アレックスを討ち、いかほどが経ったであろうか。
しばしその場に、微動だにせずアレックスの
「ああ、やはり貴方は、そういう人だったか」
謁見の場に響く声は、彼にとって聞き覚えのあるものであった。
どこか飄々としたような、それでいて哀愁をも感じさせる、そんな少年じみた声。
「……クラウンか」
振り向いた彼の前に立っていたのは、暗殺ギルドの幹部・クラウン。
頭には銀色の冠を被り、その身は気品溢れる正装であったが。
その顔は、やはり、かつて彼に見せたような先の読めぬ表情で満ちていた。
「マドリスを生かしてマスター・アドルフを殺し、フィアーやロッカードも手に掛けなかった。騎士団長はどうなったか知らないが――挙句に主君殺しとは、大した役者だね。
皮肉を極めたような口調とは裏腹に、クラウンはどこか薄ら笑いすら見せ、パチパチと、手を叩いてゆったりと歩み寄ってくる。
「……」
それを、黙って見つめるクロウ。
警戒などせず、ただ、この少年のする事を見ていた。
「僕は――父上に愛されていない子供だった。母上には愛されていたが、母上も、やはり父上には愛されていなかったと自覚していたらしい。僕たち母子は、父上にとって、あまり必要のない存在だったようだ」
安らかに眠る王を見下ろしながら、かつて父が座っていた玉座へと、ゆったり腰掛ける。
「だが、そんな父上でも……こうして死んでいるのを見てしまうのは、辛いな」
足を組みながら、背もたれの感触を馴染ませるようにもたれかかり……クラウンは、クロウを見つめる。
「――もう気付いていると思うが。僕が、この国の王子だ。そこで倒れていらっしゃる方の、唯一の継承者だ」
「そのようだな」
クロウもそうであろうとわかってはいたので、そこは驚いたりはせず、じ、と、クラウンの言葉を待つ。
「……聞かせて欲しい。何故父上を討ったのか。そして、何故貴方は、まだ僕の前に立っているのかを」
先ほどまでとは違い、強い力の篭った瞳が、クロウを正面から捉えていた。
その眼の強さは、今倒れている王などではなく、どこか、彼の兄を思わせるもので――だからか、クロウはつい、ふっと笑ってしまった。
「それが、マドリスの願いだったからだ。全ての元凶となった者への復讐。それが、今回の仕事の内訳だ」
正確には、まだ果たされていない仕事の、だが、確かな動機であった。
そしてそれは最後まで完遂される。彼が職人であるが故に。彼が
「それは嘘だろう。依頼を受け、それを全うするのは確かに暗殺者の所業だろう。だが、貴方は間違いなく暴走している。殺すべきだったマドリスを見逃し、事もあろうにアドルフを手に掛けた。そして――自分の娘には情を掛け、殺害できなかった」
務めて冷静に答えようとするクロウに、しかしクラウンは、冷たく言い放つ。
「貴方は既に、暗殺者である自分を肯定できなくなっている。それだけではない。ガイストとしての自分も、もうわからなくなってきているのではないか? 私が聞き知る『近衛騎士ガイスト』は、決して主君を手に掛けるような真似をする男ではなかった」
鋭い指摘。ただの道化を思わせながらも、クロウにとって痛い部分を的確突いてくる。
歳不相応な賢さがそれをさせているのか。
思わず苦笑いしてしまい、それから
「ならば、クロウでもなく、ガイストでもない『私』がここにいるという事だろう。必要であろうとなかろうと、心のまま殺したいものを殺し、生かしたいものを生かす。そんな男が、な」
にたり、いやらしく笑って見せ、敢えて嫌悪を買おうとする。
だが、そんなものはクラウンには通じない。
正しき『ガイスト』の姿を幼い頃から聞かされていたクラウンにとって、今の彼は、あまりにもかけ離れすぎていたのだから。
「誤魔化さないでほしい。貴方は、ガイストである自分とクロウである自分を受け止めきれなくなっている。仕事の為人を殺める自分を、かつての肯定してきた自分を、認められなくなりつつある」
「……!」
尚もはっきりとした指摘に、核心を突くその一言に、クロウは初めて驚愕の色を表に出していた。
自分が誤魔化そうとしてできなかったからではない。
自分ですらうっすらとしか気づけていなかった事を、この王子は勘付いていたのだ。
「僕は、子供だ。恐らくは世情にも疎く、父上のように政情に強い訳でもない。ただの世間知らずの子供だ。だが、そんな僕にだって、貴方が
