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最終話.夜烏は眠り昼の鳥となった

 それは、あまりにも平和すぎる光景であった。

ありきたりというか、ありふれているというか。

そう、『日常的』という言葉が最もふさわしい、そんな日々が、そこにはあった。


「いらっしゃいませ~」


 穏やかな街並みを歩けば、見慣れたパン屋の看板娘が可愛らしい笑顔を振りまきながら、客に焼きたての新作パンなどを勧めていた。

薄桃色のフリルのついたエプロンドレス。

客の中には彼女目当ての若い男もまぎれていて色目を使ったりするのだが、娘が曖昧な笑顔で品物を渡すや、奥の方にいる気難しい顔の若い男が「こほん」と、わざとらしく咳をつく。

娘の亭主という設定で店主を任されているその男は、さも自分の嫁がほかの男に食いつかれるのが気に入らないとばかりの顔をしているが、実際には自分の妹分がほかの男にちやほやされるのを危なっかしく思っているのだ。

ただの歪んだシスターコンプレックスである。


「――あっ」


 そうして、若い客が居心地悪そうに紙袋を抱え出て行ったあと、彼が見ているのに気づいてか、看板娘が子供っぽく満面の笑みを見せながら、小さく手を振ってくる。

彼もまた、小さく手を振り、その場から歩き出した。




 街並みから外れた場所には、小さな酒場がある。

最近王都からこの街に越してきたのだというその酒場は『変わった味の酒を出す』という事で酒好きの間ではちょいと名の知れた存在ではあったが。

彼は、その酒の正体を知っているのでいつまでも飲むことはなかった。

飲めない風を装いながら断れば、誰も無理強いはしない。


「ふぅ……いたたた、ちょいと飲みすぎたわ……」


 そんな酒場から一人、小奇麗なドレスにケープを羽織った女が、片手で頭を押さえながらによろよろと出てくる。

やや化粧の濃い、あまり美形とは言えない女だが、何より酒の臭いを強く漂わせているのが残念なところである。

出で立ちはともかく、その仕草の所為でとても貴族とは思えない。


「昼間から深酒とは、いい身分だな」


 あんまりに情けない貴族夫人のその様に、彼は思わず声をかけてしまう。


「あら、あんた――いやねぇ。私は十分いいご身分だわよ。それに昼からじゃないわ。夕べからよ」


 彼を見るや、夫人殿は頭を押さえながらも、皮肉には開き直るしたたかさを見せる。

あまり反省はないらしい。というより、悪いことだとも思っていないらしい。

相変わらず、人とはモラルなどがズレている女であった。

とても先ほどの、可愛らしいパン屋の娘の血縁とも思えぬダメな大人っぷりである。

加えて姉とは似ても似つかなかった。


「まがりなりにも領主の夫人がそんなありさまで大丈夫なのか? もう少し品位とかをだな……というか、旦那に悪いとは思わんのか?」

「ぷっ……全然似てないと思ったけど、あんたらやっぱり父娘おやこだわねぇ。変なところ堅いのがそっくり」

「……?」


 何が面白いのか、説教したことに対して笑って返されてしまい、彼はなんとも不可解な気持ちになってしまう。

意味が解らないのだ。

もともと不可解なところがある女であったが、やはり、今一つかめそうにはなかった。


「まあ、安心していいわよ。ラークにはちゃんと許してもらって飲んでるし。たまにね、こうやって気を抜いてぱーっとやらないと、頭おかしくなっちゃいそうでねえ」


 貴族としての暮らしは、娼婦として暮らしていた元貴族の娘には辛いものがあったらしい。

というより、元来彼女は貴族としての暮らしはあまり向いていなかったのかもしれなかった。性格的な方向で。


「……旦那の許可があるなら文句はないが」

「そういうあんたは散歩かい? 釣りにしたって竿がないもんねえ」

「釣りさ。釣り竿はあんたの旦那が用意してくれている。私は手軽に川に行くだけだ」

「ああ、なるほど」


 笑って返しながらも、「どうしていきなり旦那のことを」と、内心では不思議がっていたのだろう。

だが、彼の行く先に自分の旦那が待っているのだとすれば、そのつなげ方にも納得がいったらしかった。


「ラークは釣り下手だからねぇ。しっかり教えてやって頂戴な。せめて夕食のおかず分くらいは釣ってきてほしいもんだわねぇ」

「彼はまじめだ。いずれ上達するさ」


 それが何の慰めにもならない言葉であるとは彼もわかっていたが、それでも健気に旦那の釣果を期待しているらしいこの年上女房に、わずかばかり期待を持たせてやる事にしていた。

