秋のはじめ頃は、街をうろつくには丁度良い頃合であった。
街全体は祭の準備がもうそろそろ始まるかという頃でそわそわしはじめ、ちらほらと行商や旅芸人の一団の到着が見られるようになる。
こうした時になんとなしにでも散歩をすると、様々な人間の一面が見られるのだ。
暑い夏をしのぎ、ようやく過ごし易くなってきたこの時期、若い娘もただの薄着をやめ、ようやく色気のある服を着始めるようになり、男達の心がざわめき始める。
そうかと思えばその若い娘達は旅の二枚目役者などに黄色い声をあげたり、行商の並べる異国の品に目を輝かせたりと忙しい。
夏から秋にかけての実りは店の棚を鮮やかに彩り、街の暮らしをより豊かなものであると感じさせてくれる。
この時期に採れるタニムの赤い実は果実酒の材料としてとても有用で、酒好きな亭主の為か、年配の主婦が真剣にその実の鮮やかさを見比べていたりもする。
人々のそんな様をぼんやり眺めながら「平和になったもんだ」とそれをかみ締めるのが、ベルクの最近の日課であった。
昼過ぎ、陽も昇りきり鐘が一つ鳴った辺りで、ベルクは中央通り沿いにある食堂へと顔を出していた。
「おや、よくきたね」
最近
ベルクの顔を見、店主の中年親父がゴシップを畳み、にかりと笑う。
「なんとなく気が向いてな」
店を見渡しながら、適当な席に着く。
小さな店内、昼を過ぎた所為か、客はベルク一人だった。
おかげで今日も楽しめそうだ、と、自然、口元が緩む。
「ちょいと前までは忙しくて相手してらんなかったけどよ、こういう時間を狙ってくるんだから兄さんは分かってやがるぜ」
何が嬉しいのか、親父は豪快に笑いながらベルクの前にドン、と木のコップを置いていった。
コップの中身は水、それから――
「氷が入ってるじゃないか。サービス満点だな」
「だろ? 本当ならこれだけで金を取るところだがな。兄さんは常連だからサービスさ」
行き届いてるだろう? と口元をにぃ、と歪める親父。
「違いない。ああ、冷えてて美味いな……」
口に含みながら、ベルクはその味わい、甘さにうっとりする。
「親父、コロニア鳥のソテーが食いたいな。黒パンと芋のスープもな」
そうしてひとしきり楽しんだ後、料理の注文をするのだ。
「あいよ」
ベルクの反応が嬉しかったのか、満足げに頷きながら、親父は店の奥へと引っ込む。
初めは、なんとなしにふらっと入った店であった。
店主は無愛想な顔をして、メニューらしきものもなく不案内に感じたのだが、入った以上は、と、ベルクも椅子に腰掛け、思いついたままに適当に注文をしてみたのだ。
親父は難しい顔をしたが、ベルクがそしらぬ顔をしているのを見るや、先ほどと同じように店の奥に入り、そして出てきたときには注文どおりの料理を見せてきた。
この辺りではあまり見かけない香辛料をたっぷりと使った魚のソテーだ。
味も抜群で、ベルクは一気に気に入ってしまった。
それからは、気が向いたら通うようにしていたのだ。
食事時こそフィアーが来るかもしれないので外せないが、そのおかげもあってか、大体は彼以外に客が居ないか、居てもすぐに帰っていくような抜群のタイミングで顔を出せた。
毎回のように適当に思いついた料理を注文し、それを決して外さずに出してくる親父。
無愛想ながら腕は確か。まるで裏の自分達のようだと、妙な親近感を感じてしまったのもあった。
今回の注文は、それ自体はそんなに難易度が高いものではない。
コロニア鳥なんてものは空を見ればいつでも飛んでるようなもので、市場に行けば一山いくらで売られているポピュラーな鳥肉だ。
パンもスープもとりたてて特徴の無い定番のメニューだが。
だからこそ、その腕の良さが光るのではないかと、ベルクは考えたのだ。
「ほらよ」
果たして時間が経ち、親父から自信ありげに出された料理は、湯気からしてベルクの想像を超えた品となっていた。
