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第2話

   2


 坂道と長い階段を下り、旧道を抜けて広い国道に出る頃には、僕の体は再び全身汗だくになっていた。


 なるべく陽の光に当たらないよう、陰に隠れるようにしてここまで下りてきたのだけれど、どう足掻いたところで暑いものはやっぱり暑い。


 あまりの暑さに一旦近くのコンビニに逃げ込み、伯父さんから貰った小遣いで早速スポーツドリンクのペットボトルを買って外へ出た。


 軒下の陰でキャップを開け、ごくごくとのどを潤す。伯父さんの家で飲んだラムネも美味しかったけれど、個人的にはスポーツドリンクの方が好みだった。


 一息ついて再び歩き出し、容赦なく降り注ぐ陽光の下、暑い暑いと口の中で繰り返しながら、なんとかぶっ倒れることなく帰宅する。


 うちの家は観光地化したエリアから少し離れた海岸沿い、まだ古い防波堤の残る一画の小さな通りに建っている。築数十年の三階建て。一階部分は両親の経営する居酒屋(但しそれは夜の話、お昼時は定食屋としてやっている)で、二階部分が両親の部屋と寝室、僕の部屋は少し狭い三階の奥に位置している。


 まだ昼前なので当然のように暖簾は出していないが、母親が外へ出てホウキと塵取りを手に店前の掃き掃除をしているところだった。


 開け放たれた引き戸の向こう側にはカウンター、そこには仕入れから戻ってきた父親の姿が見える。


「あら、おかえり」

 母親が僕の姿に気づき、にっこりと微笑む。


 その笑い皴にそれなりの年齢を感じつつ、

「ただいま」

 と僕は返事して、そのまま店の中に足を向けた。


 父親はカウンター越しに、こちらに顔を向けることもなく、

「伯父さん、元気そうだったか?」


「うん」


「そうか」


 それっきり、父親は黙々と下拵えに集中する。まぁ、いつものことだ。


 僕はそんな父親の姿を尻目にカウンターの脇を抜け、暖簾で目隠しされた土間で靴を脱ぐと、短い廊下を通って一番奥、風呂場のすぐ目の前の階段を三階へ上がった。


 六畳ほどの僕の部屋には学習机付のロフトベッドが置かれており、その前には雑然と通学鞄や衣服、ゲーム機なんかが転がっていた。


 転がっていた、というより、まぁ自分がその辺に投げっぱなしにしているだけなのだけれど。


 そんな雑然とした部屋の中を、僕はこれから友人たちと市営プールで遊ぶべく、水着と着替えと、その他もろもろを準備しなければならなかった。


 時計に目を向ければもうすぐ十時。十時半には現地集合の約束だったから、もしかしたら約束の時間を少しオーバーしてしまうかもしれない。


 まぁ、多少の遅刻くらい許してくれるだろう、などと思っていると、

「ハルト~!」

 窓の外から声がして、僕はちょっと慌てた。


 約束では現地集合のはずだったけれど、やっぱり迎えに来てしまったか。急がないと。待たせるわけにはいかない。


 僕はまだ畳んでいない洗濯物の中から海水パンツと着替え一式を何とか探し出してリュックに詰め込み、自室を出ると階段を一気に駆け下りて一階に向かった。


「いってきます!」

 一応父親に声をかけると、

「おう」

 といつも通りの短い返事。


「いってらっしゃい」

 母親だけが笑顔で見送ってくれる。


 そのまま店の外へ飛び出すと、

「おはよう、ハルくん」

 そこには幼馴染でお下げ髪の女の子、日比崎陽葵ひびさき ひまりと、

「おはっ、ハルト!」

 陽葵の弟、みなとが僕のことを待っていた。


 僕はふたりに向かってわざとらしく肩を竦めながら、

「先に行ってて良かったのに」

 すると陽葵は微笑みながら湊を指さし、

「湊がハルくんと一緒に行きたいって」

「一緒に行こう、ハルト!」

 湊は言って、僕の腕にしがみついてきた。


 小学四年生の湊は歳の割には少し幼く、どうかするとまだ一、二年生くらいに見えるほど背が低かった。兄弟の居ない僕にとって湊は弟のような存在だったし、湊も僕のことを兄のように慕ってくれるので悪い気はまったくしない。


「わかった、わかった」

 僕は湊の頭をわしゃわしゃしてやる。


 あははははっ! と嬉しそうに笑う湊。


 そんな僕たちに、陽葵は「はいはい」と小さくため息を吐いてから、

「ほら、早く行こっ。みんなを待たせちゃうよ!」

 反対側の僕の腕を引っ張って、足早に歩き始めたのだった。


 暑い日差しの中を、僕らは市営プールのある小さな山の中腹まで、四十分ほどかけて歩き続けた。


 国道沿いの歩道を、コンビニやスーパーの前を経由して駅前を通り過ぎ、そこからガード下を潜り抜けて細い坂道を登る。僕と陽葵の足ならもう少し早く歩けたのだろうけれど、湊を引き連れていてはそうもいかない。この暑いなかを帰りも同じ道を歩かないといけないのかと思うと、何だかすごく辟易した。伯父さんからお小遣いをもらっているし、帰りはバスにでも乗って帰ろうと、僕はそう誓った。陽葵や湊のバス代を払うくらい、問題ない。