この女の旦那にしたって、要領は悪くないのだから。


「はは、どうなんだかね。それじゃ、あたしはもう行くわ」

「ああ、またな」


 少し眉を下げて苦笑していたその貴族の女房殿は、軽く手を挙げながら館へと戻っていった。

彼もその背を少しばかり見やっていたが、やがて小さくなっていき、背を向け再び歩き出した。




 街のはずれを流れる川は、流れが穏やかで幅広く、この街の物流の要の一つともなっていた。

街を治める領主の館へも支流が続いているのだが、小さな川ばかりでは修練にならぬと、彼はこの川へと弟子たる領主を誘い、このようにここにきたのだ。

到着すると、先に釣りを始めてしまっているらしく、先ほどの女房殿の旦那が、真剣な表情で川面かわもを見つめていた。

釣り竿はぴくりとも揺れぬが、今話しかけるのも悪いと思い、しばし無言のまま、その背後にて見守る。


「――きた。いや、まだだ。まだ早いな――」


 静かなる世界の中。

ぴちゃりと、小さく音を立て吸い込まれていく浮きを見つめ、領主殿はぐっと息を飲む。

ここですぐに引き上げれば敵の思うツボ。

既に駆け引きは始まっているのだ。


「今か……? いや、でも、ううん……よし、いまだっ!!」


 しばし迷った末、領主殿はやや遅く、釣り竿に力を籠める。

ぴん、と張った糸が水面から弾け、パシャリと川面を飛びぬけた。

針の先には――何もかかっていない。


「たはー……持っていかれたかあ」


 ただ魚に餌をくれてやっていただけなのだと気づき、領主殿は顔を押さえ消沈していた。

哀れではあるが、これは釣り人ならばだれしもが通る道。

そして自分もまた、日々やらかす・・・・一戦に過ぎない。

水の中のツワモノ・・・・どもは、彼にとっても中々の強敵揃いであった。


「釣れているかね?」


 釣り仲間としてはありふれた定番のあいさつと共に、消沈し俯いてしまった弟子の隣へと腰掛ける。

川岸の芝生は中々に質が良く、しっとりとした座り心地が尻にやさしい。


「あっ、こんにちはクロウさん。残念ながら、また――」


 逆隣に置かれたバケツの中身は空。

苦笑しながら、領主殿から渡された釣り竿に、餌をつけていく。


「そういうこともある。私も初めはそんなのばかりだった」


 別に、彼に限ったことではない。最初から上手い者などそうはいない。

下手な奴が、下手なりに続けていくうちに段々とコツをつかんで、やがて玄人になっていくのだ。

その合間に、手慣れたベテランが手ほどきの一つもしてやれば、上達までの段階がいくつか繰り上げられる。

だが、結局は本人のやる気と根気次第なのだ。

特にこの手の趣味は。


「相手あってのものだ。餌を食われたからとしょげることはない。よりでかい獲物が手に入ると思えばいい」


 シュパ、と小気味いい音を立てて竿を振り、針先を木陰へと落とす。

今日は少し汗ばむくらいの気温で、日向は威勢のいいの位しか食いつかない。

大物を狙うならばそれでもいいが、夕食のおかずにする位ならばそこそこのサイズでいいのだ。

大きすぎれば鍋に入らず、調理にも手間がかかる。

あまり調理する者の手を煩わせると、食事の時間が遅れてしまい辛いことにもなるのだから。


「この街は、いかがですか? その、実際に暮らしてみて」

「ああ、悪くないな」


 領主殿も真似て、別の木陰へと針先を向ける。

こちらはふらふらと揺らしてなんとか誘導していたが、いささか危なっかしかった。

草にひっかけそうになりながら、それでもなんとか良さそうな位置に止まり、安堵の息を漏らす。


「気候は穏やかだし、人々も気のいい者が多い。知らぬ者ばかりでやりにくいかと思ったが……下手に私のことを知っている者が多い王都より、随分と生きやすく感じる」

「そうですか。それはよかった」


 静かであった。

