夜は、烏にとって支配的な世界であった。
その中で動くモノは全て獲物。
彼がそう望めば、全てが狩り取られ、消え往く。
彼にとって人間とはそういう存在であり、ただ、消えるだけの命であった。
そんな中にも、一際輝く命があった。
どこにでもあるような石ころよりも美しく、闇の中にあって月とも見紛う程に瞬く、強い命。
人々を虜にし、また、人を強くもするそんな魔力に、彼も惹かれてしまっていた。
宰相の娘エリスティアとは、そんな存在であった。
聡明で美しく、同性には憧れられ、異性には恋焦がれられ。
目上には可愛がられ、同い年には慕われ、年下には尊敬され。
歳若い貴族や子息達にとって、恋の相手としてこれ以上ないと言われるほどに、その美貌に魅入られた者は多かった。
その筋の通った気の強さには歴戦の武人ですら
彼女を一言で表すなら、白。
まるで穢れのひとつも知らぬ天使の羽のような、
その白さは決して汚れる事無く、捻じ曲げられる事無く、壊れる事はない。
真っ黒な烏は、真っ白な白鳥に、惹かれてしまっていたのだ。
そう、彼がつい、役目を忘れかけてしまうほどに。
結局、彼に課せられた役目は果たされ、彼は
彼を牢から出す者が現れるのを。時が過ぎ、自分の存在が世間から忘れ去られるのを。
どれだけ孤独な日々であろうとも『それが役目であるならば』と思い込めれば、存外、なんてことはなかったのだ。彼にとっては。
幾年経ったかもおぼろげになりかけていた頃、約束どおりに彼の前に、彼を解放する者が現れた。
解放者は、自分を『フィアー』だと名乗った。
ただ、『私はかつて改革に参加した者の娘です』と耳打ちしてきたのを聞き、首を傾げそうにもなっていた。
彼女達から見れば、彼は、その改革に参加した親だの兄弟だのを悲惨な道へと向かわせた、いわば憎き仇に過ぎないのだ。
真実こそ知れていないとはいえ、改革の犠牲者の身内であるこの娘が、いつ自分に刃を向けてくるのか、その時がいつに来るのかが気になり、距離も図りかねていた。
何よりこの娘は、彼がかつて愛してしまった、ただのターゲットに過ぎなかったはずのエリスティアと良く似ていた。
性格や立ち居振る舞いこそ全く似ていないが、その顔立ち、声質などは瓜二つで「こんな偶然があるモノなのか」と思ってしまったほどである。
当時は彼自身、自分とエリスティアの間に娘ができていたことを知らず、それが故、死んだはずの女と瓜二つのこの娘が、自分と恋人ごっこに興じているのが余計に不気味に見えてしまっていたのだ。
最も、自分を暗殺者と思い込めばそれほどに、そんな生活が当たり前になってきてもいたのだが。
「――では、暗殺者としての私は、誰の命令を、聞くべきなのだろうな?」
扉へと手を掛け、一人ごちる。
館には数多くの私兵が控えていたが、邪魔する者は全て蹴散らした。
よく訓練された私兵たちであった。
多人数で一気に攻めてこられては、さしものクロウも不覚をとりそうになっていたが。
だが、蹴散らしてきた。
そも、『彼』は正面突破において無類の強さを発揮する。
彼の手には、私兵から奪った一振りのロングソード。
得意の得物としていたダガーよりも深く手に馴染み、軽く振るわれていた。
「――ただの人殺しに成り下がったなら、誰の言う事を聞く必要もないですよ」
目標は、そこにこそいた。
ドアの先。部屋の隅の、やはりベッドの上に腰掛け、にこやかな笑みを見せながら。
一切の抵抗の素振りも見せず、ただ、座って暗殺者の到来を迎えていた。
「私達が統制していたのは、理性ある『職人』だけです。ただ、言われるまま殺す事しか出来ない者には、職人という呼び方すら要りませんよ」
一切の表情なく足を踏み入れた彼に、フィアーは尚も言葉を続ける。
だが、一歩、二歩、構わず前に進み、やがてフィアーは口を結びながら、上を向いた。
彼女の前にあるのは、彼女が待ち望んだ者の顔。ただそれのみ。
「ギルドマスターは死んだ。あいつは、お前を殺せと命じてきたが――そんな事はどうでもいい」
