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#41.腐敗都市

 セルジオの街は、ゆるやかな時間の中にあった。

柔らかな風、小川のせせらぎ。

ゆったりとした雰囲気の中、セルジオの街では珍しい赤髪の娘が、洗濯されたシーツをぱしり、引き伸ばしながら物干しへと吊るす。


「ふぅ……」


 優しい風が可憐な赤髪を揺らし、娘は暖かなこの地方の優しさに、大きな安堵を感じてしまう。

この街にきてから数日。随分と落ち着いてしまったものであった。


「ミーナさん、お洗濯、終わりましたか?」


 一仕事終え、彼女――ミーナが大きく深呼吸などしていると、背中から声を掛けられる。

振り向けば、そこには彼女より歳若い娘が一人。

彼女が世話になっているこの屋敷の持ち主の、義理の妹なのだという話だが。

おっとりとしたその笑みに、彼女は釣られて微笑んでしまう。


「――はい。このあたりは風があったかいですし、すぐに乾いちゃうでしょうね」

「そうですね。お洗濯するには、このあたりはとてもいい気候だと思います」


 セルジオの辺りは海が近いのもあり、暖かな風が頻繁に流れ込んでくる。

この風が程よく濡れ物を乾かしてくれる為、干し物をするには抜群の環境であった。


「私、ずっとカルッペで暮らしていたから。こんなに素敵な環境があったことなんて、全然知らなかったんです」


 狭い世界で生きていた彼女は、今、そこから脱して平穏の中生きている。

穏やかな笑みがそこにあり、それを見ていた娘――エリーも、小さく頷いてそれを肯定していた。


「そうですね。狭い世界でだけ生きていると、自分の眼に入るものだけが全てのように感じてしまうんです。だけれど、世界はこんなにも広い――」


 両の腕を広げながら、エリーは空を見上げた。


「沢山の幸せがあるんです。いろんなところがあって、人にあった幸せも、きっとどこかにあるんですよ……」


 素敵ですよね、と、また見つめてくるのだ。

豊かな色彩を感じさせる、温かな瞳。

ミーナは「綺麗な人だなあ」と、思わず見とれそうになって……ハッと我に返り、愛想笑いする。


「そ、そうですね……妹も、幸せに暮らしていると良いのだけれど――」


 だけれど、その愛想笑いは、次第に消えていき……不安そうな表情になっていた。

ぎゅ、とスカート端を握り締め、視線をうろうろさせ。

やがて、その視線も下へ向け、ぽつぽつと語り始めるのだ。


「センカって言って、とても賢い子なんですよ。私が、あの教団に関わるのを止めてくれた子で――だというのに私、あの子の言う事を無視して、教団にはまり込んでしまって」

「貴方は、妹さんが止めるのを聞かずに、入信してしまったんですか?」

「ええ……あの時は、家が貧しくて、なんとかして妹を幸せにしてあげないとって気負ってしまっていて……街の、他の人達も入信してるって話を聞いて、いてもたってもいられなかったんです」