玉座に座したまま、足を組んだままにクロウを見つめ、そして、睨み付けるクラウン。
その抗い難い威厳ある物腰は、王たるに相応しきカリスマを醸し出す。
クロウは、眩いものを見つめるように、その顔をじ、と見つめていた。
「……私は、そんなに歪に見えるかね?」
「ああ、貴方は一体、何に迷い、そこまで迷走するのだ?」
視線と視線とが交じり合い、絵もいえぬ空気が、二人の鼓動を強く締め付ける。
一時とも永遠とも感じられるような中、先に唇を動かしたのは、クロウであった。
「私は……『それが役目であるならば』と、そう思い込めれば、それでよかった――」
背を向け、玉座から数歩、離れるようにして歩く。
「私には、自分というモノが存在していなかった。常に誰かを演じるよう命じられ、自分など確立する暇もないままに誰かになっていた。人に求められた姿形であり続け、そうして、願われた姿で居るが為、その役に没入せねばならなくなる」
「亡霊という名の通り、という事か。時により姿も名も変え、その生き方すら変える朧気な騎士。貴方は、まさにそのままの存在だったと」
その歩みを止める事無く、クラウンは背に向け声を掛ける。
それを肯定するように、クロウはぴた、と足を止め、振り向かずに言葉を続ける。
「かつて、焦がれた姫君が為悪魔に魂を売った騎士がいた。姫君一人お守りできぬ、とても弱く、情けない男であった――」
クロウの言葉は、どこか物語じみていて、だが、クラウンはそれを止める気になれず、彼が語るに任せていた。
「彼は、常々姫君の力になれればと思っていた。その身はただの人であり、誰ぞの助けになれるほどの何かがある訳でもない。だが、姫君を助けたかったのだ――だから、彼は契約した。焦がれた姫君を守れるよう、悪魔に、ロック鳥にしてもらった」
両手を広げれば、人の身でありながら、彼はどこにでも飛びたててしまいそうな、そんな不思議な雰囲気を溢れさせていた。
ごくり、息を呑むクラウン。彼もまた、その姿に呑まれそうになっていたのだ。
「だが、悪魔は姫君をも
広げた手を閉じ、頭を抱えるようにして、小さく身を震わせる。
「ロック鳥になった彼は、助けを求めた姫君と共に、この国を救った。戦争の中滅びかけていた国を再興し、政情を安定させ、国として、他に類を見ない程に栄えさせてやった」
両脇から頭を抱えていた手を、今度は目もとへ移し――クロウは、その隙間から空を仰ぎ見た。
白い天井に覆われ、見えぬはずの空を。
「――やがて彼は、人の姿となり、姫君と結ばれた。それほどに焦がれた姫君と、子を成すことまで出来た。それは本来、彼にとって無上の喜びだったはずなのだが――彼には、もうそれを喜べる感情は、存在していなかったらしい」
やがて、大きなため息と共に一旦独白は止まり、クロウはまた振り返って、クラウンをじ、と見つめていた。
「気が付けば、彼はもう、国を守るだけの守護者となってしまっていたのだ。何も感じられぬ。自身の存在すらよく解らぬ何かに成り下がっていた」
考えるように口元に手をあて、黙りこくるクラウンに、かつ、かつ、と、わざとらしく靴音を鳴らし、また近づいてゆく。
「私は、その末裔だ。一応は王族の血も引いているのかもしれんが、悪魔の呪いなのか、私自身も自分というものがはっきりと固定できずにいる。『ガイスト』を名乗った者は例外なく、『彼』と『姫君』との契約を果たす為だけに生きていた」
私もきっとそうだったのだ、と。
どこか諦観を漂わせるような、そんな力ない笑いがそこにはあった。
「ガイストとは、貴方の一族が名乗っていた名前だったのか。ガイストという騎士がずっと王のそばに居たのではなく、その立ち位置に収まった一族の者が、ガイストとして名乗った……?」
「それが『ガイスト』という役目だったのだ。王の傍に有り続け、国の繁栄が為策を弄する。永遠を生きる近衛騎士など、どこにもいはしなかったのだ」
ただの役目。ただの立ち位置。
永きにわたり国に仕え続けたガイストという男は、実際にはその名の通り、おぼろげな幽霊のようなものだったのだ。
彼のように自分を自分として認識できない者が受け継ぎ、ガイストと名乗っていただけの事。
そして国は、そのシステムに乗っかっていたのだ。
