ひとつの国が滅びようとしていた。
終わらない戦争。いつまでも続けられる人と人との殺し合い。
街は異民族に侵略され、若い娘は犯され、若い男は労働力として連れ去られ、年寄り子供は殺された。
少し前まで辛うじて体裁を保っていた国という名の防衛機構は、今はもうロクに機能しておらず、先日まで国を守っていたはずの軍隊は、とうの昔に王族を見限って敵側についていた。
辛うじて王族を守っていたのは、国の始まりから忠節を尽くしていた騎士団のみ。
その騎士団も敗戦を重ねるにつれ数を減らし、王族も戦場で散り、周辺国への増援の見返りに人質として支払われたりして、国としてはもう、終わりかけていた。
国の北側、深い森の奥にある、人の立ち寄らぬ絶壁の前に、姫君が一人、護衛もなしに立っていた。
彼女の名は『スフィア』。滅び往く
父母を早々に亡くし、兄や姉は戦死。妹らは周辺国の人質に取られ、ただ一人、国に残った。
大層美しく賢かったので妃にとの声も多かったが、自身の生まれ育ったこの国が為、最後まで尽くしたいと思ったのだ。
だが、国は最早崩壊寸前。
民に気力はなく、国に民を守る力は無く。
そして、彼女自身にももう、人を動かすだけの人望が残されていなかった。
まだ年若い彼女は、それでもできる限りの事をしようとしたが、彼女が実権を握った時には既に遅く、ロクな人材は残されておらず、ロクな戦力が残っていなかった。
何かをするにつけ仇になる人材不足。
何をするにも手が届かず、人々の失望を買うばかり。
そんな王族が民に信望されるはずもなく。
国はもう、異民族の手で焼かれずとも、民自身の手によって滅ぼされる寸前だったのである。
最早玉座に座る意味なしと、自分から城を出て、兄だった先王から『決して近づくな』と言われていたこの絶壁を最後に一目見てやろうと、半ば諦めの場所として、ここを訪れていた。
「……なんにもないのね」
姫君は、自嘲気味に笑っていた。
驚くくらいになんにもないのだ。
何がしか危険な魔物でも棲んでいるのか、あるいは禁術でも持った魔法使いの類でもいるのでは、と、怖いもの見たさで訪れたというのに、実際にあったのは、何の面白みもない絶壁のみ。
この壁自体はなるほど、古くからあるものと伝え聞いてはいたが、観光地とするにも面白みが無さ過ぎる。
何かを求めて来たらがっかりするから近づくなと言っていたのでは、と邪推してしまいそうなくらい、何の為にあるのか解らない場所であった。
部下一人連れず、こんな深い森の中。
もしかしたら刺客や賊に狙われるかもしれないというのに、わざわざきて、これである。
だが、姫君の心にはもう、失望も絶望もなかった。
恐らくは城に戻れば殺される身である。
これ以上の絶望は無いくらいに、彼女はソレをよく知っていた。
――滅びる国の王族の、その最後の一人というのは、こんなにも心寂しいものなのか。
ただただ、虚しさばかりが、スフィアの心を埋め尽くしていた。
『何かが欲しいのか?』
しばし
彼女の背後から、どこかおどろおどろしいような、そんな声が聞こえた気がした。
いいや、響いていた。
「……っ!?」
何事か、と、振り向いた彼女の前には、先ほどと変わらぬ光景。
だが、それもまた、次には驚くべき光景へと変貌を遂げる。
絶壁だと思っていたソレに、巨大な眼がついていたのだ。
そんなはずはないと思いながら目をこするも、事実絶壁に眼が生え、自分を見下ろしていた。
『何を驚く、人間の娘』
「――スフィアよ。バルゴア最後の王族、スフィア」
戸惑いは隠せずとも、それでも気丈に、その巨大な眼を睨み付ける。
――化け物の類か、それとも。
何が起きているのか解らないまま、しかしスフィアは、どこか心が高鳴っているのを感じていた。
「貴方は何者なの? 私は名乗ったわ」
名乗りなさい、と、手を向け、相手の出方を伺う。
『我が名を知る事は、契約する事と他ならんぞ?』
だが、巨大な眼は、せせら笑うように姫君を見続ける。
