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#12.月下の逢瀬

 それは、静かな夜であった。

月が照らし星が輝く明るい夜。

このような夜の出会いが、特別でないはずがなかった。


 森の中にある巨大な屋敷。

そのバルコニーでは今、美しい赤髪の乙女が一人、優雅に佇んでいた。

月明かりを背に受け、一面の緑に映えたバルコニーの縁に手を置きながら。

夜には溶け込めぬ青い瞳は何を想ってか遠くを見つめ、小さく揺れる。


「今夜も、来てくれるのかしら――会いたいわ」


 頬をかすかに紅く染めながら、小さく吐息しながら、乙女はぽつり、一人ごちる。

乙女の生糸の如き繊細な髪が、風に揺れていた。






「なあ知ってるかベルクさん。ルコの町の近くで、なんかでかい事件が起きたって噂になってるんだけどさ――」


 その日、ロッキーが彼の元に訪れたのは、もう間も無く夜か、という頃であった。

ロッキーは時折生活に窮して食事にありつこうと色んな家に上がりこんでは食事にありつこうとするのだが、今回もどうやらそちらがメインらしく。

いつものように噂話なぞを口にして上がりこんではきたものの、視線はかまどの上の調理鍋に向きっぱなしである。


「……それで?」

「今夜の食事はいつもより豪勢っぽいな?」


 既に噂話などどうでもよさそうであった。ベルクもつい苦笑してしまう。


「マリネの店に行ったら珍しいものが売っててな。気が向いたんだ」


 木の柄杓で鍋の中身をかき混ぜながら、興味ありありなロッキーに説明。

本日のベルクはとても上機嫌であった。理由は鍋の中身にある。


「珍しいものってなんだ?」

「パララッカっていう香辛料さ。肉料理に良く合うんだがこの辺ではあまり出回ってなくてな――」


 今、かまどの上の鍋はパララッカの黄色で満たされている。

ぐつぐつと煮える中にはぶつ切りになったウサギ肉と人参、それから芋が震えている。

火が通るほどに鼻にツン、と来る香り、これがたまらないのだと、ベルクは身を震わせる。


「なんか、鼻がむずむずするんだけど……」

「これがパララッカの香りだ。好き嫌いは分かれるが私はこれが好きなんだ」


 鼻を押さえるロッキー。ベルクは気にせず鍋に塩と胡椒を振り掛ける。

この国では香辛料や香料の類はあまり重視されておらず、このような料理は極めて珍しいと言えた。

実際、ロッキーも目を白黒させながら鍋から目を離せずにいる。


「まあ、見た目はあまり良くないが味は抜群のはずだ。一度食べてみると良い」


 軽く味を見て問題なしと判断し、完成とした。

木の器に盛り付け、勝手にテーブルについてパンをかじっているロッキーの前に置いていく。


「うわ、くせっ」

「癖になる臭いだぞ。いいから食べてみろ」


 一口食えば文句を言う気もなくなるだろう、と、自信ありげに笑いながら、自分の分も器に盛り、テーブルに腰掛けた。




「――おかわりだ!!」


 そしてロッキーは瞬く間のうちに食べ終え、図々しくも二杯目を要求してきた。


「美味いだろう?」

「ああ、美味いぜ。久しぶりにピリッと来たっていうか――何か美味いもの食ってる気がした!」


 ベルク的にも、自分の料理が褒められるのはそう悪いものではなかった。

この街の住民には馴染みの薄い香辛料だが、認められたのが嬉しかったというのもある。

自然口元をにやけさせながら、ロッキーの器を手に取り、立ち上がる。


「それで?」


 さっきと同じくらいの量を入れてやりながら、ベルクは話を戻そうとする。


「それでって?」

「さっきの話だよ。ルコの町の近くで何が起きたって?」


 一応、彼としても気になることは気になっていたのだ。

ロッキーが持ってくる噂話というのは中々馬鹿にならない位にタイムリーだったりする事が多々ある。

大体は街の中の話に限られるが、時たまこうやって街から離れた場所の噂なんかを口にする事もあり、その情報源には謎が多かった。


「ほら、ルコの町って、近くにそのあたりの領主やってる貴族様が住んでるだろ? その領主館で、なんでも人が死んだとか噂が立ってて」

「ほう」

「そこの領主ってのがまた、戦時中に裏で盗賊とツルんでたりしてた結構な悪党らしくてさ。『死んだのが領主様ならいいのに』って、町の方じゃ住民がこぞって陰口叩いてたんだとよ」