「……ただそれを聞いたなら同情もしたかもしれない。だが、貴方にどれだけ痛ましい過去があろうと、どれだけ無為なる日々を過ごしていようと、そんな事は、この国の民や王を手に掛けていい理由になど、なろうはずもない」
クラウンは、しかし、それまで語っていたクロウの全てを、一笑に付した。
「そうだ。理由になどなろうはずもない。だから、そんなものを理由にしてしまっている私は、最早人ですらないのだろう」
彼は、自分が解っていなかった。
暴走しているというクラウンの言は、実際、正しかったのだ。
「安心していい。そんな騎士はどこにもいない。人はロック鳥になどなるはずはないし、悪魔などこの世にはいるはずもない。姫君に手を貸したと言うのも――後世の歴史家が、王家に箔をつけさせる為の作り話に相違あるまい――故に、こんな事を真に受けなくても良いのだぞ?」
そうしてクロウは、楽しげに口元を歪ませ、先ほどまでの語りを全てなかった事にしようとした。
嘘偽りであったと。ただの騙りであったと、そうのたまったのだ。
「――だが、貴方は父上にとって、最高の騎士であった」
「今は愚かな裏切り者だ」
「父上にとって貴方は、唯一自分を認めてくれた、肉親よりも大切な存在だったのだ」
「世間知らずな王子様は、少し優しくされるとそれだけで信用してしまう物だ」
「父上にとって貴方は、僕以上に信用できて、母上以上に愛する事の出来る、掛け替えのない人だったはずだ!」
「こんな私をそんな眼で見てしまったその人を見る眼のなさが、アレックス殿の唯一の非であろうな」
「何故貴方は裏切った!?」
「裏切らなくてはならなかったからだ」
「何故貴方は裏切ったんだ!!」
「裏切らなくては、自分が保てなかった」
「何故貴方は、貴方を信じた父上を、裏切ったんですか!?」
「……その信頼が、私の、仮初であろうと作り上げた幸せを、壊していったから、だろうか」
問答は、しかし、クロウ自身の疑問によって止まっていた。
クラウンが繰り返し浴びせた疑問に、クロウは、自分でも解らなくなっていたのだ。
彼は、もうかつてのガイストではなくなっていた。
彼は、もうかつてのクロウではなくなっていた。
では、彼は何なのか。何故、このようなことになったのか。
こんな狂人めいた事を平然とやらかして、だというのにその理由すら定まらない。
そんな男に、クラウンは視線一つ逸らさず、はっきりと見据え、一言。
「貴方は、自分からその幸せを壊す選択をしただけだろう? 父上は、貴方の言葉になら従ったはずだ。貴方が本当にソレを追い求め、作戦の中止を願ったなら――父上は、無理強いしたりはしなかったはずだ」
矛盾した言い訳を始めたこの男に、はっきりと、言って聞かせた。
「……そうであったとしても、私は、自分がソレを許せなかったのだ。そう――そんな自分が、許せなかった」
仕事であるからと、愛した女まで陥れて処刑台に立たせた、その自分の業に。
愛した女を、それでも守りたかった偽りの自分が、怒りを露にしたのだ。
そこに在ったのは、かつて貴族の娘を愛し、子を成し、改革に身をやつした『偽りの騎士』の姿であった。
本来ならば改革の失敗と共に失われたはずの、本来の彼にとっては使い捨てでしかない偽りの自分。
とっくに消し去ったはずのそんな自分を、しかし、彼は取り戻してしまっていた。
――楽しかったのだ。エリスティアとの時間が。忘れ難いほどに、愛しかったのだ。
そんな感情が、彼女と良く似た娘と出会った時から、蘇ってしまっていた。
年の頃ならまだ十五、六の小娘が、しかし、母親のように美しく笑いかけてくるのだ。
娘との日々は暗殺者として生きた、また別の仮初の自分の時間であったが――そんなものが、たまらなく楽しかったのだ。
「だが私は、まだこの国の
未練がましい自分に憎しみすら向けながら、それでも尚、彼はそこに在った。
新たに玉座に座りし若き王族に、クロウはザラリと、人ではないような眼で見つめる。
「――さあクラウンよ。新たなバルゴアの王よ。お前は、私に何を望む?」
彼は、クラウンを新たな王と認めた。新たなバルゴアの王であると。
最初に命じられた物事は、絶対執行の命令となる。
彼は、委ねたのだ。この後の自分を。
まだこの国に縛られ続ける亡霊で居続けるのか、それとも――