 市営プールの前までやっとの思いでたどり着くと、友人の吉浦陸、平原優斗、久保蒼太、そして古浜こはま千花の四人が待ちくたびれたように入り口付近の木陰でたむろしていた。


「ごめん、遅くなった」

 と僕が声をかけると、坊主頭の陸は苦笑いするように、

「まぁ、だろうと思ったけどな」

 湊に目をやりながら、そう口にした。


「いえ~い! りく! おひさ!」

 と湊が無邪気に声を張り上げると、

「おひさ、って程でもないだろ?」

 後ろで小さく髪を束ねた優斗が、湊の頭をわしゃわしゃしながらツッコみを入れる。

「一昨日も一緒に遊んだじゃないか」


「きのう会わなかったから、お久しぶりなんだよ!」


「そうか、そうだったのか。じゃぁ、お久しぶりだな」


 ははは、と笑うそんな僕らの隣では、陽葵と千花が、

「ごめんね、待たせちゃった」

「仕方ないよ、弟の面倒見るのも大変だね」

 と会話を交わしている。


 千花はよく日に焼けた肌に、短い髪がさわやかな、見た目通りに活発な女の子だ。陸上部に所属しており、家はアーケード商店街にある古浜生花店『フラワーCHIKA』だ。陽葵とは小学生の頃から仲が良くて、中学生になった今でもいつも二人一緒にいる。


 ちなみに僕らの方はというと、陸とは小学校は同じだったけれど、一緒に遊ぶようになったのは中学生になってからだ。それまでも何度か遊ぶことはあったけれど、今ほど仲が良かったわけではなかった。といって特に何かきっかけがあったということもなく、気付けばこうして、いつもつるんで遊ぶようになった感じだ。


 あとの二人、蒼太とは小学校の頃から一緒に遊ぶ仲だったのだけれど、優斗と遊ぶようになったのは今年二年生に進級して、同じクラスになってからだ。それまでこんな奴が同じ学校にいたということすら僕は知らなかった。


 まぁ、どいつもこいつも気の合う仲間だ。


「ほら、早く行こうよ、暑くてやってらんないよ」

 蒼太が暑そうに額の汗を袖で拭って、

「んじゃ、入りますか!」

 言った千花を先頭に、僕らはぞろぞろと入場口へと向かったのだった。






 更衣室で水着に着替えてプールに向かうと、そこにはよく見知った顔が何人もいて、すでにプールの中で楽しそうに遊んでいた。


 同じ小学校だった奴らや隣のクラスの奴ら、そこまで仲が良いわけではないけれど、同じクラスの連中だとか……


 そんな中、僕たちは陽葵と千花の姿を探す。僕たちを置いて先に遊び始めるような奴らではないので、きっとまだ着替え中なのだろう。


 僕らの水着は全員が学校指定のショートスパッツだったのだけれど、果たして陽葵と千花はどんな水着を着てくるのだろうか。そう思うと何だか胸がどきどきしてきた。それも仕方のないことだろう。だって、僕だって健全な男子中学生なのだ。好きな女の子がそこに居て、どんな水着を着るのか気になるのも当然じゃないか。


 果たして女子二人も学校指定の味気ない水着なのか、それともテレビや漫画で見るような、可愛らしい水着を着て出てくるのだろうか。


 ふと周りを見てみれば、陸も優斗も蒼太も、僕と同じように黙りこくったまま、女子更衣室の出入り口を見つめている。


 湊だけが早くプールに入って遊びたそうにそわそわしており、子供らしい純粋な気持ちを失ってしまった自分たちの、青春まっただ中の男子らしい感情にどこか虚しさを感じてしまった。


 これが大人になるということか……なんて感傷に浸りながら、自分の身体を見下ろしていると、

「お、出てきた!」

 陸の言葉に、僕は反射的に更衣室の方へと顔を戻した。


 そこにはペタペタとこちらへ向かってくる陽葵と千花の姿があって、

「――っ」

 僕は陽葵のその姿に、思わず見惚れて言葉が出てこなかった。


 陽葵は白地に色とりどりの花のイラストが散りばめられたセパレートの水着を着ており、ひらひらしたスカートパンツから伸びる白い脚に一瞬目がいく。それから徐々に視線を上げていくと、その小さく膨らんだ胸元に僕は思わずどきりとした。


 それを誤魔化すように千花の方に視線を移せば、千花は千花でほとんど同じデザインの、けれど陽葵とは違い、ヒマワリの花が大きく描かれた水着に身を包んでいた。それがとても千花らしい、健康的な印象を僕に与える。


