なんとも慣れた仕草で物陰に潜んで館の番兵をやり過ごしては、狙ったかのように誰も居ない庭を抜け、館の内部へ。
メイド達がおしゃべりながらに巡廻しているのを見ては、器用に物陰や死角を利用してこれを回避。
ひっそりと、館の主の寝室へと忍び込む。
「随分とあっさり侵入されたもんだわ。警備を考え直す必要があるかねえ」
寝室へと侵入した二人の前には、ネグリジェ姿の艶やかな女と、正装のままベッドに腰掛け、二人を見やっていた青年の姿。
「よくぞいらっしゃいました。僕は屋敷の主・ラーク。貴方がたの事はレミィ――いいえ、ルクレツィアから聞いています」
歓迎しますよ、と、爽やかに笑いながら、ラークはベッドから立ち、二人の間を抜けて部屋を出た。
「本当ならもっと時間を掛けてくるつもりだったのですが、思わぬ追っ手により、予定を切り上げなくてはいけなくなりまして」
無論、侵入したこの二人組は、クロウとフィアーである。
フィアーには馴染みのあるルクレツィアという女性がいるとの事で、この街、この貴族の館を頼ることにしていたのだ。
全てが落ち着くまでの旅の、その一時を過ごす潜伏先として。
今はラークと名乗ったこの若い貴族に案内してもらって、廊下を歩いていた。
「リフを介してわざわざ遠回りしてこの街かい。手紙は先に届いたけど、随分慎重な旅のようだねえ」
上着を羽織り、一応は貴族の妻のように見えなくもない
(あんたのツレ、結構良い男じゃないか)
(……はあ)
わざと周りにも聞こえるような声でフィアーに耳打ちするが、その悪い意味で変わっていないさまに、フィアーは早速ため息が出てしまっていた。
「貴方、まがりなりにも貴族の家に嫁いだのだから、もう少し品位というものを持ったらいかがです? 旦那さんに悪いと思わないのかしら」
旦那の目の前で他の男の容姿を褒めるなど、浮気心を疑われても仕方ないのではないかと、フィアーは呆れてしまっていた。
いくら元娼婦とはいえ、もう少し分別と言うのはつけたらどうなのかと。
「相変わらずお堅い妹ねぇ。そんなんだからいつまでたっても――」
「貴方が緩すぎるんです。私は普通です」
貴方の基準で考えないで、と、すまし顔でばっさり斬り捨てていた。
「……貴方がクロウさんですか。その、パステルの件、今更ながら、お礼を言わせてください」
「君があの娘の……そうか」
女達がかしましく騒ぐ中、先を進む男二人は並び歩き、神妙な面持ちで語り合っていた。
「本当は、僕自身がパステルを手に掛けなくてはいけなかったのです。ですが、僕にはどうしてもそれができなかった。苦しんでいた僕を、彼女が手を差し伸べてくれたのです」
ちら、と、後ろに視線を向けながら、ラークは口元を引き締め、またクロウを見た。
クロウはというと、その時の一件を思い出し「因果なものだな」と、複雑な物事の係わり合いというものを感じていた。
クロウが彼の依頼をこなしたことによって、結果的に先日のメルセリウス暗殺への繋がりが出来てしまった。
そしてそこから引き金となって、クロウとフィアーは街を出る羽目になってしまったのだから。
「君も、我々の側に入ったのだと、フィアーから聞いている。身内だからこそ言わせて貰うが、我々の仕事は、あくまで手を汚せない誰ぞかの為に代行するだけだ。目標を殺したのは、あくまでクライアントの殺意。これ以外は何もない」
それだけは忘れてくれるな、と、クロウは忠告する。
わずかな会話だけで、クロウにはもうこのラークの人と成りというものがある程度読めてしまっていた。
その中で、まだ自分がパステルを間接的に殺した、という自覚が乏しかったように感じられたのだ。
これが一般人ならばそれでもいい。だが、彼は同じ、後ろ暗い道に踏み込んでしまっている。
ならば、その常識とは正道とは異なる外道の常識でなくてはならないのだ。
だが、ラークはクロウの言葉に「ええ」と小声ながらに頷き、ぽつぽつと語る。
「ルクレツィアからも、厳しく言われました。自分では、自覚するようにしているつもりなんですが、中々――」
彼自身、そういった感覚はあったのだろう。
クロウの言葉を否定するでもなく、小さく俯き、辛そうに呟く姿からは、依頼を受けた当時にクロウが抱いた『ただの世間知らずの坊ちゃん』というイメージとは違い、相応に苦しんでいた様子が