まず、ソテーの匂いが違う。
「親父……この匂いはまさか――」
「おうよ。クロツネの葉っぱに包んで焼いた。毒消しにリンゴの実をすりつぶしたのを入れてな」
クロツネとはその強毒で知られる薬草である。
それによって死ぬ事は無いが、口に含めば一週間の間腹を壊したり吐き気に襲われたりする。
場合によっては眼の神経がやられたりする事もあるというのだから恐ろしい。
ただ、その香りはとても優しく、お香の材料として役立てたり、毒の排他性の強い性質からか湿布薬の原料として人々の暮らしの役に立っている。
「……リンゴと一緒に焼くと毒が消えるのか?」
「おうよ。火が通るとかなり弱まる。更にリンゴは毒消しとして有用だからな。それに、匂いがすごく良いんだ。お互いが高めあってくれる」
クロツネと聞いて冷や汗をかいたベルクであったが、親父の博識ぶりには思わず感心してしまう。
多少の恐れはもはや忘れ、フォークでコロニアの身を突き刺しそのままかぶりつく。
行儀は悪いが、店内に充満していくこの香りに、ベルクは抑え切れなかったのだ。
「むぐ――」
味わう間もない。舌の上に乗っただけでびくりと震えがきた。
驚きに眼を見開くベルクに、親父は楽しげに「ふふん」と鼻を鳴らす。
「甘いだろ? そしてこうも感じたはずだ。『鼻がつーんとする』ってな」
「んぐ……うむ。なんか、この、急に突き抜けたようなものがあって……だが、美味いなこれは!」
癖になりそうな舌先の痺れを感じながら、ベルクはその味わいのまま、パンを千切って口に含む。
「黒パンもいい酸っぱさだ。料理に合わせて焼いたのか?」
「焼いた肉ってのは甘くしたほうがパンに合う。そして、甘い肉に一番合うのが黒パン。何故かって言ったら酸っぱいからだ。俺はこの黄金比を作るために日夜研究を重ねてたからな。パン一つとったって宮廷料理人にも負けねぇよ」
「おぉ……」
実力に裏打ちされた自信であった。ベルクも思わず拍手してしまう。
「へへっ、やめてくんなよ。さっさと食ってくれ」
親父は照れくさそうに笑いながら後ろ手に頭を掻き、先を促していた。
確かに、つまらない事をして冷ますのは勿体無い絶品であった。
テーブルの上に乗っているのはどこの酒場にでもありそうなありきたりなもののはずなのに、ベルクにはもう、高級食材に彩られたフルコースすらかすむほどの逸品に見えていた。
「むぐ――はぁ。いいなあこれは……」
それらを一口放り込むだけでため息が出てしまう。
しばらくの間、この感動は忘れられそうになかった。
「――という事があってだな。中々に素晴らしい腕を持った料理人がいたものだと、感心させられたのだ」
夜。朝のうちに釣ったパゾの煮込みをロッキーに振舞いながら、正面に座り、ベルクは機嫌よさげにその店の事を語って聞かせていた。
「その店なら知ってるぜ。なんでもあの親父は元々は宮廷料理人の師匠だったとか、いやいや
店主の親父についての噂に、ベルクは「ほう」と、興味深げに小さく頷いていた。
「あれだけの料理を即興で作れるんだ。相応に顔も広いだろうし、そういう噂が本当だったとしても不思議ではないな」
態度こそ大雑把な親父だったが、その料理のいずれにも繊細な
「あのソテー、それに黒パン。いや、スープも素晴らしかったのだ。ロッキー、金に余裕があるなら一度は行ってみるといいぞ」
「うーん……まあ、そうだな。ベルクさんがそんなにお勧めするなら今度顔出してみるか。でもベルクさん、他はともかく、あんまパンを褒めるのは――」
「うん?」
機嫌よく勧めていたベルクであったが、あからさまに具合の悪そうな顔をするロッキーが不思議で、首を傾げる。
「パンがどうかしたんです?」
そして、いつの間にかベルクの背後にはエリーが立っていた。