瞬き一つせず、ただただ、姫君の様子を見て愉しんでいる様だった。
「契約?」
『そうだ。契約者は我らの仲間。我らの友。望むならば如何様にでも力を貸し、願いをかなえよう。ただし――何を望み、何を願い、何故それを願うのか――嘘偽り、一切許さぬ』
絶壁の言葉に、姫君は勝ち気に口元を釣り上げる。
「まるで悪魔の契約ね。いいわ、どうせ滅びる身だもの。最後にギャンブルの一つをしてみるのも、悪くないかもしれない」
明らかに分の悪い賭けだけれど、と、勝ち気に笑いながら、姫君は悪魔の言葉を受け入れる。
「――私と契約しなさい。そして、私に力を。国を取り戻し、守り、再び繁栄させるだけの力を貸して頂戴!」
『お前は、何故それを望む? 己が欲望の為か? 民の為か? それとも、王族としての責務か?』
「……我が一族の未来、そして、私に最後まで忠節を尽くしてくれた、騎士団の為。今も尚、我が為城に残ってくれている者達の、その名誉の為よ!」
姫君は一筋の迷いすら見せず、絶壁に向け、あらん限りの声で答えた。
『お前は、お前の一族は、永遠にそれを守りぬけるか?』
「守らせてみせるわ。私に忠節を誓ってくれた者達を、ないがしろになどさせるつもりはない。このことは、永遠に語り継がせる!」
『……素晴らしい――姫君は、そうまでして忠義に報いるのか。そうまでして、忠節を重んずるのか』
わずかばかりの沈黙の後に、詰まったような声で返って来たのは、おどろおどろしい声のまま、どこか上ずったような、そんな感嘆の言葉であった。
『ならば良かろう。我が力、姫君に、そして、忠義ある騎士らの為、貸そう』
そうして、契約は成り立った。
絶壁は、その契約の文言と共に
土くれに見えたソレは、巨大な翼。
絶壁だと彼女が思っていたものは、うずくまった鳥の頭と胴体であった。
巨大な鍵爪が地面を割り現われ、その身が動く度、地が揺れ木々がざわめく。
「……ロック鳥だったの、貴方は」
それは、あまりにも巨大な鳥であった。
『空の王者』と呼ばれる、竜すら獲物とする怪鳥。
夜を舞い、舞う度に多くの命を狩り取る『夜烏』と呼ばれる帝王。
天の始まりより存在すると言われている、人以上に賢く、人以上に強い生き物。
存在もおぼろげな悪魔などより、胡散臭い魔法使いなどより、よほど恐ろしげな存在であった。
『さあ、姫君よ。望むがいい。最初の命令は契約者のモノとして絶対に叶えよう。だが、二度目以降は友の言葉として聞こう』
鳥らしい姿となった彼は、姫君にその勇壮な瞳を向ける。
まるで試すように。自身の盟友の、最初の一言が気になって仕方ないとばかりに。
「その前に、名前を教えて頂戴」
『名無しだ。それが、我が天より授かりし名だ』
「……不便な名前ね。まるでなんにもない人みたい」
『そうかもしれんな。だが、名乗るべき記憶に思い当るモノが無い』
結局は名乗らずと大差ない、と、皮肉ぎみに笑う姫君に、ロック鳥はにたり、くちばしを開いて笑ったような顔になった。
「でも、色んな名前を名乗れて便利そうだわ。貴方はきっと、時代と共に名前を変えていくことになるんでしょうね」
『そうだろうか?』
「そうなるわ――ではロック。私が望むのは、この国の再興。この国に忠義を尽くした者達の、
勝手にそう呼ぶことにした姫君は、自分よりはるか上のこの怪鳥の、その瞳を覗きこむが如く、強く見つめていた。
強い意思のこもった瞳であった。
永い時を生きた彼ですら、そうは見ない眼。
――気がつけば、彼はその瞳に魅入られていた。
『よかろう、まずは戦だ。お前を殺そうととち狂った民を黙らせ、
「貴方なら、それは容易いはずよ」
成鳥となったロック鳥の力は、人知を遥かに超えている。
単騎で国を攻め滅ぼす竜ですら、その力には抗えず、ほぼ一方的に殺されてしまうほどで、人間が軍勢となった所で抗うことなどできるはずがなかった。
これはもはや、生きている災厄なのだから。