 なんとも酷い話であった。

住民の信望を失った領主とはこうまでぼろくそに言われるものなのかと、ベルクも思わず噴出しそうになっていたが。


「話はそれで終わりなのか?」


 とりあえず、容器をロッキーの前に置いてやりながら水を飲み、話の続きを促すのだ。


「いや、それが妙なところでさ。貴族様って言ったって人が死んだら大事になるわけだろ? 実際町には噂として広まってた訳で。だけど、結局誰が死んだとかは解らないし、死んだからって喪に服したりとかはしないみたいなんだよな」

「教会にも話が行ってないって事か?」


 通常、人が死ぬか、死にそうな状況では医者よりも先に教会に声が掛かる。

そうして死んだ時には素晴らしき次の明日に往けるよう、教会にて神父が祈りを込め葬儀を指揮するのが習わしだ。

これに関しては平民も貴族も規模の違いこそあれ基本的には同じはずで、教会という存在は人々の生活に深く根付いているものであった。

だが、ロッキーは首を横に振る。


「行ってないらしいぜ。いや、俺も御者のお姉さんから聞いただけだからほんとのところは解んないけどな」


 人が死んだのに教会が動いていない。

実際のところはロッキーにも解らないらしいのでなんとも言えないが、ベルクから見ても色々と気になる点は多くなっていた。


「……なんとも、不思議だらけな事件だな」

「ああ、そうだな。だからベルクさんに聞かせようと思ってきたんだよ。好きだろ? こういう話」


 話の合間に芋やら肉やらを口に放り込みながら、ロッキーはベルクの様子を見ていた。


「まあ、気になるところは多いし、当面の暇つぶしにはよさそうだがね」


 どうにも、ロッキー視点ではベルクは、こういった変わった事件が好きな、推理好きな男のように映っていたらしい。

そういう風に見られていたのか、と、内心では意外に感じながらも、ベルクは話をあわせていった。





「いやあすまないねぇクロウ君。また来てもらっちゃったよ」


 ルコの町から続く街道沿いの廃教会。

賊の住処にでもなってそうな古びたそこで、クロウは『幽霊神父』と再会していた。

ギルドからの仕事である。

フィアーによりここに赴くように指示され、辿り付くや否や高い声での歓迎であった。

とは言っても実際には神父の姿はどこにもない。声ばかりが礼拝堂の中響いていた。


「相変わらず不気味な仕立て屋だな。姿くらい見せてくれてもよさそうなものを」

「いやあごめんねぇ。僕ってほら、見た目と違って結構照れ屋なもんでさぁ。あ、君からは僕の姿は見えないかー、はははっ、失礼失礼」


 何が楽しいのかハイテンション。勝手につまらないことを言って勝手に笑い声を響かせるこの神父に、クロウは早くも疲れ始めていた。


「……私は『仕事』の話だと思ってきたのだが。暇な『仕立て屋』の雑談に付き合ってやれば報酬が出るのか?」

「いやごめんごめん。仕事の話は簡単だよ。ルコの町外れにある領主館。知ってるよね? 最近事件が起きたっていう」


 その軽薄な調子の声にはいい加減苛立ってもいたが、ようやく本来の筋に戻ったと感じ、クロウも耳を傾ける事にした。


「君には、そこに住まう領主令嬢『エリーゼ』を始末して欲しい」

「目標の特徴は?」

「とても美しい、腰下まで届く長い赤髪、このあたりではそう見られない青い瞳――まあ、誰でも振り向いてしまうような、目の醒める様な美人さんだよ。ここの礼拝堂の女神像よりは、領民の人気もある」