「……僕は」
その問いかけに、クラウンはやや躊躇しながら――しかし、しっかとした瞳で睨み付けるように言葉を紡ぐ。
「僕は、貴方など必要としていない。願う事ならば、二度と我々王族と、そしてこの国の政治とに、関わらずにいて欲しい」
淀まずに伝えられたその言葉に、クロウはどこかほっとしたような面持ちで、小さく頷いた。
「――ありがとうクラウン。これで私は、陛下の後を追うことができる」
もう、国に縛られ生き続ける事もあるまい、と。
ようやく安堵できたその表情は、縛り付けるものもなくなり、柔らかなもののように、クラウンには映っていた。
玉座を去ったクロウの前には、彼の愛弟子・グリーブが待っていた。
神妙な面持ちで、彼の姿を認めるや、その場に傅くように膝を床につける。
「……グリーブ。彼を良く支えてやれ。アレックス殿亡き後、国はまた、しばし混乱するだろうからな」
その肩に手を置きながら、脇をすり抜けてゆく。
「師よ……それはありません。あの方は――アレックス様に似てとても聡明な方です。それでいて、リヒター様のように人当たりも良い。必ずや、この国を繁栄させてくださるでしょう」
姿勢をそのままに、グリーブは一言、肩を震わせながらにそれだけ告げる。
この弟子は、もう師が何を考えているのか悟ってしまっていたのだ。
だからこそ、止められぬ。それが悔しくてならぬと、自身の無力に唇を噛み続けた。
「そうか――私も歳を取ったな」
苦笑ながらに、涙を流す弟子を置き、城を出た。
外は、もう深々とした夜に染まっていた。
あれほど親しみを感じていたはずの闇に、しかし彼は、小さく身震いする。
寒い訳ではない。ただ、怖かったのだ。
殺す側の人間であったクロウは、もう間も無く、逆の立場になる。
闇は獲物を追う者の友であり、獲物となった者にとって、脅威でしかない。
そして、今宵彼を殺すのは――
「――ベルクさん」
貴族街から平民達の世界へ。
橋を渡ろうとするベルクの前に立ったのは、シルビアであった。
キッと、気の強そうな目で睨みつけながらに、手には、ショートソードを突き出しながら。
「やあ、きっとこうなると思っていた」
そんな彼女を見つめながら、クロウは、軽薄な笑みを向けながら、ツトツトと歩み寄る。
「――なんでですか? 貴方は、私達と一緒にこの街を救ってくださったじゃないですか。何故、団長と殺し合いなんて――」
困惑ながらに、シルビアは近づこうとするクロウの喉元に剣先を突きつけ、声を大にする。
「なんでだと思う? 王に命じられたから? それとも、私が団長を殺さなくてはならなかったから? あるいは、単なる力試しをしたかったとか、殺し合いをしたかったとかかもしれないな」
「そんな――あ、貴方がそんな事するはずがっ――」
根拠の無い信頼が、シルビアを困惑させていた。
彼女は、信じてしまっていたのだ。彼を。
そこには何の理由も無く、ただ、信じたかったから信じていたのだ。
「するさ。私は酷い男だぞ? 目的の為ならば、娘まで作った女ですら処刑台に送ったりした。お前のことだって、利用するだけのつもりで抱いただけかもしれないぞ? 何故お前は、私を信じようとするんだ? 騎士団長を殺してみせた、この私を?」
そんなものは捨ててしまえと、悪魔のような冷たい目で、クロウは言って聞かせていた。
彼にとっては、この娘こそが、最後の邪魔であった。
自分という存在をかなぐり捨てて、未練等ない世界へと旅立とうとしていた彼にとって、彼女という未練は、どうにも捨てがたく、振り払い難かったのだ。
「そんなはずは……」
だが、シルビアは身を震わせながら、自分に言い聞かせるように呟く。
クロウの言う事、した事、全てを信じたくなかったのだ。
自分を抱きしめ、抱き、甘く囁いてくれた時のことばかりが浮かんでしまう。
自分を慰めてくれた時の事ばかりが心を占めていて、そんな彼の言葉が、受け入れられなかったのだ。
「私は……私は、貴方の事を、愛してしまっているんだと思います」
涙を流しながらに、手を震わせながらに、剣先をブレさせながらに、シルビアは告白する。
そんな言葉が届くとは思いもせず。ただ、伝えたくて伝えた言葉であった。
「私は、お前の事など愛していない」