餌に獲物が掛かるまでの間、こうして心穏やかなわずか隙間が生まれるのだ。

そうした中、二人はわずかばかり無言であったが。

やがて、領主殿が口を開く。


「それなら、もっとクロウさん達が住みやすいように……そんな風にしていけたらと思いますよ」

「ああ。領主殿の今後の手腕に期待、と言ったところだな」


 話しているうちに、ぴしゃりと浮きが吸い込まれるのに気づき、一息おいて釣り竿を小さく引く。

いくばくかの抵抗を感じ、数秒遊ばせた後に、一気に引き抜いた。

川面から飛び出たのは、手のひら大のケシキナ。

甘く煮るとプルプルとしたゼラチン質がたまらない、煮魚向けの魚であった。


「むむ、やりますね……僕の方もきたっ――」

「焦らないことだ。それでいて、じっとしすぎていてもいかん」


 敵もさるもの。ただ悠長に釣り餌を食べているわけではない。

警戒ながらに餌をつつき、動きがなければ一気にかぶりつきに来る。

そのかぶりついた一瞬を狙って引き上げてやるのが釣りというものである。

だが――


「いまだっ――でやぁっ」


――大仰に釣り竿を引き上げた領主殿の針先についていたのは、長靴であった。




「うーん、今日も釣れなかった……」

「釣れたじゃないか、でかい長靴が。しかもプレゼント付きだ」


 帰り道。大漁を以て釣り果としていた師に対し、長靴一つという成果のしょっぱさに、領主殿は嘆いていた。

とはいえ、領主殿の釣りあげた長靴の中には、小さなギナガリガニが三匹も住み着いていた。

これは油で揚げると今の時期、最高のさかなになるのだ。


「まあ、いいんですけどね……カニは妻達の好物ですし」

「魚だって分けてやるさ。夕食には困るまい」

「それはそうなんですけどねえ。ああ、いつかは自分でバケツ一杯の魚を釣り上げられるようになりたいなあ!」


 バケツ二つを手に悠々と歩く師を見やりながらに、弟子はため息ばかりではなく、いずれの野望を語っていた。

夕焼けが川岸の上を歩く二人の頬を涼やかに煽り、もう間もなく夜なのだと報せてくれていた。




 この街の領主ラークの館は、豪奢ごうしゃながらも住み心地を重視された設計で、小川の存在もあり、中々に涼やかであった。

庭先では今もメイドたちが木々の剪定せんていや芝生の刈り込みなどを行っていたが、そろそろ時間なのもあり、みんなおしゃべりに華を咲かせていた。

彼女たちの主であるはずのラークは、しかしそんな彼女たちの『息抜き』を咎めることなく、楽しげにそれを眺めながらに庭を抜けてゆく。

彼女たちも、そんな主の姿が見えているときばかりはお喋りをやめて、小さく会釈して仕事へと精を出しているフリをしていた。

それでも仕事が回るくらいには彼女たちは有能だし、そんな彼女たちを許容できるくらいには、領主夫妻は穏やかであった。



「あら、旦那様。おかえりなさいませ。クロウ様も」

「ああ、ただいまエリシア。館の方は問題ないかい?」

「はい。ルクレツィアさんがちょっと……辛そうでしたが」


 二人を迎えてくれたのは、ラークの第二夫人エリシア。

かつてはこの街をラークと二分して支配していたパトス伯爵の令嬢だったが、王が代替わりし、かつての非道が明らかになるや事態は急変。

伯爵は民衆から見放され、王から貴族として自害するか貴族としての地位を失うかの二択を迫られ危うい状況になっていたのだが。

それをラークが間に入り、エリシアを妻にめとる事で伯爵も最低限の地位を保つ事が出来たのだ。

もともとエリシアはラークを好いていたし、第一夫人であるルクレツィアは今では彼女の親友とも言える相手だったため、伯爵も「娘が幸せになれるならば」と、この街の実権すべてをラークに明け渡し、今は隠居として街はずれに小さな館を構え、わずかばかりの使用人とともにつつましやかに暮らしている。