「……いつか、時がそれを受け入れられるようにしてくれる。女が傍にいるのなら、そう遠い事ではないだろう」
それでも、このラークとっては幸いなことに、彼が心を許せる女性が傍にいてくれるのだ。
例えそれが彼をこの道に
「はい。彼女の為にも、僕もできる限り組織の役に立ちたいと思います」
そう力強く笑う彼は、クロウには幾分、眩しくも見えていた。
「こちらがお二人の部屋です。ルクレツィアから聞いた限り、お二人は結婚間近の恋人同士、というお話でしたので、ご一緒でもよろしかったですよね?」
そうして案内された部屋は、彼らの寝室同様さまざまなものが用意された贅沢なものであったが。
「……フィアー?」
何を考えてるんだあんたは、と、トゲの入り混じった視線を向けるクロウに、フィアーも真っ赤になって首を横に振っていた。ブンブンと。
彼女としては珍しくコミカルな仕草であったが、本当に知らなかったらしい。
「ルクレツィア。あくまで設定は設定、と言っておいたはずよね?」
何考えてるのあなたは、と、今度はフィアーがルクレツィアに抗議めいた視線を向ける。
「あら、そうだったかしら~? お姉ちゃん旦那様との夜に忙しくってすっかり忘れてたわ~ん♪」
当の本人はそしらぬ顔ですっとぼけていた。
そしてその誤魔化し文句に、ラークは頬を赤く染める。純情な青年だった。
「大体、普段だって恋人ごっこしてるんでしょ? 今更じゃない。どうせごっこ遊びが
「根拠も無く恐ろしいことを言わないでくれるか」
クロウから見て、フィアーは自身の上役以外の何者でもない。
フィアーから見たって同じはず、というのがクロウの考える『二人の立ち位置』であった。
「……ごっこはごっこだわ。悪ふざけが過ぎるようなら、もう少し予定を切り上げなくてはいけないかしら」
フィアーは凍てつくような冷たい雰囲気を全開にし、色を感じさせない瞳で冷たく微笑んでいた。
「う……」
哀れ、ただ一人耐性の無いラークは、その冷たすぎる威圧感に気圧され、背筋を震わせてしまう。
他人の殺気など直に受けたことの無い彼にとって、それは間違いなく、裏の世界の恐怖を感じさせるものだった。
「もう、ほんっとにいじり甲斐の無い。そんなんだからごっこから先に進まないのよ」
だが、そんな冷酷さすら感じさせる極寒の空気の中でも、ルクレツィアはあっけらかんとした様子で笑って済ませてしまう。
「進まなくて良いんです。そんな事より二人の寝室は分けてください。私はともかく、クロウは私が傍にいると落ち着かないようですから」
何故か責める様な視線をクロウにも向けながら、フィアーはため息混じりにラークに希望を伝える。
先程よりは殺気を仕舞い込みながら。
だが、必要とあらばいつでも表に出てきてしまうような、そんな危うさが今のフィアーにはあった。
「あ、はい……解りました。すぐにでも用意させます」
なんとか立ち直ったのか、ラークはぱちん、と指を鳴らす。
すると廊下にて控えていたメイドがそれを合図に現れる。
ラークが一言二言用件を伝えると、メイドは主の指示を果たすため、すぐさまその場から去っていった。
「便利ですねえ、あれ」
「ほんとそうなのよねえ。貴族様のお屋敷って楽過ぎて退屈で退屈で」
やる事なくって飽きちゃったわ、と、嫁入りした癖に好き放題のたまうルクレツィア。
「あなた……よくこんなのを妻に貰う気になりましたね? 貴族様なら相手なんて選び放題でしょうに」
「いやまあ、その……惚れた弱みですよ」
妻の奔放さには慣れてしまったのか、あるいは早々に覚悟が決まっていたのか。
呆れたように皮肉るフィアーには、笑って返すばかりであった。
「ふぅ……湯船に浸かるのは久しぶりだわ」
部屋分けが決まり、「疲れを癒すために風呂でもどうかしら」というルクレツィアからの勧めもあり、フィアーは一人、ゆったりとした浴槽に浸かっていた。
街では中々無いことである。
彼女がアジトとして使っているパン屋は、シャワーはあっても浴槽を使えるほど水に自由が無いし、当然、クロウの家などは貧民街に近い事もあり、近くの川で済ませるか、頑張っても公衆浴場を使うくらいであった。
それと比べれば、流石は貴族の屋敷である。
見た事の無い獣を模したオブジェからは、今もフィアーの白い小さな肩に温水が零れ落ち、それがなんとも心地よく、彼女の疲れを散らしていった。