満面の笑みで、嫌味一つ無く可愛らしく首を傾げていた。丁度ベルクと同じように。
「……いつから?」
「ついさっき。ベルクさんが親父の話をしはじめた辺りからかな……すまん、あんまり機嫌よく話してたから、気づかないようなら別に良いかなあって」
固まるベルク。頬をぽりぽり掻きながら居心地悪そうに苦笑するロッキー。色々と詰んでいた。
「うふふっ、ベルクさんは、その親父さんのパンが大好きなんですか? 気に入ったんですか? 私はもう要らない子なんですか?」
当のエリーは、にこやかあに微笑みながら冷たい空気を放っていた。
秋になったとはいえ冷えすぎはしないか。ベルクは頬を伝う汗を隠せずにいた。
「いや、待ってくれエリー。私は別に――」
「さて、俺はもう帰ることにするわ。ごっそさん」
言い訳を聞かせようとしたベルク。
いつの間に食べ終えたのか、ロッキーは皿の上を空にしてそそくさと逃げるように去っていった。というか逃げた。
残されたのはベルクとエリーの二人だけである。
この空間、とても恐ろしいものとなっていた。
「……」
「……」
唐突に第三者の居なくなったこの場で、どのように接するべきなのか。
判断に迷いクロウが視線を逸らしていると、フィアーはクロウの正面に座ってしまう。
ベッドではなく、椅子にだ。
「まあ、そんなに他の人のパンが気に入ったなら、別に私が焼いてくる必要はないですかね」
ふう、とため息をつきながらそっぽを向いてしまう。
どうにも、さっきのクロウの一言が気に入らなかったらしい。
「というか、いつも持ってくるパンは本当にあんたが焼いてたのか?」
「当たり前じゃないですか。何を今更」
クロウが驚き顔を見ていると「バカなんですか?」と、冷めた視線を返され、苦笑いしてしまう。
「てっきり他の誰かが焼いたのを適当に持ってきたものと……」
「私は、
「約束?」
「ほら、必要なさそう。もういいですよ。帰ります」
ぷい、と、視線を逸らし、席を立ってしまう。
「仕事の用があって来たんじゃないのか?」
「勿論そうでしたが、気が変わりました。いいですもう」
最後に大きく息をつき、出て行ってしまう。
いつもの『恋人のエリー』すら演じず、不機嫌そのままに。
「……何だったんだ?」
雰囲気からして何かしらヒステリックに理不尽の一つでもぶつけられるものと思っていたクロウだったが、特に何事もなく去っていったフィアーにはクエスチョンしか浮かばない。
しばし首を傾げていたが、いつの間にかベッドの上に置かれていたバスケットに気づいた。
いつもフィアーが持ち込んでくる『仕事』用の道具入れで、依頼遂行に必要な物品や報酬の金貨袋など、様々なものが入っているものだが。
それとは別に、パンを入れてきてクロウに差し入れしたりもするので、何かと謎も多かった。
「今日は何が入ってるんだろうな……」
閉じられたバスケットを興味本位で開くと、中には小さめのパンが三つばかり。
どれも普通のパン屋ではあまり見ない星型で、フィアーのセンスが伺える代物であった。
「……」
折角持ってきたのだから、と、一つ手に取りそのままかぶりつく。
「甘い――」
表面はさっくりとしていながら、中心部はくにゃりとすぐに噛み切れてしまう。
しかしその中心部こそが強い甘みを出していた。
クロウはつい、噛み切ったパンを横から見てしまう。
「ジャムか……? それにしては白いな」
パンの中に何かが入っている事も驚きだが、この謎の白いクリーム状の何かが甘さの正体だと理解し、二口目を頬張る。
「うむ。悪くない」
頷きながらも呟きは止まらない。
フィアーの持ってくるパンというのはいつもはバゲットだのブールだののテーブルパンばかりだったが、こういった甘いものなら食後のデザートとしてもアリなのではないかと思えたのだ。