「そうでしょうね」
「私にとって、お前はつけなくてはならぬ
「……っ。そう、でしょうね」
ただ二言、同じ言葉で返すだけであったフィアーだが。
二言目は、どこか辛そうに、視線を逸らしながらであった。
「――私にとって、エリスティアとの日々は、『職務を果たすための演技』に過ぎない」
その喉元に向け刃先を動かし、懺悔のように言葉を向ける。
「お前が私にどのような感情を抱いたのか。お前が私に何を期待していたのか。お前が何故、私をあの牢から出そうとしたのか。何もかも解らぬままだが、知りたいとも思わん」
そこには彼の思い込みもあった。
そうであるなら、そう考えなくてはならぬという、彼自身の思い込みがそこにあった。
フィアーはそんな彼の顔を見てはっとして目を見開き、何事か語ろうして……しかし、また黙ってしまった。
「お前もお前の母親と同じだ。私はずっとこうしてきた。今までも、これからもだ。好きなように恨んでくれて構わんよ」
「恨みませんよ」
皮肉げに口元を緩めた彼に、しかし、フィアーは笑顔で返していた。
どこか緊張したような強張った、無理矢理の笑顔で。しかし、即答であった。
「貴方を解放した時から、私がどうなろうと、全てを貴方に委ねるつもりでした。あの場で殺されてもよかった。犯されてもよかった」
今度は視線を逸らしたりせず、一心に前を向き……自分に刃を向けてくる父親に、出来うる限りの笑顔を見せていた。
「……ただ、一緒に居たかったのです。普通に過ごすことができなくてもいい。ただ、少しでも一緒の時間を共有できたら……貴方の中の思い出のひとつになれたら、それでよかったのです」
「――っ!?」
『なあエリスティア』
『どうしたのですか? 貴方がそんな顔をするなんて、珍しい』
『君は……その。もし、私が……君の思っているような男ではなかったら、どうする?』
『どうもしませんね。私は勝手に貴方の事を素敵な男性だと思っているだけですから。勝手に愛して、勝手に傍にいるだけ。そうして、貴方の中の思い出の一つにでもなれたら、それでいいかなって思っていました』
『……なんだ、それは』
『ふふっ、なんなんでしょうね。自分でもわかりませんわ。ただ、貴方は、どこか寂しい人のように思えたから……傍にいてあげたいなって思ったんです』
『……そうか』
不意に思い出した会話があった。
改革が起きる、ほんの何日か前の話。
具体的な日にちすら思い出せない程に古い記憶で、それが朝だったのか夜だったのかも解らなかったが。
彼には、確かに聞こえたのだ。
愛してしまった、その女性の言葉が。鮮明に。
「……ああ」
彼は、絶句していた。
同じ声の、似た容姿の娘が、そこにはいたのだ。
それは彼と彼女との間の、紛れもない愛の結晶のはずだった。
だが、彼はこれからそれを、自分の手でなかった事にしなくてはいけない。
「私は、後悔しているのか……」
ぽそり、呟くその唇には、力が篭っていなかった。
ただ流れ出ただけの言葉。だが、手に持った刃はそうはいかなかった。
娘の頭を越え、やがて自分の正面へと構えられた刃。
このくらいの娘を殺すのには、この程度の高さがあれば十分であった。
勢いなど必要ない。ただ振り下ろすだけでいい。
「私は、自分が選んだ道を、初めて後悔しているのか」
男は、笑っていた。
自嘲気味に笑い、色もなく口元を歪めていた。
だからか、娘には不思議に思えたのだ。
「――最後に、教えてもらえますか?」
その眼を正面から見据えながら、娘は問う。
愛した女と同じ顔で、同じ声でのそれに、男はぴた、と、腕を止めた。
無言でのその動作に意を得たと感じ、娘は言葉を続ける。
「今の貴方は、『誰』のつもりなのですか?」
高低もなく発せられたその言葉に、男は、ただ無言のまま、じ、と娘を見つめていた。
「今の貴方は、私の見知った『暗殺者クロウ』では無いように見えます。ですが、今の貴方は、本当に『近衛騎士ガイスト』なのでしょうか?」
