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「大きくなったなぁ、
まるで何かの定型文みたいなことを口にして、伯父さんはラムネの瓶をくいっと仰いだ。
大きく開け放たれた縁側には沢山のセミの鳴き声が響き渡り、青い空には白い入道雲がもくもくとその巨体を現わしている。
夕方にはひと雨くるかもしれないと思いながら僕は、「うん、まぁ」と気のない返事で頷いた。
実際、中学校に入ってから、僕の身長はかなり伸びた。小学校を卒業した時には一五〇センチもなかったのだけれど、今では一六〇をすでに超え、この一年半ほどで十センチ以上も伸びたことになる。ほかの親戚一同からもこの夏はさんざん同じ言葉をかけられたし、今さらそんなこと言われたって、嬉しくもなんともない。いったい、なんて返したらいいのか本当にわからないだけだった。
身長が伸びたからって何? それがどうしたわけ? 成長期なんだから当たり前だろ?
「しかし、ここまで大変だったろ。あんな長い坂と階段を登ってきたんだ。ほら、遠慮せず飲め飲め」
言いながら、伯父さんは僕の前に置かれた一本のラムネ瓶をすっと僕の方へ押し出した。
ラムネの瓶には『虹色ラムネ』と印字されたラベルが巻かれており、白い雲に虹がかかったようなイラストが添えられている。虹色というだけあって、その瓶は光を反射して虹色に輝いて見えた。たぶん、これが商品名の由来なのだろう、なんだか不思議な色合いだった。
僕はキンキンに冷やされたそのラムネを無言で手に取ると、栓を開けて口をつけた。
甘酸っぱくてしゅわしゅわした炭酸が心地よく、僕の枯れた喉を一瞬で潤してくれる。
朝一から父親のお使いで伯父さんの家まで日本酒の酒瓶二本を届けに来たのだけれど、山の斜面に面した細い階段や坂道ばかりのつらい道をここまで歩いて登ってきたわけなのだから、当然のように全身汗だくだったし、喉は乾いて仕方がなかった。
半分ほど一気にごくごくと喉を鳴らして飲み、トンと机の上に瓶を置くと、向かい合って座っていた伯父さんが、満足そうにうんうん頷きながら、
「おお、そうだそうだ。ここまできた駄賃をやらないとな」
と言って財布を取り出した。
「え、いや、いいよ、そんな――」
と形ばかり断る僕に、伯父さんは、
「遠慮するなよ。夏休み中なんだ、何かと要りようだろ?」
「うん、まぁ……」
「ははは! 素直でよろしい!」
豪快に笑って、伯父さんは僕に一万円札を握らせた。その額に、さすがの僕も目を丸くして驚きを隠せなかった。こんなにもらえるだなんて思っていなかったからだ。正月にもらったお年玉よりも額が大きいんじゃないだろうか?