 ミーナにとっては、最愛の妹を想っての行動のつもりだったのだ。

今にして思えば愚かだったと言える事でも、当時の彼女にはそれしか選択肢が無いと思えて、そして飛びついてしまった。

だが、それによって彼女は、大きく後悔していた。

自分がひどい目にあわされた、結局騙されていただけだった、というのも勿論あるが、それ以上に辛いことがあったのだ。


「……いつの間にか、いなくなってしまったんです。きっと、私に愛想を尽かして街を出てしまったんだわ――」


 グシグシと目元をこするミーナの背中を、エリーは優しくさする。


「――大丈夫ですよ。きっと、いつか会えますから。生きてさえいれば、案外会えるものなんですよ?」


 私が保証します、と、慰めの言葉を向け、ミーナが落ち着くまで待つ。


「ぐすっ……す、すみません。お恥ずかしいところを」


 少ししてミーナが落ち着いてきたのを見計らって、エリーはハンカチーフをスカートから取り出し、目元をそっと拭き取った。

ミーナは驚いていたが、やがて目を細め「すみません」と、頬を緩める。

エリーも安堵してか、小さくため息をつき、肩の力を抜いた。


「妹がいるというのは、どんな感覚ですか?」


 そうしてまた、問いかけるのだ。

エリーが知りえない、ミーナが知っている感覚を。


「んん……」


 これに対し、ミーナは少し困惑しながらも、思考の波へと入っていく。

姉となったその時から日常となっていた事。

だけれど、確かに想う所は彼女にもあったのだ。


「とっても、強いプレッシャーを感じてしまいます。『私が頑張らないと』という気になってしまって……それから、妹の前で恥ずかしい自分を見せたくないから、その分だけ、追い込まれた気分になってしまう事もありました」


 かつて、妹と二人で暮らしていた頃のことを思い出しながら、ミーナは少し困ったような顔をする。


「――なるほど。妹の存在が、貴方にとってかせになってしまっていた、と」

「だけれど、それだけではないのです。妹がいるからこそ頑張れる。妹がいるからこそ、心癒される瞬間というのも確かにあって――私にとって、あの娘は掛け替えのない存在でした」


 誇らしげな、姉の顔がそこにあった。

エリーが、自分ではできないそんな表情。

それがどこか羨ましく見えて、エリーは小さく息をつく。


「いいですね、家族って。私も妹が欲しくなりました」


 短い返答ではあったが、それだけでミーナには十分であった。


「はいっ。妹は、私の誇りですわ」


 満足げなミーナに、エリーもにこり、微笑んでいた。





 同じ頃、バルゴア王都では、長旅に出ていたシルビアが帰還。

王国騎士団の拠点『ラノマ・カノッソ』にて。

副団長ガングは、シルビアよりそれまでの報告を受けていた。


――カルッペにて、教団本部の爆発に巻き込まれ、騎士団長レイバーが戦死。ハインズも同じく。


 シルビア自身は、生前の団長の指示により一人帰還した、という内容であった。

予め書面にて報告していたとはいえ、間違いなく騎士団そのものを揺るがす一大事件であったが、ガングは驚く素振りすら見せず、ただニヤリ、口元を緩める。

まるで、書面の内容が真実であった事を、喜ぶかのように。


「――貴様の報告は確かに受けた。ご苦労であったなシルビア」

「いえ。では、私は旅の間にたまっていたデスクワークを片付けなければいけませんので――」


 かねてより副団長との相性が悪く、あまり顔を突き合わせていたくなかったシルビアは、団長の死という大問題に眉すらしかめず、まるで聞き流したかのように接するこの男に、強烈な不信感を抱いていた。

だが、早々に去ろうとしていたところを、腕をつかまれる。


「待てシルビア。たまっている仕事などないのだ」


 そして腕を引かれ、前を向かされる。

妙に機嫌良さそうな顔であった。

いつもしかめ面で、特に自分と相対する時は常に不機嫌そうな面構えだったというのに。

何を考えているのか、そのにやついた顔に、嫌な予感がする。


「……どういう事ですか副団長殿? 誰かが、私の代わりに仕事を?」

「シルビア。悪いが貴様には、今回の件の責任を負って貰う事とする」


 その歪められた口元から発せられた言葉に、シルビアは開いた口が塞がらなくなる。


「なっ――」

「団長が死に、そして貴重な騎士団員ハインズを失ってしまった。団長がいない今、その失態の責を負うのは、シルビア、貴様だ」


 指差しながら、団長がいた頃とは明らかに違う、いやらしい視線でもってシルビアを上から下から眺める副団長。

気色悪い物を感じ、後ずさりしそうになるが。

あくまで上司の前という体面上、それを躊躇ためらう。


「一体、何をやらせようというのですか? どのように責任を取れと……」

「まあ、そう重いものではないさ。隊長から一兵卒への降格と、団員たちの慰安係になってもらうくらいだ」

「い、慰安係……?」


 不穏な空気、そして下賎な響きの言葉に、シルビアは思わず自分の胸を庇う。


「何せ、近頃は騎士達も忙しない日々を送っておる。まさか・・・、たまっている鬱憤うっぷんを市民にぶつける訳にも行かんからな。貴様には、団員たちの疲労を癒してもらいたい訳だ――」