もしかしたら新作なりが出来てそれを自分に食べさせようとしたのかもしれないと思い至り、そこまで考えてようやく、フィアーが帰ってしまった理由が理解できた気になっていた。
フィアーらしからぬと言えばそうなのだが、面白くなかったのだろう、と。
「別に、このパンだって悪くないのにな」
一つ食べ終え「そんな事で
クロウはバスケットに手を伸ばし、次の一つを頬張った。
その夜は、秋にしてはなんとも寒々しいものであった。
雲はまばらに美しい丸月を魅せるが、風の強さがそのようなものを愉しむ余裕を奪っていく。
今宵、道を歩くは、
腰ほどまでの長い赤髪を風に揺れるに任せ、夜の街を往く。
「思いのほか来るのが早いねぇ。もう三日四日は待ってくれると思ったんだが」
彼女がその『店』の裏口に手をかけたその時であった。
丁度それを見やるように、背後から声が響いたのだ。
「――まさか、私が気配を悟られるなんて」
歪に微笑みながら振り返るフィアーの前には、今回の目標となる中年男が立っていた。
右手には
「まあ、もぐりの殺し屋なんてのは、これくらいには気が回らなきゃいけねぇ。ここら辺が組織に属する奴らとの違いって奴だな」
「そんなに変わらないですよ。貴方達も、私達も」
そうしてフィアーは、なんとも緩慢な動作で長い髪を掻き分ける。
きら、と月光に髪留めが反射し、わずかばかり目標の気を逸らした。
「おぉ、怖いな」
刹那、男は身体をわずかに動かし、飛んできた毒針をかわしてみせる。
余裕たっぷりの表情であった。
「組織に属さないのが惜しいくらいの勘のよさですね」
これにはフィアーも眉をひそめ、皮肉たっぷりに言葉を投げつける。
今までの相手なら今のは完全に不意打ちとなったはずで、例えば先日|片付けた
《・・・・》ペタの街のカルトなどはこの初撃に気づきもせず、抵抗一つさせぬままに殲滅したものだが。
どうやらその程度ではこの男には通用しそうに無い事も、それとなく察してしまえていた。
「勘なんかじゃねぇよ。お前さんの筋肉の動き、わずかな視線の流れ、空気の脈動。それと『匂い』か。色んな要因が合わさって、殺すための動作が生まれるもんだ」
これが解らんとなあ、と、得意げに語る中年男。
「……なるほど。これは手ごわい」
軽口を言い合うのもここまでらしかった。
相手の言う所の『殺すための動作』とやらに、フィアーも気づいたのだ。
鉈はただの見せかけに過ぎない。左手が一瞬ぶれたのが見えていた。
「――ふんっ!!」
一気に詰め寄り、それまで隠し持っていたガラス片を突き出してくる。
フィアーはこれをかがんでかわし、そのままの姿勢から右に跳んだ。
「ふはっ、お前も『見える』のか!? なら、ご丁寧に講釈垂れてやったのはちょっとお恥ずかしかったかなぁ!」
「はっ――そんな動きで私を捕らえられるものですかっ」
狭い路地の中、器用に建物の壁を蹴って男の後ろへと回り込む。
そうして袖裏に隠し持っていたナイフで一閃――これは鉈で防がれてしまった。
ギリギリとした鉄の舐め合う音。
「確かに速いが、力では男の俺には遠く及ばんな。
こうして受けられては、少女に過ぎないフィアーには不利であった。
だが、それでも敢えてその姿勢を維持する。
次第に押される。押されながら……ある瞬間に、一気に身を引いたのだ。
「く――……いぇゃぁぁぁぁぁっ!」
そして、ナイフごと鉈を斜めへと払いのけ、回転の力を利用して回し蹴りを放った。
「むぉっ!?」
見事に決まる。かかとが首裏に入り、男は大きくバランスを崩してしまっていた。
(これで――)
距離を離す好機とみて、男から飛び退く。
……しかし、そこで予想外がおきてしまった。
「――ぷぁっ!?」
突如頭上から落ちてきた布袋が鼻先に当たり、もわもわとした煙が辺りに充満していく。
「けふっ――ちゅんっ!! かっ、ひっ――あ、ああっ――っちゅん!」