「こ、こんなに? 本当にいいの?」
すると伯父さんは、にやりと笑みをこぼしながら、
「かまわんかまわん、気にするな。どうせ俺には嫁も子もいないんだ。弟の息子は俺の息子も同然さ」
「あ、ありがとう」
伯父さんはうちの父親より十以上も歳が離れており、ずっとこの古いぼろ屋に一人で住んでいる。十数年前に家賃の安さに惹かれて海岸沿いの家からわざわざ山の斜面の住宅地へ引っ越してきたそうだが、僕だったらちょっとした買い物ですら、こんなに苦労して坂道を登らなければならないような不便な場所に住みたいだなんて、絶対に思わないのだけれど。
「――で? そろそろ彼女くらいできたか?」
残りのラムネも飲み干してやろうと口にした瞬間だったので、僕は思わずぶっと吹き出してしまうところだった。寸でのところで吹き出さずにはすんだのだけれど、おかげで変なところに炭酸が引っ掛かったような感じがして、ゲホゲホ激しく咽てしまった。
そんな僕を見て、伯父さんはガハハと笑いながら、
「なんだよ、あれか? 好きな子はいるのに、告白できずにいるってところか?」
「な、なに言いだすんだよ! 違うって!」
「いいじゃないか、若いんだ。当たって砕けてこい! どうせあの子だろ? ずっと仲良さそうだったじゃないか、
「むぅ」
とは実際に口にはしなかったけれど、図星だったので返答に困ってしまう。
「なんなら、さっきやった小遣いでデートに誘ったらどうだ? 夏休みなんだから、一緒に遊びに行ってこい。金が足らんなら伯父さんが援助してやるぞ?」
「い、いいよ! 大丈夫だから!」
僕は慌てて伯父さんに背を向けて、
「お、俺、これから友達と遊びに行く約束あるから、もう行くね!」
「おう、そうか。まぁ、なんか困ったことがあったら伯父さんに言うんだぞ? 親父やおふくろに言いにくいことでも、俺が助けてやるからな!」
「あぁ、はいはい! じゃぁね!」
「おう! 気を付けて行ってこい!」
そうして僕は、逃げるようにして、伯父さんの家をあとにしたのだった。
まったく、大人っていうのはどうしていつもいつも、あんな余計なおせっかいをやいてくるのだろうか。本当に鬱陶しいったらない。
人の恋路なんてどうだっていいだろうに。
そんなモヤモヤした思いを胸に、僕はここまで登ってきた、人ひとり通れるくらいの細さしかない坂道を下りながら、ふと海岸沿いの町並みを見降ろした。
瀬戸内海に面した港町、
その定期船の港も、昔と比べればビルそのものが建て替えられて綺麗になっており、駅やそのすぐ目の前にできたマンションと一体型の商業施設の大きなビルが、町の景観と比べて何とも場違いな印象だった。
生まれてこの方、僕はずっとこの町に住んでいるのだけれど、幼いころから考えれば、ずいぶん賑やかで小奇麗な街並みになってしまったものだ。
昔は寂れて物悲しい雰囲気だったアーケード商店街も、今では全面改装され、テナントには全国チェーンのアイス専門店やコンビニが入り、町並み保存やら観光地化によってずいぶんオシャレになってしまった。全国各地からやってくる観光客向けに整備された駅前や港周辺はすっかりその姿を変え、ただの防波堤がどこまでも続いていた幼いころの記憶はどこへやら。緑の芝生が広がるイベント会場には、展望台やカフェテラスまで設置されており、根っからの地元民には、どこか近寄りがたい煌びやかな雰囲気になっていた。
確かに、綺麗になるに越したことはないのだけれど、町を歩けば如何にも観光客って感じの人ばっかりで、なんだか変に警戒してしまうのは僕だけだろうか。
昔はもっと小汚い町並みで、近所の爺さんたちに交じっては釣りとかして遊んでいた思い出があるのだけれど、今では釣りをしている爺さんの姿もほとんど見かけなくなってしまい、何だか妙に寂しい感じだった。
昔は良かった、なんてオヤジ臭いことをまだこの歳で言うつもりはないのだけれど、やっぱり僕としては――
その時だった。
「きゃあぁぁあぁぁ――!」
雑木林の前を通りがかったところで、突然女の人の叫び声が上空から聞こえてきたのである。
そして次の瞬間、僕のすぐ目の前に、ドサリと何か大きな物体が落下してきて、僕は思わず飛びのきながら、
「うわあぁっ!」
と同じく、大声で叫んでいた。
なんだなんだ? いったい、何が落ちてきたんだ?