「ルクレツィアは……気にしなくていいよ。月に一度はああなるんだ。それより、夕食はまだだよね? ギナガリガニと魚が手に入ったから、これで何か頼むよ」

「まあまあ……うふふ、ラーク様は釣りもお上手ですのね。かしこまりました、それではキッチンの方へどうぞ。クロウ様も――」

「ああ、すまないな」


 どうやらラークが頑張ってこれらの釣り果を挙げたのだろうと思い込んだらしく、エリシアはにこやかあに二人をキッチンへと先導した。

まるでこちらの方が第一夫人のような立ち居振る舞いの優雅さである。

実際、社交の場ではエリシアが付き添う方が多いらしい。

この辺りはルクレツィアが考えたものらしく、夫が社交の場で恥をかかないために、という配慮もあってのことであった。



「ラーナさん、旦那様がお帰りになったわ。今日は大漁よ。魚料理にして頂戴」


 キッチンへと案内された先には、皿洗いの少女とキッチンメイドの姉妹。

コックの指示の元調理のあれやこれやと忙しなく動く彼女たちだが、エリシアの言葉を受け、二人を出迎えていた。


「おかえりなさいませ、ラーク様。大漁だなんてすごいですね!」

「……今夜は魚料理かあ」


 にこやかあに出迎える姉ラーナに対し、妹センカはなんともいえぬ表情であった。

連日の魚料理に飽き始めているらしい。


「ははは、悪いねセンカ。少しでも上達したくて、僕が無理に釣りばかりしているから――」

「あ、ううん、別にご主人様は悪くないし! 悪いのは沢山釣りすぎたクロウの方だし!!」


 そうして、名指しでその隣に立つ男に文句をつける。

ズビシィ、と指さされ、彼は苦笑いしながらも「この娘は変わらんな」と変に感心していた。


 かつては離れ離れになっていたこの姉妹は、彼が息を吹き返したのち、彼の娘の配慮もあって、再会できたのだ。

以降故郷に戻ることなく、こうしてラークの屋敷にてメイドとして雇われ、日々を仲良く過ごしていた。

姉の方はともかくとして、ことあるごとに突っかかってくる妹の方は何かにつけて冷たい態度をとってくるので、彼としてもいろいろとやりにくいものは感じていたが。


「とりあえず、これで私は失礼するよ。ラーク、またな」


 メイドからの扱いもよくないし、と、苦笑いながらに魚の入ったままのバケツをキッチンに置き、小さく手を挙げ立ち去ろうとする。


「クロウさんはご一緒なさらないのですか? 私、腕によりをかけて作りますのに……」


 そうして、聞こえてくる背後からのキッチンメイドの声。

こちらは少し残念そうな、可愛いげを感じる声であった。


「すまんなラーナ。あいにくと、妻と娘を待たせているからな。他所で食事をとってきたなんて言ったら、どんな目に遭うかわからん」


 察してくれ、とばかりに自嘲気味に一言。

それきり、そのまま静かに立ち去った。



 わずかばかりの賑わいであったが、外はもう暗く、館の庭には誰もいなくなっていた。

静かな風を背に受けながら、のんびりとした心持ちで、手ぶらのままに道を往く。

夜の街は程よい、ひんやりとした空気を見せながらも、どこか抱擁的で、安心できる闇に包まれているように、彼には感じられた。


 そうして、一人になってようやく、肩の荷が下りたような、そんな気がして、ほう、と深いため息をつく。




 彼は、『クロウ』という名を名乗ることにしていた。

暗殺者として生きた時の名前である。

はじめ、記憶喪失の素振りを見せ、最初に気が付いた時に目の前にいたシルビアらを驚かせたものだが、彼の娘はそんな事には動じもせず「それじゃあ名前を教えてあげないと」と言いながら、さも当たり前のようにこの名前をつけてきたのだ。