 言われてなんとなしに奥に立つ女神像を見てしまう。

かつては神々しく美しかったであろう女神像だが、今ではカビており、蜘蛛の巣まで張っていた。


「こんな女神像じゃそこらのパン屋の娘より人気が出ないと思うがな」


 なんとなしに自分の上役を思い出しながら苦笑してみせる。


「ハハハッ、今の言葉、フィアーには言わないでおいてあげるよ。それより、今回の仕事には特別な条件がある。君ならまあ、簡単にこなせる程度のものだけどさ」

「聞こうか」


 仕事に関する条件は、それがどんなものであれきっちりとこなせなければならない。

うっかりで達成できなければそれは失敗と見なされる。

だが、クロウにとってそれは、ただ殺すよりは『仕事っぽく』感じられるので、条件付けそのものは嫌ではなかった。


「条件その一。必ず目標以外の存在には察知されないように『仕事』をこなす事」

「まあ、それ位なら何の問題もないな」


 隠密、潜行は暗殺者の仕事としては基本と言ってもいい。

原則足がつかないように仕事にこなさねばならないのだから当然なのだが、どちらかというとわざわざこれを説明する事に違和感を感じていた。


「条件その二。必ず『目標』と対面し、彼女の同意を得て仕事を果たす事」

「……なに?」


 違和感の正体はすぐに明かされた。

その訳の解らなさに、クロウは思わず間抜けな顔をしてしまっていた。


「ククク――ははははっ、いいね、その顔。ボク好きだよそういうのっ! いやーいいもの見せてもらった。そういうのがあるからクロウ君好きだなー」


 勝手に爆笑している幽霊神父に苛立ちを覚えながらも、クロウは神父が答えてくれるのを待つ。


「くくっ、まあ、困惑するのも解るよ。目標に相対して『貴方を殺しても良いですか?』なんて聞けないもんね普通は。『ええ、よろしくてよ』なんて答えてくれる訳ないもんね普通は」

「……その条件に対して内訳を聞くのが後になるのは仕方ないが。その二つの条件を踏まえて、何か情報はないのか?」


 どう考えてもおかしいように感じたが、それでも条件は条件である。

果たすために何がしか耳に入れておくべき話があるのではないかと、姿を見せぬままの神父に問うた。


「今回の依頼だけど、君にとって有利に働いている話が二つある。一つ目は、領主館は今、警備体制に穴が空きつつある、という事」

「事件の噂を聞く限り、むしろ警備体制が強固になっていてもおかしくないはずだが?」

「普通ならそのはずなんだけどね。『何故か』今、領主館の警備体制はかなり手薄になっている。警備兵の常駐人数は半分以下になっているし、夜間なんかは数名で見回りをしている程度だ」


 本来、領主館というものはその土地において最も堅牢・堅固なものである。

賊や敵国の侵攻、時として民衆の反乱などから身を守るため、領主は常に自身の館を多数の私兵で固めている。

近年では大分治安も改善されているが、地方レベルではまだまだ賊が跋扈ばっこしているところもあり、多くの領主は警戒心を解いてはいなかった。


 だが、今回の目標の住まう領主館はこれがない。

領主の警戒心が薄すぎるのか、それとも『何か』があったのか。

クロウは疑念を感じ、神父の言葉を待つ。


「もう一つ。『目標』エリーゼを殺すにあたって、何も初対面で同意を求めなくちゃいけない、という制約は存在しない事」

「……なるほどな。期限は?」

「今日から五日後の夜までだ。今夜も含めれば六日間だね。花束の準備は良いかい? 必要ならタキシードも用意しよう。勿論、君が若く美しい女性を口説くことに関しては、フィアーには黙っていてあげるよ?」