「……なんだと?」
「もしそうなのだとしたら、お母様は、そんなに色の無い顔をした、つまらない男に心底惚れて命まで投げ出した事になるのですが……そうなのだとは、信じたくなかったもので」
一瞬面食らった男であったが、娘の一言一言には、どこか染み入るようなものがあるのを感じ……男は、やがて「くくく」と、内からあふれ出した不思議なものに、笑いを堪えられなくなっていた。
「くく……そうか。私は、そんな顔をしていたか」
「ええ、なんでそんな顔をしていたのか、不思議で仕方ありませんでした」
はは、と笑いながらに、男はようやく顔に色を成してゆく。
娘もまた、そんな彼に嬉しげに微笑み、余裕すら見せながら、自分の前にある刃を見つめていた。
「――私は、名も無き『職人』だ。『裏切り者』フィアー。お前の命を貰う」
「それこそが、今の貴方ですか。ええ、どうぞ」
もう悔いは無いとばかりに、フィアーと名乗った娘は笑った。
職人は、職人であるが故に、課せられた職務を果たさねばならぬ。
今一度、刃を振り上げ……そして、剣を捨てると、懐からダガーを取り出して、空に十字を斬る。
「お前の役目は今日で終わる。さようならだ、フィアー」
「ええ、さようなら、名も無き職人さん」
そうして彼は、目標に向け、ダガーを――
この夜。『仕立て屋』フィアーは死んだ。
後には名も無き一人の『職人』が残り、そして、去っていった。
「お疲れ様。さあ、馬車の用意はできてるよ」
館を去った彼を待っていたのは、クラウンであった。
羽付きの鳥撃ち帽などかぶって、妙に貴族風の出で立ちで。
どこかかしこまったような動作で街の外に向け礼をして、彼が有無を言う間も無く歩き出す。
「確認なんて野暮なことはしないよ。貴方は、必要だと思ったことはやる人だ。貴方の主もそう言っていた。僕も、子供の頃からそう教わっていた」
歩きながらに、問いかけてもこない彼に対し、勝手に説明を始めるクラウン。
だが、その若さがどこか、彼には懐かしくもあり、嬉しくもあった。
「僕はね、子供の頃は貴方の話を聞くのが大嫌いだった。その場にいもしない貴方の事ばかり話して、お説教の度に『ガイストならこうはいかなかった』と、僕の教育係を叱りつける。ハスミスもアムリスも頑張ってくれてるというのに、あの方は、今だって貴方の事しか考えていない」
困ったものだよ、と、苦笑ながらにちら、と、確認するように振り向き、また、前を向いて歩き出す。
「だけどね、信頼してもいるんだ。あの方は、人を見る目だけは間違ってないからね。貴方の事を信頼し、全てを任せている。だから僕は、貴方がする事にも、しようとしてる事にも一々何かを言うつもりはないんだ」
表向きは全幅の信頼を寄せてくれているようにも思えるセリフだが、その割、内心ではそこまで本気で称賛しているようには聞こえていなかった。
「……随分と信頼してくれてるようだが。その実お前にとって私は、あまり面白くない存在なのではないのか?」
「さて、どうだろうね?」
なんとなしに出た問いには、何か思わせぶりな答えが返ってくる。
このクラウンという男は、まこと解らない男だと、彼は苦笑していた。
「もしかしたら、僕は貴方に嫉妬しているのかもしれない。だけど反面、憧れてもいたのかもしれない。そして今、貴方に失望か羨望か……どちらの感情を抱けば良いのか、迷っている気がする」
「曖昧だな」
「そう、曖昧なのさ。僕はいつだって曖昧だ。クラウンなんて、曖昧な奴が被ってるから道化にしか見えないのさ」
そうだろう? と、振りまきざまに道化のようににやりと笑い、頭の羽つき帽子をぴん、と、はじく。
「ああ、そうかもな……」
そう考えるなら、自分は間違いなく道化なのだろう、と、彼も釣られて笑ってしまう。
なるほど、道化師らしい茶化し方だな、と、皮肉もこめながらに。
そうして、彼らは始まりの地・バルゴアへと戻る。
全ての物語を、終わらせる為に。