『任せるが良い――そしてそれが終わったら政治だ。失った人心を取り戻し、お前自身が人に好かれるようにならねばならぬ。その次は――後継者を残さねばならぬ――やることはいくらでもある。早死にしてくれるなよ?』
威厳に満ちた声で、しかしどこか楽しげに語り、ロック鳥は姫君へと翼を差し出す。
「勿論よ。三十でも四十でも生き延びてやる。何人だって子供を産んで、王家を再興させてみせる!」
意気込みを取り戻した姫君は、その翼を握手のようなつもりで手に取り、笑った。
それからほどなくして、バルゴアという国は平和を取り戻した。
乱れていた人心も、侵略の魔の手も、国を脅かす悪漢らの策略も。
そのことごとくが、ロック鳥という恐怖の代名詞の存在によって封じ込められ、あるいは排斥され、姫君に逆らう者はいなくなったのだ。
忠義者の騎士達も救われ、失われかけた騎士団は再建され、国を守る主力軍としてかつての軍以上の権威を持つ事になる。
国が平和になって後、スフィアは王族としての責務のひとつにロック鳥の雛の保護を追加し、以降、バルゴア王族は精力的にロック鳥を保護する事となった。
これが、バルゴア建国史における最古の記述。
初代国王スフィアと、その夫ロックの最初の出会いである。
戦いが終わり、国が平和を取り戻した後に、ロックは人の姿となり、スフィアとの間を子を儲ける。
その子がまた、ロックと契約し、それが繰り返され、バルゴアという国家は繁栄の道を進む事になったのだ。
……少なくとも、歴史の上ではそう伝えられていた。
バルゴア王家は、初代国王の誓いのまま騎士団を重用し続け、騎士団も代替わりしながらもそれに応えるように文字通り捨て身となって国難を排除し続けた。
他国が自在に動き回れる軍隊を用意するようになって尚、古臭いと言われながらも騎士団は国の主力軍として残ったのだ。
近年に至るまで、それは脈絡と続けられた。
だが、アレックスは、代々の国王が厳にして進んでいた道を、踏み外してしまった。
国の繁栄の為にと、兄や父王を謀殺してしまった。
戦後の世界には不要だからと、腐敗しつつあった騎士団を排斥しようとしてしまった。
これらは全て、代々の王族が連綿と受け継いできた、『最初の王による最初の信念』。
ロック鳥であった『彼』の心を動かした、尤も大切なものであった。
そうして更にアレックスは、もう一つ、致命的な過ちを犯していた。
ロック鳥により王と認められた者が、最初に彼に命ずる命令。
これは必ず彼が守ると確約されたものであった。
だが、二度目以降の言葉に従うかは、彼自身の意思によって決まるのだ。
だから、代々の王は必ず、ロック鳥に向けこう命令する。『私の言葉に逆らうな』と。
これにより、初めてロック鳥と王とは対等の関係から君主の関係になるのだ。
これを、この最初の命令権を、アレックスは自分で『騎士団長の撃破』などというつまらない命令で使い果たしてしまったのだ。
知らぬ事とはいえ、聡明な彼らしからぬ、子供じみたミスであった。
かくして、近衛騎士ガイストは騎士団長レイバーを討ち倒し、謁見の間にて、王と対面していた。
普段ならば必ず脇を固めるはずのグリーブすらいれず、サシでの謁見であった。
「素晴らしい剣の冴えだったぞガイスト。やはり、お前は我が国の誉れ。最強の騎士だ」
「身に余る光栄です、陛下」
機嫌よさげに忠臣を讃える王に、しかしガイストは表情を出しもせず、静かに返すばかりであった。
だが、王は気にしない。この男はいつもこうなのだ。
むしろ「私の幼少の頃から変わっておらぬ」と、その変わらなさが、王には堪らなく嬉しかった。
「これで暗殺ギルドの必要性も完全に無くなった。お前という最高の側近も戻り、我が国の繁栄は約束されたも同然だ」
「騎士団はいかがなさいますか?」
「放って置けばよい。あのシルビアとかいうのが建て直せるならそれでよし。無理なようなら、その時にでも取り潰しにすればよかろう。猶予は与えた。活動するための許可も残したままだ。何の問題も無かろう?」