その場にそれを否定できる人物もおらず、彼自身、記憶喪失の体を取っている以上はどうすることもできず。

結局はそのまま『クロウ』で通すことになってしまった。


 記憶を失ったという設定で生きることにした彼は、何も知らぬ素振りで暮らさねばならなかった。

そうしてみると、ベルクとして生きていた王都はなんとも過ごしにくく、いろいろと不自由が発生しかねない。

それならば、と、エリスフィアは思い切って王都から出る事を彼に提案したのだ。

恐らくは解り切ったうえで、それでも自分の記憶喪失ごっこに付き合うつもりの娘に対し、クロウは何も言えず、従うしかなかった。

ごっこ遊びを通すつもりなら、そうせざるをえなかったのだ。



 そこで、問題がいくつか発生した。

住処に関しては、以前世話になったラークのもとに一時的に身を寄せることで解決した。

一時は先ほどの館で客分として世話になっていたが、今ではある程度の稼ぎの元、自分の家を確保することに成功し、そこを拠点として生活している。


 問題としては、まず、王都から離れることによって、シルビアとも離れ離れになってしまった点である。

騎士団長が生きていたとはいえ、いまだ王都は不安定。騎士団の再建は前途多難である。

最近では新たな王の指示の元、近衛隊や衛兵隊と連携を取り、三組織での情報共有や互いの監視体制などを確保できるような新体制を模索しているらしいが、何分騎士の数が足りず。

シルビアはその少ない手数を、今まで以上の献身によって補うことを余儀なくされていた。


 記憶喪失のクロウに対し、エリスフィアはシルビアを『お父様の婚約者』であると説明。

まさかの展開にシルビアだけでなくクロウまでもが面食らったが、既成事実的にはそうなっていてもおかしくない状況にあったため、なし崩しに婚約者で通され、ラークの屋敷にいる内に結婚式まで挙げてしまっていた。

どこか罠にはめられた感が強いが、今では折を見てシルビアが訪れ、その日を一緒に過ごすというのが日常の一片となっていた。



 もう一つの問題は、エリスフィア――ひいては暗殺ギルド関連であった。

前マスターアドルフが死んだのち、いつの間にかアンゼリカを差し置いてエリスフィアがギルドの実権を握り、マスターになってしまっていた。

今では王室との関係を完全に絶つ一方で、教会との繋がりが深いアンゼリカや釣り好きな・・・・・長老などと連携を取り、組織としての影響力を方々に残したまま掌握する事に成功している。


 そのエリスフィアは「お父様と一緒に暮らしたいから」という理由でクロウに付き添う形でこの街にきて、当初一人暮らしするつもりで建てた家にも当然のように自分の部屋を用意させていた。

更に「エリスが心配だから」という理由でロッカードまでついてきて、エリスフィアの亭主という体で転がり込んできたのだからたまらない。

おかげでシルビアがこの街にくる日でも、夫婦水入らずとは行かず、娘と邪魔者一人がいて思うように手が出せない、という状態が続いていた。

おかげで、シルビアと二人、やけに悶々とした日々を送る羽目になってしまっている。



 更に困ったことに、シルビアにとって都合の悪いことはもう一つある。

騎士団騒ぎの際には一旦鳴りを潜めていた暗殺ギルドが、再び活発に活動をはじめているのだ。

以前と比べ懲悪の色が濃くなり、どちらかといえば義賊のような活動が増えている為、これまでと比べて民衆側も恐怖感よりは親近感の方が強くなっていた。

騎士団の人手不足の中、暗殺ギルドが治安維持に一役買っている形になってしまったのだ。

これが、騎士団員にとっては悩みの種となっている。

特に騎士団長とシルビアにとって、エリスフィアはなんとも扱いに困る存在であり、しかも民衆の評判がいいせいで、今の暗殺ギルド関連の事件には手を出しにくい空気が出来てしまっていた。