突然の事に驚いた次の瞬間には煙に眼が潰され、鼻には激痛とむずがゆさが襲い掛かった。
たまらず飛び退いたフィアーだったが、壁際に置かれていた樽に激突し、そのままバランスを崩してしまう。
(こ、これは……うぐ、眼と、鼻が……)
「ふふん。これが時間差攻撃って奴だ。ブーツのかかとにナイフでも仕込んでれば、さっきので俺を殺せたのになあ」
煙る中、惜しかったな、と、にやけながら大鉈をフィアーに向け振り上げ――叩き付けた。
「――よく動く。とんだ腕利きだな」
「はあっ――はあっ――くぅっ」
フィアーは涙溢れ定まらない視界を手で覆いながら、わずかな感覚のみを頼りに鉈の一撃を回避していた。
「だが、これでしばらくあんたの眼と鼻はまともに動かんはずだ。俺の故郷では割とよく使われる『
ふらつきながらなんとか体制を立て直そうとするフィアーだったが、更に投げ込まれた袋が空中でばらけると、その中身がフィアーの鼻先まで飛び散っていった。
「ふ――ふぐっ!?」
なんとか眼を隠しそれを耐えるフィアー。
直後に突き出されたガラス片と鉈の連続攻撃もナイフで弾きながら凌ぎきる。
だが、反撃もままならない。
五感の内二つが潰され、狭い路地で逃げ回る事すらできない。
体勢を立て直す前にまた同じように胡椒袋が飛んでくれば、その効果は延々持続するのだ。
それでも尚、フィアーは逃げなかった。いや、逃げる必要が無かった。
「――む、な、なんだ――?」
幾度目か、鉈を振りあげようとした男の動きがぴたりと止まってしまった。
「はぁっ……ようやく効いたみたいだわ。鈍感な男ですね」
真っ赤になった眼で睨みつけながら、フィアーは鼻を指先でつまみながら息をつく。
「まさか――いつの間に、お前――」
自分の身体が動かない理由に気づいた時には、彼はもう取り返しのつかないことになっていた。
どっと溢れる冷や汗。フィアーは口元を歪め哂っていた。
「――モグリじゃあるまいし。
とんとん、とつま先を叩くと、わずかばかりかかとが月光に光る。
眼にも留まらぬ様な微細な針が、そこには生えていたのだ。
「弄ぶつもりでしたか? 貴方のような快楽殺人犯と『私達』暗殺者とでは、そもそもこの辺りが違うのです」
グシグシと涙溢れるままの眼元を拭いながら、手に持った針の一本を上に、一秒。
その間に男が流した汗は一体いかほどか。
既に彼は、身動き一つとれぬほどの絶望的な痺れに支配されていた。
「俺は――俺は快楽殺人犯なんかじゃ――俺はただの料――」
「――料理人の振りをした、ただの人殺しでしょう? やすらかに眠りなさいな。きっと次の明日は良き世界が待っていますから」
絶叫めいてあげた声は、しかし最後まで続く事は無く。
さくりと、気道を狙った針の一撃が喉深くまで刺さり――その毒によって、男は絶命した。
血の一滴も浴びず、流さずの勝利であった。
血の気の失せた男の青い顔を見やりながら、フィアーは鼻をくしゅりと指先で揺らし、そのまま音も無く去っていった。
「……なんでだ」
翌日。ロッキーから『あの店の親父』が殺されたと聞き、ベルクは
辺りには人だかり。
騎士達が野次馬を睨みつけながら大きめの布袋を運び込んでいたのを目にしてしまう。
丁度人一人分が入る袋。何が入っているかを理解するのは、彼には容易かった。
「あの親父が、一体何をしたっていうんだ……?」
信じられぬとばかりに口から出た言葉に、隣に立っていた主婦が眉を下げながら話す。
「お兄さん、知り合いだったのかい? なんでもあの親父さん、物盗りとはちあわせちまったみたいだよ? 鉈だか斧だかで邪魔しようとして殺されちまったんだろうって、騎士様がさあ」
「……物盗りが? そんな事ってあるのか……?」
死体の状態が見られない以上は何とも言えないが、少なくとも周囲にはそう伝わっているのだ。
だが、だとしても信じられなかった。