目障りな騎士団長が消えた今、王は、騎士団の存在にはさほどの苛立ちも感じられなくなっていた。
もとより、先代の団長が就いていた頃から騎士団長がいなくなれば烏合の衆、ただ消えるのみの組織と踏んでいたのだ。
それが、新たな団長によって延命されていたに過ぎない。
そして、その延命させていたレイバーまで倒れたとあっては長くは保つまい、というのが、王の見方であった。
無理に責め立てる必要もない。口実など必要なしに、騎士団はじき倒れるのだ。
少なくとも王は、そう信じていた。
「……陛下がそう仰るのならば」
口元を軽くゆがめながら、しかし口調はそのままに、ガイストは王の言うまま、傅く。
「もう何も怖いものなどない。邪魔なものなどない。マドリスもレイバーも……お前を縛り付けていたあの小憎たらしい小娘も、お前が殺してくれたんだからな」
「はい……ですが陛下、まだ殺さねばならぬ者が居ります。この国に仇なす、放置し難き国難の病巣が」
心底安堵したような、優しさすら感じさせる面持ちの王とは逆に、ガイストは頬を引き締め、戦人の顔のまま、王に進言する。
「まだ何か居るのか……? ああ、そうか。そういう事か」
ぱちん、と、手を叩き、王は王なりに、ガイストの言葉を理解しようとしていた。
自分の邪魔となり、国の繁栄に仇なすやも知れぬ者。
王はそれを、まだ生きているはずの暗殺ギルドマスター・アドルフなのだと考えていた。
「くくく……ガイストよ、お前は本当に、細かいところまで気が回る男だ」
そのような小物の事など半ば忘れ去っていたが、この忠臣がどうしてもというならば、と、彼は上機嫌のまま、笑ってそれを受け入れることにした。
「よかろうガイスト。
そう、この忠臣が言うのならば、それは間違いの無い事なのだ。
彼はいつだってそうしてきた。だから、今回もそうしただけだった。
結局彼は、ガイストに言われるまま動くことしか出来ない男だったのだ。
「――御意に」
そうして、ガイストは立ち上がる。
自身に命を下した主の前に立ち、そうして、歩み寄った。
「うん……? どうしたガイスト? 何を――」
凶器を取り出すのに一瞬も掛からぬ。
腰元の剣を抜くより早く、暗殺者は袖の裏に隠したダガーで、王の首を掻き切った。
「――えっ」
それは、王の言葉としては、あまりにも間の抜けた声であった。
ほどなく、切り口が千切れ、血が噴き出す。
ぱしゃりと跳んだ血が、クロウの顔を赤黒く染めていった。
「バルゴア国王アレックス。商人ギルド主宰『マドリス=ヘルマン』により、貴方と近衛騎士ガイストの殺害依頼があった。せめて次の明日は、兄上と共に幸せに生きて欲しい」
尚も飛び散る血をかわそうともせず、淡々と語りながら、ダガーで十字を切り、数秒眼を瞑る。
暗殺者としての彼は、何よりも仕事を重んじていた。
その彼が、暗殺者として最後に仕事として受けたのが、『全ての元凶』たる近衛騎士ガイストと、このアレックスの殺害であった。
――それが仕事であるならば。
暗殺者として生きた彼は、その信念を何より優先した。
「ぁ……っ、スト――おま、は……わた、が……このくに、に、あ――す、と……?」
喉を掻き切られ既にロクに話せないはずだが、それでもアレックスは、苦しげに喉を掻き毟りながら、びくり、びくりと肩を震わせながら、忠臣だったはずの男を見つめ、涙ぐむ。
「アレックス様。
何かを願うように、まるで捨てられそうになった子供が親に追いすがるようにアレックスが手を伸ばすと、クロウはそれを手に取り、その身を強く抱いた。
「……そ、ぅ――かっ……わ――は、わた……はっ」
「もう良いのです、眠りなさい。恐らくは私も直に、お傍に参ります故」
「ぅ――ん。わかっ――はぁっ、ぐ――っ」
かしゅ、と、最後に大きく血を吐き。
だが、とても暗殺された王とは思えぬほどに、アレックスは心安らかに、永遠の眠りに落ちた。