「はぁ――いいわ」
自然、力が抜けていく。乙女の柔肌には、時折、こうした癒しが必要なのだ。
闇の中生きる彼女とて、まだ年頃の娘には違いないのだから。
ぴちゃぴちゃと湯船で水を跳ねさせ、顔に
緩やかな時間が流れ、乙女の肌は赤く上気してゆく。
「……恋人同士はないわよねぇ」
ぽそり呟くのは、先ほどのやりとりを思い出しての事だ。
解っていた事ながら、クロウは自分に対して何ら恋愛感情を持っていない。
自分も当然、クロウにそういった感情は持っていないつもりだが、はっきりとクロウに否定されたのだけがなんとなく腹立たしくもあり。
だからと、まかり間違ってそのような関係に落ち着いてしまったらどうなのか、と考えると、やはりそれはないと思えてくるのだ。
「はあ、この髪、この眼、肌の色。何一つとっても、私は母様と同じはずだけれど――」
彼女自身には解らない事ながらも、彼女の容姿を示す記号的な部分は、その多くが彼女の母親と似通っているらしい、と、親しい者に聞いた事があった。
年頃となった今、それらの特徴はより強くその母と結びつくのではないか、と、危惧も感じていたものの、そんなことは全く無く。
何より、それに一番に気付きそうな相手が全く気付く事なく自分を上役としか見ていない辺り、実は母と自分は全く似ていないのでは、と、複雑な気分にもなっていた。
「まあ、似ているからと欲情されても困るんだけど……」
どうしたものやら、と、少女らしく困っていた。
あの淫乱なルクレツィア辺りなら、例え相手が兄妹や近親者であっても構わず喰い散らかすのかもしれないけれど、と、その光景をなんとなしにイメージしてしまいながら、口元まで浸かってぶくぶくと泡立ててゆく。
「ああ、やっぱり娼婦はダメよ。身持ちの緩い女なんて、私のガラじゃない」
会う度に「お堅い」とルクレツィアに言われからかわれているが、フィアー的には少しくらい堅い方が良いと思っているのだ。
女は一途に限る。その方が、男ウケはいいはずなんだから、と。
「――何考えてるんだか」
いい加減にゆだってしまいそうなのを感じて、フィアーはそんな馬鹿げた思考をどこかへと放り投げ、湯船から立ち上がる。
気がつけば、白い肌は赤に染まっていた。
「湯加減はどうだったかしら? 少しばかり気を緩めてもらったところで、私達の方からのお願いがあるんだけど」
そうして風呂上りのフィアーを部屋で待っていたのは、他ならぬルクレツィアであった。
手には紙切れ一枚。ひらりと座っているベッドに落とし、立ち上がった。
「ゲストルームに勝手に入って、何をやっていたのやら」
「聞きたい?」
「……聞きたくない」
皮肉の一つも言えば、それを飲み込んだ上で返答に困るような言葉で返すのがルクレツィアという女であった。
少なくともフィアーにとってはそういう相手であり、数少ない、苦手な女であった。
「ま、つまらない前置きを続けるつもりも無いわ。今回の目標はこの街に住むパトス伯爵家のメイド『アリラン』よ」
フィアーがベッドまで戻り、腰掛けながらに紙を取るのと入れ替わりで、ルクレツィアはドア横の壁へともたれかかっていた。
「……メイド一人を殺すのに、クロウが仕事をする必要があるのかしら?」
「勿論。ただのメイドを意味も無く殺せなんてお願い、するつもりはないわ」
にや、と口元を歪めながら、ルクレツィアは肉付きの良い腰に手をあて、眼を細める。
先ほどまでのふざけた雰囲気はどこへやら。既に、場は『仕事をする為の空気』へと変わっていた。
「最近、我が夫ラークは、社交の場で度々嫌がらせを受けるようになったの。人前で恥をかかされたり、私の事をからかわれて、ラークを怒らせようと仕向けてきたり、ね」
「つまり、その相手を黙らせたい、と?」
「いっそ殺せれば楽なんだろうけど、相手も相手でねぇ。目標のメイドが仕えているパトス伯爵は、この街では一番の有力者。そして……その令嬢エリシアは、幼少の頃からラークに恋慕を抱いていたとかで――」
ここまでルクレツィアが話したのを聞き、フィアーは手を前に、首を大きく横に振っていた。
「――聞きたくないわ。そんな仕事
もう、この女の言いたいことが解ってしまったのだ。
ただの痴情のもつれ。あるいは