 そこまで聞いて、シルビアはカッとなって机を激しく叩く。


「――馬鹿を仰らないでくださいまし!! 私は騎士ですわ! 娼婦ではございません!!」

「別に、馬鹿にしたわけではない」


 シルビアの勢いに押される訳でもなく、副団長はつまらなさそうにそっぽを向き、そのまま言葉を続ける。


「だがなシルビア。貴様が騎士団に、騎士として残るなら選択肢はないぞ? ワシとしては、大人しく従っていたほうがタメになると思ったんだがな。お前は器量も良いし、若い騎士達には人気もある」

「……団長殿がいなくなった途端、随分と下衆げすなことを仰るようになりましたわね、副団長殿?」


 怒りが収まらないシルビアは、副団長の、年の割には筋肉質な肩をつかんで、じろり、その眼を覗き込む。

シルビアの細腕に、しかし確かに力が込められ、副団長は痛みに顔をしかめながら、不機嫌そうにそれを振り払った。


「――ふん。お前はまだ知らんかも知れんがな、騎士団の主導権は、もうこのワシが握っているのだ。上層部からも許可を得ている。この上は団長が土の中から蘇りでもせん限り、変えることはできまいて」

「とんだたぬきですわね。そうですか、貴方はそういう方でしたか」


 うら若き女騎士には、この老獪ろうかいな巨漢が、かつては厳しい、騎士らしい騎士のように映ってもいたのだ。

意見こそ対立する事が多いが、それでも参考にすべきところがいくつもある、歴戦の勇士だと思っていた中でこれである。

困惑より、幻滅の方が強くのしかかっていた。


「残念ですわ、副団長殿。私は、頑固とは思ってももう少しまともな方かと思ってましたのに!」

「ワシはまともさ。あの団長がイカレていただけだ。思えば、あの男を推挙した先代団長からして、戦狂いであった!」


 吐き捨てるように向けられた言葉に、副団長も苛立ちを覚えたのか、次第に語気を強める。


「いいかシルビア。貴様は自分が近衛隊長の娘だからと調子に乗っておるがな、ワシの下では親の威光など何の意味も成さんのだ! その事を良く覚えておくがいい!!」

「――っ! 私は、一度だって父の威光を振りかざしたことなどありませんわ!!」


 不意打ち気味に父の事をこの場に出され、シルビアは激昂する。

その様に、副団長は楽しげにせせら哂うのだ。


「くくく、その顔よ。その強気な顔がいつまで続くか楽しみだ。もうお前は隊長でも何でもない! ただの一兵卒なのだからな!!」

「くっ……」


 副団長の追い討ちに、しかし彼女はどうする事も出来ず、逃げるように館を出ることしか出来なかった。





「……はあ。私、一体何を」


 街を歩きながらに、シルビアはため息混じりにぽつり、呟く。

誇りに思っていた隊長職は解任され、騎士団は酷い有様となっていた。

対立こそすれまともだと思っていた上司が、実はとんだ下衆男であった。

副団長だけではない。

彼女が館に戻った時、多くの男性騎士達は彼女に向け、普段は向けないような、いやらしい視線を送っていた。

そして、少ないながらもいたはずの女性騎士の姿は一人も見られなくなっていた。

それに対して問うても、返答も何もなしに、露骨に自分の身体に触ろうとしてくる騎士達ばかり。


 ほんの二月ほど前まではこんな事はなかったはずだというのに。

騎士団長健在の際には、皆ピシリと引き締まり、己の仕事に忠実に、誇りを以って果たしていたはずだというのに。

そんな彼らの姿は、もうどこにも見られなかったのだ。

それが、シルビアにはどうしようもなく悲しい。


「――シルビア隊長?」


 そうして、街の中で声を掛けられる。

彼女より歳若い、ようやく大人になったくらいの娘であった。