「どう? 男子ども。可愛かろう」

 千花が言えば、陸や優斗が、

「うん、最高に可愛いんじゃない?」

「二人ともいい感じ!」

 と恥ずかしげもなく賞賛の声をあげている。


 僕と蒼太は互いに視線を交わし、言葉をかけるでもなく、ただ頷くだけにとどめておいた。


「ありがと!」

 と嬉しそうに微笑む千花と、どこか恥ずかし気にはにかむ陽葵。


 一瞬、陽葵と視線が交わったような気がしたけれど、陽葵はすぐに千花の手を握り締めてから、

「ほ、ほら、暑いから早く行こう!」

 その手を引っ張るように、プールの方へと足早に駆けていったのだった。


 そんなふたりの背中を追いかけるように、僕ら男子も続いて走る。


 そのままの勢いでプールに飛び込んでいった陸は、派手な水しぶきをあたりに巻き散らして、

「こらぁ! そこのクソガキ! 飛び込むんじゃねぇ!」

 高校生らしいバイト監視員に注意されてしまった。


「うぃーっす!」

 大きく手を振り、その監視員に返事する陸。


 それを目の当たりにした僕らは静かにプールに入ると、陽に照らされて生ぬるくなった水に腰までつかる。


 この水深なら、湊もギリギリ足がつくだろう。


 そんなことを考えながら、湊の腕を引っ張って泳ぐのを支えていたところに、

「――あれ、武田の兄ちゃんだな」

 陸が先ほど注意してきた監視員を小さく指さす。


 武田? いったい、誰だっただろうか。覚えがない。


「誰?」

 と訊いたのは千花だった。千花も監視員――武田のお兄さんとやらの方に顔を向けて首を傾げる。


「知らないか? A組の武田あゆむ。アイツの兄ちゃんだ」


 ふうん、と千花は鼻で返事して、

「知り合い?」


「まぁ、一応な。小学校の一、二年生の時、放課後の児童館で一緒に遊んでたんだ。面倒見のいい兄ちゃんでさ。よく低学年の世話なんかしてたよ。確か、うちの中学の生徒会長もやってたんじゃなかったっけ? 責任感が強くて、世話好きみたいでさ」


「そうなんだ? それでここでもそんなバイトしてるってわけ?」


「いや、それがさ」

 陸は眉間にしわを寄せ、わざわざ一段低い声でひそひそ話をするように、

「――武田の父ちゃん、仕事辞めちゃったんだってさ。ほら、五月を過ぎた頃、梅雨に入ったあたりから噂になってる病気、知らないか?」


「病気?」

 と首を傾げたのは優斗だった。

「なにそれ、俺、知らんけど。お前らは?」


 問われて僕は首を横に振り、次いで蒼太に顔を向ける。


 蒼太は少し考えるそぶりを見せてから、

「それ、あれかな? 無気力症候群とかいうやつ」


「そう、それ!」

 陸はどこか嬉しそうににんまり笑んで、

「その無気力症候群になっちゃったらしくてさ。何日も体調不良を理由に仕事を休んでたらしいんだけど、結局先々週、ついに仕事を辞めちゃったんだってさ。んで、家計を支えるために武田の兄ちゃん、バイトの数を増やしたらしくて。この夏休み中、毎日どこかで必ずバイトしてるみたいだって、こないだ武田が言ってたんだ」


「へぇ、そうなんだ……」

 僕は何となくその武田の兄ちゃんの方に視線を向ける。


 武田の兄ちゃんは確かにどこか疲れたような気だるげな様子で、けれどその責任感の強さからだろうか、じっとプールを見渡しながら、プールサイドを駆け出した小学生の一群に気が付くと、

「こらぁ! そこのちびっ子ども、走るなぁ! 人の迷惑になるだろ! 歩け歩け!」

 小学生の一群はその声に慌てた様子で走るのをやめ、歩いて子供用の小さいプールの方へと移動していく。


 それをため息を吐くように見送ってから、武田の兄ちゃんはその脇に設置された小さなテーブル、その上に置かれた一本のラムネ瓶に手を伸ばし、くいっと一口ラムネを仰ぎ飲んだ。


 そのラムネ瓶は太陽の光に照らされて、虹色に輝いているように見えて――


「……虹色ラムネ?」


 ふと、伯父さんの家で飲んだラムネの商品名が僕の口から零れ落ちた。


 たぶん、あの独特の光は間違いないと思う。虹色に輝くそのラムネ瓶を、武田の兄ちゃんは再び机の上に戻すと、プールの監視を静かに続ける。


「なに? 今、なんか言ったか?」


 不意に陸に声をかけられて、僕ははっと我に返ると、

「あ、いや、ごめん、なんでもない」


「そうか? それよりさ、あっちでボールの貸し出ししてるみたいだから、あれで遊ぼうぜ!」


「あぁ、うん」

 という僕の返事を待たずして、陸はあっという間にプールからあがると、貸し出しコーナーへと駆け出して、

「こらぁ、陸! 走るなって言ってんだろうが!」

 武田の兄ちゃんが名指しで叱る。


 陸はそれに対して顔だけ振り向き、

「あぁ、はいはいはいはい!」

 渋々といった様子で、すたすたと歩いていくのだった。

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