突き放したいクロウは、感情の篭っていない言葉をぶつける。
だが、シルビアは目を一瞬見開いただけで、それでも、と、剣を落とし、その身にしがみついた。
「――なら、これから知ってください。私という女の事を。貴方を信じている人の事を、知って欲しいんです。貴方がどういう人で、何をしてきた人なのか、教えてください。全部受け入れます。どんな人であってもいいんです。ただ――ただ、いなくなろうとしないでください……私の、前から――」
その言葉を紡ぐのに、どれだけの勇気が必要だったのか。
シルビアという娘が、そうまでして受け入れようとした自分に、どれほどの価値があるのか。
クロウには、理解できないままであった。
「お前は、私を殺してはくれないのか?」
だから、彼女の愛には、こんな疑問しか浮かばなかったのだ。
計画倒れであった。
騎士団再興を夢見させて、目の前で騎士団長を殺せば、きっと憎しみに駆られて殺してくれると思っていたのに。
刃まで向けたのに、結局語ったのは恨み言ではなく、愛の告白とは、と。
「この世界は、私には優しすぎる――何で皆、私に一言『死ね』と言ってくれないのだ……?」
自分の存在が、どれだけ人の命を奪ったのか。
たくさんの夢や希望を奪い、多くの涙を流させ、悲しみを生み出した元凶に過ぎない自分が、なんで生きているのか。
生きたまま許されるのか、それが、彼には解らなかった。
そんな自分を無条件に受け入れてくれるというこの娘が、心底不思議でならなかった。
――そう、エリスティアのように。エリスフィアのように。
「待って、ください――」
自分にしがみつくシルビアを構いもせず、クロウは歩き出す。
振り落とされそうになるシルビアは、必死にクロウの腕を取ろうとするが――するりと、抜けてしまった。
「待って――待ってくださいベルクさん! 私、私はっ――」
もう、彼女の叫びなど、クロウには届いていなかった。
追いすがり泣きながらにしがみついてくる彼女を邪魔な障害物程度にしか思わず、振りほどこうとする。
顔から石橋へと倒れ、砂に汚れながら、それでも。
それでも自分の足を掴むシルビアに、クロウはようやく再び、視線を向ける。
「――ひとりで行かないでっ!!」
涙と砂とでぐしゃぐしゃになった顔を、構わずに足首にこすりつけるようにしがみつき、みっともない姿で泣き叫んでいる女がいた。
美しいはずのその顔は台無しで、だというのに、今まで見たどの女より――そう、どの女より、彼の心を強く揺り動かした。
「一人で、行かないでください――もし死にたいのなら、私も死にます。だから、置いていかないでください。傍に、置いて下さい」
それほどまでの想いとは、一体どのような気持ちで紡がれていったのだろうか。
それほど長く付き合いがある訳でもなく、身体を交わらせた回数とて数えるほどしかない。
愛を口にしたことなどなく、ただひと時関わっただけの女に、なんでこうまで言われているのか。
彼はようやく、その疑問をどう口にしたらいいか、と、考え始めたのだ。
「お前は、私が死んだら、死ぬのか?」
滑稽な言葉を、自分でもそう思いながら、呟いていた。
「――貴方の居ない場所に、意味なんてありませんから」
それが彼女なりの必死の告白なのだと解り、笑ってしまいそうになる。
恋などろくにした事もない女が、初めての恋愛で口にするには、あまりにもやけくそじみている、と。
だが、自分をも投げ出しそれでもその傍にいたいと願えるその純真さ、穢れなさは、クロウの胸を強く締め付け、トクリトクリ、と、耳裏に残る音を感じさせていた。
「それが、お前の願いか」
「はい……貴方の傍に居たいという、私の願いです」
言葉にしてみればなんとも陳腐なものであった。
三流の役者でも口にしないような上ずった言葉であった。
だが……どんな言葉よりも、クロウにとって、嬉しい言葉であった。
「私の為に死なれても困る。こんな所で死ぬのも、馬鹿馬鹿しい、な?」
やがてクロウは、膝を折り、自分にしがみついたままのシルビアに、手を差し出す。
「えっ、あ――きゃっ」
眼を白黒させながら手を差し出すシルビアの手を掴むと――そのまま抱きしめ、強く抱擁した。
月明かりが照らされ、水面に二人の影が映りこむ。
ゆら、と揺れる二つの影は、やがて手を取り合い、橋を渡っていった。