そんな事に暗殺者が動くのはどうなのか、と。
いや、それも赤の他人なら状況によりけりだろうが、身内がそれを依頼するというのは情けなさすぎはしないかと考えたのだ。
「あら、身内の苦労は一緒に背負い込むのが、ギルドの在り方ってもんじゃないのかしら?」
「確かに苦楽を共にする、というのは在り方としてはあるけれど。貴方達のそれは、私達が動く必要があるようには感じられないわ」
あくまで受けさせようとするルクレツィアと、それを拒もうとするフィアー。
主張は真逆でも、その顔は自然、同じような表情になっていた。
口元を薄く開き、眼を細めて薄ら笑い。顔の造りに差はあれど、良く似た笑顔であった。
「ではもう一つ、理由らしいものを付け加えてあげるわ」
フィアーが譲る気が無いのを悟り、ルクレツィアは一旦視線を逸らし、すまし顔になる。
「パトス伯爵は、『改革』の際、当事の王の側近だった男よ。改革に加わった者達を片っ端から処刑させたのも、この男の言うところが大きい」
「……それが、何の意味が」
改革に参加した者の処刑に関わった人物。
それが、わずかばかりフィアーの表情を崩した。
心に動揺が見られたのを、ルクレツィアは見透かしていた。
「そんな男の娘がのうのうと生きてるのに、あんたはこんな所で暗殺者なんかやってる。
「私は、今の生活、結構気に入っていますよ? 何より、仕事であるなら私の私情なんて関係ないはずです」
「あんたって、表に出したくない事語る時はいつも敬語で話すの。本心を隠すためにそうしてるんだろうけど、私にはバレバレ」
いい加減直しなさい、と、浮いた口調とは裏腹に真面目な顔で、その驚く顔を見つめていた。
咄嗟に口元を隠すフィアー。だが、もう遅すぎた。
「私もそうだけどさ。改革なんて無ければ、宰相の娘として、少しは品のある人生が送れたかもしれない。ま、あたしには娼婦の方がお気に入りだったけどね。貴族様のままでも、まあ、きっと色んな男と寝て父の名を汚すばかりだったかもしれないか」
「勝手に家出してて偶然助かった貴方なんかと一緒にしないで。私は貴方と違う。私は私です」
「でもエリス。姉妹として暮らした私だから解るわ。あんたは、我慢しすぎてる。本当はもっと、復讐したいんじゃないの? 昔ならいざ知らず、今のあんたならそれくらいは可能なのだから」
もっと好きに生きれば良いのに、と、残念そうに呟く。
そこには
「私は、貴方の言葉にただ頷くような浅はかな女じゃないわ。まして、マスターやロッカード兄さんのように復讐しか生きる術を見出せていない訳でもない。私はただ、
俯くように静かにそれだけ語り、フィアーはベッドから立ち上がり、歩き出す。
「――殺すのは、メイドでいいのね?」
部屋から出ようと、ドアに手を掛け、そのまま立ち止まって一言。
振り向きもせず、壁際のルクレツィアに確認を取る。
「ええ。メイドだけで十分だわ。親友が死ねば、いくら頭のおかしくなったお嬢様でもいくらかは落ち込むでしょうから。その隙があれば、私がそこに入り込むのは
歳若い娘を手玉に取るのなんて余裕よ、と、ルクレツィアはせせら笑う。
経験の乏しい貴族の子女など、娼婦として様々な相手を見てきた彼女からすれば、まさしく障害ですらない玩具となる。
フィアーもそれが解ってか、不満げに歯を噛みながら振り向いてしまう。
「やっぱり私、貴方は嫌いだわ。頭も身体も緩すぎる。しかも性格まで悪い」
「そう? やっぱり私達気が合うのね」
心底憎たらしそうに一目睨みつけてから部屋を出るフィアーに対し、ルクレツィアはニコニコとした笑顔でその背を見やっていた。
こうして、客として過ごすためのささやかな依頼がクロウに押し付けられ、相手方の屋敷の警戒が薄かった事もあり、その晩のうちにエリシア嬢付きのメイド・アリランは殺される事となった。
パトス伯爵はこれ以前にも改革の関係人物が何者かによって殺されていったのを知っていた事もあり、この一件を次の目標を自分に定めた事の通告と思い込み、街を巻き込んだ大規模な警戒態勢を敷く。
娘のエリシアは酷く落ち込んだが、対立していたはずのラークの妻・ルクレツィアによってなだめられ、また、ラーク自身も命を狙われているのだというパトスに協力を申し込んだため、街を治める二大貴族が協力関係になり、大きな派閥がここに形勢されていった。