「マルカ。マルカじゃないですか」


 ほんの二ヶ月前までは、ライオット隊長の下、鎧を着ていた娘であった。

懐かしさよりも、その様相に眼が向いてしまう。


「マルカ、貴方――」

「えへへ……任務の、途中で、負傷を――」


 杖をついてた。

左足が不自由なのか、ぷらぷらと揺れている。

それだけではない。両腕の長い袖からちらりと、白い包帯が見えていた。

なんとも痛々しい有様であった。

そればかりが目に付いてしまい、なんともいえない気持ちになる。


「……本当に、任務中の負傷なのですか?」


 しかし、そんなマルカの言葉を鵜呑みに出来るほど、シルビアは愚かではなかった。

彼女は知ってしまっていたのだ。

騎士団という組織が、もうどうしようもないほどに腐敗し始めてしまっている事を。


「……ほ、ほんとう、ですよ……? 本当に、ほんとに、にん、にんむ……ぐすっ」


 肩をつかみ顔を覗き込むと、必死に言い訳しようと、しかしそれが抑えきれなくなり、マルカはシルビアの胸へと崩れかかる。


「うっ、うぅっ――うあっ――」


 やがて、せき止められていたものが溢れ出て、声にならぬ声をあげ、泣き出してしまった。




「――落ち着きましたか?」


 シルビアの借りていた家の一室にて。

泣き出してしまったマルカをなだめながら、シルビアはその部屋へと招き入れ、それでも尚落ち着かぬ彼女を優しく抱きしめ、しばしの間じっとしていた。


「……は、はい。シルビア隊長には、ご迷惑を――わ、わたし……」


 先ほどよりは落ち着いてきたのか、なんとか話せるようになっていたマルカの薄青色の髪を撫でてやり、シルビアはマルカの眼を見つめた。

少し困ったように眉を下げていたが、大分心の余裕が生まれたように、シルビアには感じられた。


――今なら。


 そう思い、じ、と、マルカの顔を見つめる。


「話してくださいますか? 貴方に起きた事」


 ただならぬ事に巻き込まれたか、あるいはそれを見てしまったのか。

いずれにしろ、マルカの様子を見るに人通りの中で聞けるような話でも無いと判断してこの部屋に連れてきたのだが、マルカはしばし、逡巡しゅんじゅんを見せる。


「……無理には聞きませんわ。貴方の身に起きた事ですもの。話したくないなら――」

「い、いいえっ、聞いてくださいっ! 私っ、このままじゃいけないって、ずっと――」


 押しても無理なら、と引いてみたシルビアに乗り、マルカは覚悟を決め、見つめ返してくる。



「……始まりは、団長やシルビア隊長が旅立って、三日ほど経った頃でした。副団長の指示という事で捕り物に向かった団員達が、ロクに調査もせずにただ『怪しいから』と、強引にある商人の娘を連れてきて、尋問部屋に押し込んだのです」


 二人、ベッドに腰掛けながらに話が進む。


「たった三日で、風紀は乱れ始めてましたの……?」

「私、そんなのはおかしいからって、ライオット隊長に止めてもらうように言ったんです。そしたら――ライオット隊長は『それくらい許してやれ』って……」

「……その、連れ込まれた娘は?」

「しばらくの間、泣き叫ぶ声が聞こえていました。私や、他の女性騎士の人は尋問部屋に近づく事すらできなかったけれど……あれは、明らかに――」


 騎士にあるまじき、恥ずべき暴虐。

それを覚り、シルビアは目を閉じた。


「それだけじゃありません。すぐに他の娘が……いいえ、若い女性だけじゃなく、お金を持ってそうな人なんかは、次々に尋問部屋に連れて行かれました。そうして、心配して押しかけてきた家族の人達に『返して欲しければ保釈料を払え』って――」