 先ほどのお返しとばかりにフィアーの名を挙げてくる神父であったが、クロウは無表情のままであった。

顎に手をやり、先を考え始める。


「タキシードも花束も要らん。だが一つだけ用意してもらいたいものがある」

「何なりと。楽しい結果を期待しているよ、クロウ君?」


 声だけでもう、ニヤニヤと口元を歪めているのが想像できてしまう。

クロウは一言、神父に向け呟き、そして教会を去っていった。





 物思いの中バルコニーに佇む娘の背後に、黒い影が現れた。

影はゆったりと娘に近づき……そして振り向いた娘の前で立ち止まる。

優雅な仕草でかしずき、片手を差し出す。

いでたちこそは彼が『仕事』をする際の衣装そのものであった。

だが、今の彼はその身に血の臭いを感じさせず、身繕いは清潔であった。


「こんばんは暗殺者さん。今夜もまた会えましたね?」


 その手に自身の手を置きながら、赤髪の娘は影に向け笑いかけた。


「こんばんはお嬢様。今宵もまた、貴方の顔を見に来てしまった」


 顔も隠さず、声も潜ませず。

影は、クロウは、この領主令嬢エリーゼの前でのみ、自身が暗殺者である事を隠さずにいたのだ。


「貴方はいつも突然に現れるのですね。私、今夜はいつ来てくれるのかと、随分と待ってしまったわ」


 ご丁寧にも用意されていたティーテーブルへと誘われ、クロウとエリーゼは互いに対面して座っていた。

カップの中に揺れる琥珀色はとても上品な香りが漂い、春の暖かな風が、柔らかな湯気を夜へ溶かしてゆく。


「少しくらい焦らした方が、会えた時に君をより強く揺り動かせるのではないかと、そう考えたのだ」

「まあ、いけない人。意地悪だわ」


 クロウの軽口に、くすくすと口元を押さえ上品に笑い出す。

なんとも清楚な、それでいて異性を惹き付ける仕草であった。


「でも、貴方のお話はとても楽しいわ。初めて会った時はとても驚いたけれど、悪い人には見えないし」

「誰がどう見ても怪しい暗殺者だがな」


 初対面の際も驚きこそすれ、エリーゼはクロウの事で騒ぎ立てたり、人を呼ぼうとはしなかった。

エリーゼの人柄とモノの好み、それから大雑把ながら過去の動向を神父から聞いていたクロウは、その性質から分析し、賭けではなく確信によってそのような手段に出たのだが。

実際問題、エリーゼの興味は大いに惹けたらしく、翌日以降、こうして現れても普通に接してくれるようになっていた。


「他の人がどう思ってではないわ。私が悪い人ではないと思ったから、貴方はきっと悪い人ではありません」


 すまし顔で、エリーゼはカップを口元に近づけ、紅茶の香りを楽しむ。


「『改革』のお話を、もっと聞きたいわ。戦争が終わってすぐ後、この国で起きようとし、そして失敗した悲劇。これを主導した人のお話を」

「人づての話だ。そんなに面白いものでもないと思ったが。君は変わっているね?」

「よく言われましたわ。ええ。領民からも、お父様からも」


 眉を下げ苦笑い。だが、彼女のこの趣味も、クロウには解ってのことだった。


 現状を嫌い、未来に期待して『今と違う何か』を求める。

そういった嗜好・思想を待つ貴族は、決して少ない訳ではない。

他の貴族と似たような凝り固まった価値観を共有しなければならない彼女たちは、常に閉塞感に満ち、退屈この上ない日々を送っている。

これを壊してくれる『何か』をこいねがい、それが目の前にあったなら。

そう、クロウは彼女に『それ』を与えたのだ。非日常というスパイスを。

暗殺者との邂逅かいこうという、普通に暮らしていたのでは得られない刺激を。


「私、改革については噂程度にしか聞いたことがありませんの。学者の先生も口をつぐむばかりで。きっと、『知られては困る』歴史なのでしょうね」

「この国にとっては永遠になかったことにしたい『負の歴史』だろうな。だが、君の耳にも入るように、決して隠しきれるものではない。歴史とは、存外意外なところから他所へと漏れ伝わるものなのだ」


