


 周りの爺さんどもはロッドスタンドも持参していて、一人で複数の竿を用意していたりするのだけれど、遊びでたまに釣りをする程度の僕らがそんなものを持っているはずもない。


 魚が針にかかるまで竿を持ったまま、時折リールを巻いてみたりしながら、ただじっとおしゃべりしながら待つだけだ。


 連れたらラッキー。釣れなくても、まぁ、それはそれ。楽しめればそれでいい。


 そんな軽い気持ちでやっているだけだったのだが、

「……お?」

 針を投げてから数分も経たないうちに、陸の釣竿がぴくぴく動く。


「かかった!」

 と叫び声をあげたかと思うと、今度は優斗の竿も動き始めて、

「あ、俺も!」

 と二人並んでリールを巻き始める。


 なんだよ、良いなぁ、なんて僕が口を開こうとした瞬間、続けざまに僕の竿も力いっぱいに引っ張られて、思わず態勢を崩しそうになった。


「おっとっと……!」


 逃げられないように気を付けつつ、僕もリールを巻いていく。


 これは結構な大物に違いないと思いながら、ぐんぐん引っ張られる感じにちょっと不安を感じつつ、竿を右や左に揺らしながら、僕はその力に必死に耐えた。


「お! キタキタキタ! チヌ、キタ、チヌ!」


 隣から陸の歓喜に満ちた声が聞こえてきたかと思えば、

「すげぇ! 俺も俺も!」

 と優斗も同じくチヌを釣り上げた。しかもそこそこデカい。こんなデカいのを釣ったの、僕らとしては初めてじゃないだろうか?


 なんて悠長なことを考えていると、思わず引っ張られそうになって、僕は足を踏ん張りながら竿を一気に引き込んで、

「おおぉっ!」

 ついに釣り上げたそのチヌは、二人のなんかよりも、もっともっと大きかった。


「はははっ! 三人そろって釣れるなんてすげぇな!」


 陸が嬉々としていると、少し離れたところにいた爺さんたちからも、やたらと大きな歓声が聞こえてきた。


 何が釣れたのか見えないけれど、あちらもかなりの大物だったらしい。


 ちょっと見に行ってみようかと思ったところで、

「あ! またなんかかかった!」

 早くも二投目にかかっていた陸が、さらに魚を釣り上げる。


 今度は丸々太ったスズキ、さらには優斗までキジハタを釣って――


 あとはもう、入れ食い状態だった。何が何だかわからなかった。こんなことは生まれて初めてなんじゃないだろうか。僕たち三人の用意したバケツはあっという間に釣れた魚でいっぱいになってしまい、もうこれ以上入りそうになかった。


 周囲を見回してみれば、爺さんたちも僕らと同じくらい、或いはそれ以上の魚を釣り上げており、満面の笑みで片付けに取り掛かっている。


「すごいなぁ、はじめてこんなに釣ったわ」

 にやにやと嬉しそうな陸。


 それに対して、優斗は少し困ったように、

「でもこれ、どうしようかなぁ。うち、親が魚さばけないし、俺も魚好きじゃないしなぁ」


「んじゃぁ、ハルト、お前持って帰れよ。お前んち、居酒屋やってたろ? 店で出せばいいんじゃないか?」


「えっ? いや、でも――」


 こんなに貰っても、さすがにうちの両親も困るのでは? っていうか、僕らが釣った魚を店で出すのって大丈夫なの? ほら、法令的にとか。衛生的にとか。よく解らないけれど。


「それか、このまま海に捨てるかだな」


 陸のその言葉に、僕はバケツ一杯の魚と二人の姿を見比べてため息を吐いてから、

「わかった。持って帰ってみるよ」


「わりぃな、頼んだよ、ハルト」

「よろしくな!」


 やれやれ、と思いながら僕は二つのバケツを持って歩き出した。


 自転車を停めた釣具屋まで戻りながら、ふと思う。


 でも、これ持ってどうやって自転車を漕げばいいんだ? まさかこんなに釣れるだなんて思ってなかったから、何も考えてなかったなぁ……どうしようか。やっぱり家までは優斗に持ってきてもらおうか。っていうか、なんで僕はすでにバケツを二つも持ってるんだ? 一つは優斗の分じゃないか。なんか流れで持っちゃったけど、今、僕が持ってる必要なんて――


「おわあぁっ!」


 その時、後ろを歩いていた優斗が突然大きな叫び声をあげ、僕は慌てて振り返った。


 そこには前のめりに倒れた優斗の姿がって、僕と陸は慌てて優斗に駆け寄って、


「大丈夫か?」

「何してんだよ、怪我ないか?」


 声をかければ、優斗は少し擦りむいた鼻先に手をやりながら、

「いったたた……なんだよ! なんでこんなところに石が放り投げられてんだよ! ムカつくなぁ!」


 ゆっくりと立ち上がり、擦りむいて膝に血のにじみ出た足で、道端に放り投げられた大きな四角い石を蹴り飛ばした。


 石の長さは三十センチくらい、太さは直径で十センチ程度だろうか。そういえばさっき来るときにもあったような気はするけれど、あの時は何も考えずに避けて歩いたっけ。


 優斗は「ちっ」と大きく舌打ちすると、その石を重たそうに担ぎ上げて、道路脇へとご丁寧によけてやると、

「これでよし。ったく。怪我しちゃったじゃんか!」

 なおも悪態を吐いている。


 そんな優斗に、僕は、

「なら、とりあえずうちに来いよ。消毒と傷テープくらい貼ってやるから」


「そう? ありがとな」


 それから優斗の前に、僕の手にある例のバケツを一つ提げてやりながら、

「――だから、こっちの方は優斗が持て。重い」


「え? あ、あぁ、ごめん……」


 優斗は素直にバケツを受け取ると、僕ら三人、再び並んで歩き出した。

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