「……」

「信じられますか? 副団長がそれを率先してやれって……ライオット隊長も、副団長も、皆、おかしくなってしまったかのようで、私、怖くなって――」


 ガタガタと震えるマルカに、シルビアは再びそっと優しく抱きしめ、落ち着かせようとする。

しかし、その震えが止まる事はなかった。


「貴方の、その怪我は?」

「私、他の女性騎士の方や、まともそうな人たちと一緒に抜けようとしてたんです。ラノマ・カノッソから出て、上手く、あそこで起きている事を王宮に報せないとって、そう思って……」


 抱きしめながらに質問を続けると、マルカは見上げるようにシルビアを見つめ、耳元で静かに囁くように答える。


「だけど、館から出ようとしても、いつも監視をつけられてしまって。だから、逃げようとしたんです。夜中、誰もいないときを狙って抜け出そうと――」


 そこで息を止め、そして、ぎゅ、と、シルビアの胸へと顔を埋める。

腰に回された腕がきつく締められていくのを感じて、シルビアは、その時の事を思い出そうとしてくれているこの娘の負担にならぬよう、そのままにさせていた。


「もう少しで準備が整おうとしていました。皆で一斉に逃げようって、そうやって決めて、その日の晩に決行するつもりだったんです。だけど――それは筒抜けでした。私、仲間に裏切られたんです」

「裏切り者が……?」

「チークです。私と同じくライオット隊だった。私、チークとは入団した時から仲が良かったと、そう思っていたのに……まさか、裏切られるなんて……!」

「……解りませんわ。もしかしたら、彼女は何か弱みを握られてしまったのかもしれませんし。元々裏切り者だったかもしれないけれど、もしかしたら」

「やめてくださいっ! 私を、私を陥れた奴のことなんて、擁護しないで!! あいつのせいで私はっ、私達がどれだけひどい目にあったか!!」


 慰めるつもりでかつての彼女の同僚を擁護しようとしていたシルビアであったが、それは逆効果だったらしく。

マルカは激昂し、シルビアの顔を下から睨み付ける。涙目であった。それでも、憎くて仕方がないとばかりに。


「……ごめんなさいマルカ。私、余計な事を」

「いえ……シルビア隊長は、何も悪くありませんから」


 しかし、その怒りもわずかの間。マルカは再び俯き、シルビアの胸へと埋もれていく。


「――私の足は、チークによって折られたんです。ハンマーで、骨が粉々になるまで潰されて。両腕の傷は、男性騎士達につけられた傷です」


 言いながら、袖の中の包帯をはらはらと解いていく。

そうして晒されたマルカの両の腕は、所々皮膚が破れ、また、焼かれたような後も散見された。


「あいつら、見世物にして楽しんでたんですよ。お酒のさかなにって。お酒を飲みながら、余興のように私の肌を焼いたんです……肌だけじゃありません。胸やお腹や――私、わたし、もう、お嫁にいけない……」