 そして、その暗殺ギルドの拠点が、この街にある。

ほかでもない、クロウの家である。

つまり、シルビアにとっては愛する男の待つ家こそが、自分たちを悩ませる首魁の棲む拠点なのだ。

さらに言うなら、彼女が最も愛した男こそが、街を賑わせる『義賊』の正体である。

皮肉を極めているが、クロウ関係に関してはどのようなことであれ受け入れると宣言してしまった以上、シルビアは無視する事も止める事も怒る事もできず。

やむなく、夫婦として暮らす際には、すべて水に流したうえで割り切ることにしているらしかった。

かつてはその辺りがちがちだったシルビアも、随分柔らかくなったのだ。




「ただいま」


 明かりの灯った家のドアは、少し温かみがあって。

クロウは、そんな家に帰ってきたのだと、わずかばかり頬が緩んでしまうのを感じていた。


「あ……おかえりなさい」


 最初に出迎えてくれたのは、エプロンを身に着け、慣れぬ様子ではにかみながらのシルビア。

装飾こそ大人しめであるが、髪の編み込みは美しく、小奇麗に整っていた。

そうしてとてとてと歩いてきて、正面で少し迷った後、自分から抱きついてくるのだ。


「……シルビア」


 実に一月ぶりの逢瀬であった。

しばらく嗅ぐことのなかった妻の匂いに、クロウは自然、抱きしめる手にも力がこもる。


「会いたかったです。その……ずっと」


 夫婦となって尚、シルビアは恥じらいが強い。

そんなところも可愛いものだと思いながら、クロウはその背を優しく抱きしめ、頬にキスする。

そのままもっと抱き締めてしまいたい衝動に駆られたが、二人だけの家ではないのだから、と今は抑える。


「私もだ。さあ、腹が減ってしまった。夕食はできているのかな?」

「はい。エリスフィアさんと二人で、気合を込めて作りましたわ! 大量にありますから、ロッカードさんが欲張っても大丈夫です!!」


 離れながら聞けば、どこか力のこもった声で返してくれる。

これもまた、『上辺だけ』の恋愛をしていた頃とは全く違う、夫婦となったからこその一面のように感じられて、クロウはどこか、くすぐったく思う。


「よし……それじゃ、行こうか。あの二人も待ってるだろうしな」

「そうですわね。ふふっ、あなた、今日はヒナミワ鳥のソテーを作りました。赤みかんのソースがけです」


 二人、寄り添いながら歩く。

ぴたりとくっつき、腕を絡めながら、いちゃいちゃと。

かつて『エリー』と名乗っていた娘と上辺だけでやっていたことを、今は自然に、妻と行っていたのだ。

なんとも不思議な気分だと思いながら、食卓へとゆったりと歩く。


「それは楽しみだな――」


 ただ食事を取るだけのことが、なんともいえず楽しみで仕方ない。

食卓へはドア一枚。すでにその向こうから男女の語らう声が聞こえている。

家に帰れば誰かがいる。そうして、自分を待っていてくれる。

そんな当たり前の生活を、当たり前に過ごせなかったかつてがもったいない。

そしてそれが当たり前になった今が、どうにも楽しかったのだ。


「おかえりなさいお父様! もう、遅くまで待たせすぎですよー!」

「待たせすぎだぜ親父殿ぉ。もう少し早く帰ってきてくれるとありがたいんだが?」


 ドア一枚開ければ、そこは幸せな世界が広がっていた。

自分の娘とよくわからない男が揃って待ち構え、どこか楽しげに自分を迎えてくれたのだ。

後ろを見れば、シルビアも口元を押さえ、笑っている。

クロウもまた、笑ってしまっていた。



 姫君が為生きた男の末裔でもなく、国が為生きた亡霊の後継者でもなく。

彼は今、一人の男として、ようやく人生を送れているような、そんな気がしていた。

それすらも曖昧で良くわからないものであったが――この楽しさの前では、考えることすら馬鹿らしく感じてしまうのだ。


 暗殺ギルドの下っ端の、その人生は、いつ終わるかもわからぬ、曖昧なものである。

この男はその中にありながら、ようやく人並みの、人らしい生き方を覚え始めていた。

これがいつまで続くかはわからず、どのように終わるかはわからない。

だが――


「ただいま。さあ、食事にしよう!」


――こんなにも笑顔になれる、その人生が、無駄であるはずなどなかった。

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