昨日まで元気だった、抜群の腕を振るってくれていたあの親父が死んだのだ。
あんまりにも唐突過ぎやしないかと、歯を噛みその理不尽を飲み込めずにいた。
「いい親父さんだったのにねえ。惜しい人を亡くしちまったよ」
「あの店の酒は絶品揃いだったのになあ。もったいねぇ」
周りで一緒になって眺めていた野次馬たちも、親父の死を心底残念がっているようだったが、そんなものはベルクの耳には入らず。
しばしぼんやり、帰る際にも足取りも不確かなままであった。
「お帰りなさい」
落胆しながらも家に戻った彼を待っていたのは、妙に機嫌のよさげなフィアーであった。
テーブルの上には出来立てらしく湯気が立つ鳥肉のソテー。それからポテトのスープと白パン。
「何の用だ?」
やるせなさの中、ぼんやりと用件を問うたクロウであったが、フィアーは小さく息をつき、自分の正面に手を差し促す。
話すより先にまずは席に着け、という事らしい。
「……」
そのままでは話も進まないものと感じ、素直に席に着くクロウ。フィアーも嬉しそうにその前に腰かける。
「貴方がなぜそんなに落ち込んでいるのかは知りませんが、仕事の話をする前に食事でもして落ち着いては?」
何か面倒ごとでも話すのかと思いきや、まずフィアーの口から出たのは、そんな気遣いであった。
温かなのは料理だけでなく、身にまとう雰囲気も異なっている。まるで
だが、クロウはそんな彼女の『見透かしたような笑顔』が気に食わない。
「あんたは、私が何故こんな気分になっているのかも解ってそうだが?」
皮肉りながら、フォークを手に取り乱暴に突き刺した。
そのままかぶりつき、香辛の欠片も感じさせない肉の塊を無理矢理に飲み込む。
「――ふん。見た目はともかく、味は酷いもんだ。これなら私が作ったほうがよほどマシになる」
それは、言うほどにひどい味ではなかった。
この街では当たり前に感じられる塩だけで味付けされた素朴な味わいで、血抜きも丁寧で臭みはなく、ハーブのやんわりとした風味が鼻先をくすぐる。肉の味だってしっかり引き立てられていた。
甘みなど全くないが、それが普通なのだ。
皿ごと口に当て、熱いままのスープを構わず流し込む。
ポテトのザラつき、熱さが舌と口内を刺激するが、クロウはろくに味わわずに飲み下す。
「スープだってろくなもんじゃない。煮詰めすぎだ。沸騰させたんだろう。その所為で舌触りが最悪だ」
味については言及しなかった。何も否定すべきところが無いのだ。
「パンだって……くそ。何も言えん」
自分が言いがかりに過ぎない言葉しか向けられないのを、クロウはとっくに自覚していた。
そんなクロウを見やりながら、フィアーは頬杖をついて笑っていたのだ。
「パンは?」
「――俺にどうしろというのだ」
悔しくなってそっぽを向いてしまう。
「さあ。グルメな貴方の為に美味しいパンを焼いてくれるのは、もうこの世には私しかいませんね」
フィアーは得意げに「ふふん」と鼻を鳴らす。
「まあ、本当に貴方が必要ないと感じたなら、そう伝えてくれれば『恋人エリー』は二度とはパンを届けに来ませんけどね。その場合、貴方にはわざわざ教会の方まで来てもらうことになるけれど――」
「……どうでもいいさ。ああ、落ち着いた」
――やはり、この女は何を考えているのか解らない。
何が楽しいのか微笑んでばかりいるフィアーに半ば呆れながら、ため息をつきながら、クロウは頭を軽く振る。
「何の用事なんだ?」
「ふふ、では貴方にお仕事の話をしましょう。とびっきり難易度の高いものです。余計な事なんて考えられないくらいですから、心して聞きなさい?」
満足げに席を立ち、定位置のベッドへと移動して座りなおすフィアー。
その妙なこだわりと変わった空気の緩さに違和感を感じながらも、クロウは仕事の依頼を受けることにしたのだった。