 堪え難い苦痛に、マルカは涙をぽろぽろ流しながらシルビアに抱きつく。

前々からコミュニケーションが過剰気味な娘だというのはシルビアも解っていたが、よほど苦しんだのだろうと思い、シルビアはそれをしっかりと抱きとめ、優しく手で包む。


「――大丈夫です。私が、私がきっと、貴方の仇は取りますから」

「シルビア隊長……」

「ほら、そんなに泣かないで。可愛らしい顔が台無しよ。大丈夫。女は肌だけではないわ。私がきっと、貴方が幸せになれるような、そんな素敵な旦那様を探して見せますから」

「うっ、うう……うーーーーーーーーーっ!!」


 その優しさがマルカには眩しすぎたのか。

溢れ出た涙は、それまでの鬱屈とした感情を洗い流すかのようにシルビアの胸を濡らしていく。


「もう……しょうがない子ね。大丈夫。大丈夫だから」


 シルビアはただ、マルカが泣くに任せていた。

そうする事しか、今の彼女にはできなかった。





「――酷いものですね。この街」


 泣きつかれたマルカが眠ってしまってから、シルビアは、家から出て軽く歩き回っていた。

あれだけ明るい表情で、活き活きと暮らしていた人々はどこへいったというのか。

皆どんよりと暗い表情。何かに追い詰められたかのように焦燥していて、苦しげで。

たったの二ヶ月。それだけの間に、どれほどの暴虐が起きたというのか。

住民に一々訊ねるまでも無い。荒廃しつつある街角を見れば解る。


「酷いものだろ? 腐った騎士団一つ、矯正しきれないまま放置した結果がこれだよ」


 胸に迫るものを感じながら帰路へとついていたシルビアの背に向け、しゃがれた声が一つ。

シルビアは、振り向きもせずその声に応じた。


「――ゲイザー隊長」


 騎士団においては、副団長と同じく最古参の騎士であった。

全く気付きもしなかったが、路地裏で、だらしがなく座り込んでいたのだ。

手には酒瓶。まるで物乞いのようないでたちで、かつての威厳など微塵も感じられぬ有様だった。


「貴方も、副団長やライオット隊長と同じなのですか?」

「……いや」


 その髭の壮年は、しかし気難しそうな顔を横に振り、黙りこくる。

シルビアに言葉を求めているのか。それとも、何かしら迷いがあるのか。

いずれにせよ、振り向いてしまったシルビアは歩き出す事も出来ぬままであった。


「情けないことだがな。ずっと昔から、騎士団はああいう・・・・体質のままであった。戦時中ですら、敵国の女性騎士や兵隊、村娘などは鬱憤を晴らすための道具にしていたくらいでな」


 ようやくゲイザーが口を開いたのは、いかほど経ってからか。

冷たい風が流れるようになり、あたりが闇に満ち始めた頃、話は再び始まる。


「先代の団長殿は、それを……?」

「先代の前から続いていた慣例だ。先代は、ずっと是正しようとしていた。だが、いざ行動に移すとなると、副団長が思いのほか邪魔でな。俺も、団長と共にあの狸を追い出そうとしたが……とうとう最後までそれは叶わなかった」

「何故ですか? 団長と古参の隊長が組んでなお、何故あの副団長が……」


 確かに長らく副団長を務めた歴戦の騎士として考えれば、あの副団長は相当の実力者であっても不思議ではなかったが。

それでも、人である限りは打倒できないのはおかしい、と思ってしまったのだ。

だが、ゲイザーは視線を王城へと向ける。

街からでも見える、遥か貴族街の中心。そこにそびえる王城が、途方もなく強大に映っていたのだ。


「あの狸は『国王派』だった。それも、当時の国王の熱烈なシンパだ。先代団長は戦争こそ肯定しても、国王のとる方針に対しては懐疑的だったからな。国王としては、自分の意のまま動く副団長がいなくなられては困るから、後ろ盾としてきっちり守っていたんだ」


 なんとも厄介な政治構造。

事態は、初めから騎士団内部のみの問題ではなく、騎士団長と国王という、権力間の睨みあいが関わっていたのだ。

これでは、是正等されるはずがない。

シルビアは、本日何度目かも解らぬ深いため息をついた。


「ですが、その先代国王はもう崩御されていますわ。今代の国王陛下は、むしろ先代国王の統治を否定するような采配を選択なさっていたと思いましたが……」


 シルビアが記憶する限り、今代の国王はかなり政治に関してははっきりと選択するほうで、先代と比べて効率や結果的に得られる益を優先するきらい・・・が強い。

それだけ人心が満たされるような工夫がされていて、国民の信頼も厚いのだ。

先代の時代とは、何もかもが違う。


「ああ、事情は変わった。確かに、あの狸にはもう後ろ盾はいねぇ。だが、今度の国王は『騎士団嫌い』と来た」

「騎士団嫌い……?」

「いつまでも自浄作用が期待できず、ただ税ばかりを無駄食いして威光ばかりを掲げて市民の脅威となる。そんな存在、いない方がマシと考えるのは、別におかしなことじゃないさ」