焦りながら目を瞬かせれば、そこには長い黒髪の女性がひとり倒れていて、
「だ、大丈夫ですか?」
僕は慌てて駆け寄ると、彼女のその細い腕をとって助け起こした。
女性は「あいたたた……」とお尻をさすり、ゆっくりと上半身を起こすと、
「すみません、ありがとうございます……」
と苦笑いしながら僕の顔を見上げた。
そんな彼女――おねぇさんに、僕はすぐ脇の雑木林の方に目を向けて、
「おねぇさん、こんなところで何してたんです? いったいどこから落ちてきたんです? まさか、木に登っていたんじゃぁ……?」
するとそのおねぇさんは、へらへらとしまらない笑みをこぼしながら、
「そうですねぇ。セミ捕りをしていました」
「セミ?」
わけも分からず聞き返すと、おねぇさんは頷いて、
「はい。直接木に登った方が、たくさん捕れそうでしょう?」
と、やはりわけの分からないことを口にした。
「いやいや、どう考えてもびっくりして逃げちゃうでしょ、セミだって」
「あぁ、確かに、そうですよね」
ふふっと笑う女性の、何とも言えないその雰囲気。
いったい、この人は何者なんだろうか。
観光客――に見えなくもないけれど、観光客がこんな坂の上の住宅街に隣接する雑木林で木登りなんてするはずがない。
木に登ってすることっていったら、いったいなんだ? まさか、木の枝にロープとか括って首を……けど、どこにもロープなんてものは見当たらなくて、本当に何の目的で彼女が木に登っていたのか、全然見当がつかなかった。
だからと言って、本当にセミ捕りのために木に登ったわけでもないだろう。
何かを隠している、そんな感じだ。
でも、いったい何を?
なんて思っていると、女性は服に着いた土ぼこりを払い落としながら立ち上がり、
「私、真帆って言います。
訊ねられて、僕はおねぇさん――真帆さんの姿をじっと見つめる。
白いシャツに薄い水色のスカート。鞄もリュックも手にしておらず、ぱっと見はどこにでもいそうな地元民。よくよく見れば美人で可愛らしく、大学生かそこらといった感じだろうか。もしかしたらこの辺りにもともと住んでいて、大学の夏休みに帰省しただけかもしれない。
木に登ってセミを捕ろうとしていたのだって、幼い頃にそんな遊びをしていて、久しぶりにやってみようとしただけだろうか。
中学になった僕ですらもうそんな子供っぽいことはしていないけれど、或いはもう少し歳を取れば、昔を懐かしんでそんな行動に及ぶこともあるだろう、たぶん。
そう考えれば、特に何も怪しいところはない……かな?
いずれにせよ、僕の名前を教えたからって、何か悪いことに使われることもないだろう。
「……
おねえさんは僕の返答に微笑むと、
「こんにちは、晴人くん。助けてくれてありがとうございました」
それから坂道の上と下を見比べるように顔を動かしてから、
「ところで、古屋町ってどっちですか?」
くいくいっ、と人差し指で指し示した。
あれ? 地元民じゃない? なら、やっぱり観光客だったのだろうか?
僕は不思議に思いながら、坂道のさらに向こう側に見える山の斜面、大きなお寺の建つやや西側の古い家々の辺りを指さして、
「あのへんだけど……」
すると真帆さんは、ふんふんと頷きながら僕の指す方に目を向けると、すぐにこちらに顔を戻して、
「ありがとうございます、助かりました」
微笑みながら礼の言葉を口にして、それから小さく手を振ると、
「それじゃぁ、またどこかで」
そう言い残して、すたすたと坂道を下り始めたのだった。
結局あの人は、いったい何者だったんだろう?
真帆さんの背中を見送りながら考えていると、何メートルか先まで進んでいた真帆さんが、何かを思い出したように唐突にその歩みを止めて振り返り、
「今日も暑いですね。ところで体、怠くないですか?」
と訊ねてきた。
僕はその質問に、わずかに首を傾げながら、
「怠いといえば怠いけど、いつもそんな感じなんで」
「……そうですか」
真帆さんは小さく頷くと、「それじゃぁ」と言って再び手を振り、長い黒髪を揺らしながら歩き出した。
辺りにはわずかに甘い匂いが漂い、その香りが優しく僕の鼻孔をくすぐる。
僕はそんな真帆さんの後ろ姿を眺めながら、どうせ同じ方向に行くんなら、道案内でもしてあげれば良かったかなと、ふとそんなことを思ったのだった。