 お前だって今の騎士団を見ればそう思うだろ、と、立ち上がりながらに語る。

そうしてシルビアの正面に立ち、髭面の壮年は苦笑していた。


「今代の国王は、わざと騎士団を取り返しのつかないところまでいかせて、それを口実に、騎士団を潰したがってるんだろうな。だから放置するんだ。都合よく、騎士団を再生させようとしていた団長も死んだ。まともな奴らは駆逐されるか逃げ出すかして、残った団員の大半は腐った奴らばかりだ。市民からも既に数多くの声が挙がり、騎士団が潰れるのも時間の問題ときた」

「……貴方は、何をしているのですか?」


 副団長らのように汚職に手を染めていないとはいえ、それを傍観しているようにも見え、シルビアはゲイザーに疑念を向ける。

だが、ゲイザーはそれすら笑って流し、手に持った酒瓶を口に突っ込んだ。


「ぷはっ……悪い奴を見かければ懲らしめて、近衛隊に押し付けてる。今の俺達は、もうまともな捜査や警戒行為すらできねぇ。歩いてるだけで、市民が怯えた目で見てきやがる。市民を守っていた『騎士』は、もう死んだ」


 やってられん、と、飲み欲した酒瓶をひっくり返し、零れ落ちた最後の一滴を舌で受け止める。

たった二月。それだけで、シルビアの知っていたモノは、全てが覆されてしまっていた。

だが、そうは言っても諦めを受け入れきれない部分もあるのか、ゲイザーは幾分覚めた目でシルビアを見つめる。


「――シルビア。団長は、本当に死んじまったのかい?」

「……」

「聞かせてくれよ。おい。俺にゃ俄かに信じられん。本当に、死んじまったのか? あの、鬼の団長様が、よ」


 確かに、ゲイザーはやり手の騎士であった。

職務に関してはかなりきちんとしていた。

副団長と違い、シルビアも普通に会話を楽しめる程度には親しみを感じてもいた。だけれど。

だけれど、シルビアには、まだ彼が敵なのか味方なのかの区別がつかなかった。

今は、わずかな間違いが致命的な事態へと発展する状況。シルビアはそう判断していた。

ならば、団長健在・・・・という事実は隠さなくてはならなかった。


「……ええ、確かに。教団本部にて、ハインズと共に爆発に巻き込まれ――そのまま、息を引き取られましたわ」


 それでも迷った末。

詰め寄ってきたゲイザーから顔を背け、シルビアは嘘をつく。

途端、ゲイザーは消沈したようにその場にへたり込んでしまう。

彼にとっては、最後の希望が絶たれた瞬間だったのかもしれない。

そう思えばこそ、シルビアは胸を痛めたが。


「そうか……死んじまったのかあの団長。くそ、悔しいなあ。善い奴ほどあっという間に死んじまいやがる!! バレンシア、オルテガ! そして今度はレイバー団長まで死んだのかよ! くそっ、くそ、くそ!! なんて世の中だ!! 糞みたいな男しか残ってやしねぇ!!」


 わめき散らすように叫ぶゲイザーから離れるように、シルビアは歩き出す。

もう、聞くべき事は聞けた気がした。きっと、彼はまともな人間なのだろう、と。

現状を憂い、憤ることが出来るなら、彼はきっと、騎士にあるべく大切な人材なのだ。

それが分かったからこそ、今はまだこれ以上巻き込むこともできなかった。


「――私、負けませんわ。ゲイザー隊長、また」


 ならば。一人でもそういう者がいるなら、諦めるわけには行かない。

シルビアは決意を込めゲイザーに一言伝えると、自宅へと戻る足を速めた。


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