 なかったことにはではきない、この国の歴史。

クロウはその一部を、エリーゼに雑談代わりに聞かせていた。

それはどんな美しい宝石の話より、どんな愛らしい花の話よりも彼女を惹きつける、『最適な話』であった。



「昨日の続きから話そうか。改革を主導しようとした『近衛騎士ガイスト』は、御用商人ベイカー、そして時の第一王子リヒターと協力し、ある計画を実行に移そうとした」


 一通り紅茶の味を愉しんだ後、クロウはカップをテーブルへ、『改革』の授業を始めた。


「ある計画とは……?」


 エリーゼも興味深げにクロウを見つめていた。

月明かりの中、鮮やかな青色が輝く。


「商業の自由化。商人ギルド傘下を除く一定以上の規模の商人を制約する国による認可制を廃止し、規模に関係なく自由に国と国を行き来できるようにするための政治工作だ」

「交易が自由にできるというなら、国が栄える基礎にもできますわね」

「元々商人ギルドや大領主の御用達による寡占かせんが酷く発展が阻害されがちだった地方も、これによってある程度解放できると考えたのだ。実際問題、小規模領主や商人ギルドに所属していない在野の商人達は賛同していた」


 寡占が酷くなれば需要と供給のバランスは一部の商人たちによって握られ、価格と流通のバランスは彼らの都合で動くようになってしまう。

これではいけないのだと、クロウは皿の上のシナモンスティックを琥珀色の中へと入れ、ぐるぐるかき混ぜる。


「政務を取り仕切る宰相を民が為と説得した。これはリヒター王子の協力なしには不可能ともいえたが、この成功によって次への糸口が見え始めた」

「次の、糸口ですか?」

「宰相の協力を取り付けたことによって、政権そのものの転覆が可能になった。無能な王を引きずり降ろし、リヒター王子を王に据える事ができる、と、王を脅すことが出来たんだ」

「クーデターを材料に、王に要求を呑ませることに成功したのですね?」


 このお嬢様はとても賢い。学に乏しい娘ならばこれだけでは何度聞いても理解できないだろうが、聞かされたことだけですぐに状況を想像し、飲み込むことができたのだ。

おかげでクロウも話していて無駄な気を遣う事無く、変な話楽しく・・・話せてしまっていた。


「ああ。結果としてこれは上手くいった。商人ギルドの妨害もあったが、ガイスト達はこれに屈したりはせず、むしろこれにより王に現状を理解させたのだ。『このまま奴らを野放しにすると、いずれ国を食い破られますぞ』と。そこで、彼らの真の目的がはっきりと表に出始めるんだ」


 スティックを再び受け皿へと戻し、カップに唇をつける。


「まだまだ先があった、という事ですか? それは一体――」


 もったいぶった風を装っているからか、エリーゼは目を輝かせながらも、そわそわと落ち着きなく続きを促す。


「商人ギルド、とりわけ国家に一番大きく関わってくる『マドリス商会』を排斥すること。それが、彼らの、いや、ガイストの一番の目的だった」


 こちらは叶わなかったがな、と、自嘲気味に笑いながら、クロウは席を立つ。


「今日のお話はここまでだ。あまり長居すると、人が来るかもしれないからな」

そう言いながらわざと音を上げながら歩き出し、バルコニーの縁へと立つ。


「――待ってください!」


 しかし、その背に向け、あわてたように駆け寄る音。

とん、と、軽い衝撃。

同時に後ろから抱き締められたのが、背を向けたままのクロウにも伝わっていた。


「もっと、ここにいてください。私ともっとお喋りしてください。ずっと待っていたのです。会いたくて――」


 背に当たる温かな感触。

腰に回される手にそっと手をあて、優しく剥がしてゆく。


「……っ」


 彼が振り向くと、不安げな顔で見上げてくるエリーゼがいた。


「私は暗殺者だ」

「知っていましたわ。暗殺者を見るのは、貴方が初めてではないもの」


 彼女がクロウを見て驚かなかったのは、過去にもそれを、その『仕事』を見たことがあるから。

そうして彼女は、それを知っていたのだ。


「お父様は、悪い方でした。善くない者達と親交を結び、多くの民を苦しめ抜いて、罪の無い若い娘を手篭めにし……沢山の人を泣かせていたのです」

「だから、暗殺者に殺された?」

「私が依頼しました。例え父と言えど、そのような者を領主に据えておくことは許されないと。耐えかねて――」


 それは、日常を変えたかった彼女の『改革』であった。

苦しむ民の姿を見たくなかった。ただそれだけの為に、父を排斥するために選んだのだ。


「私は、貴方がたが悪い方のように見えません。欲望ではなく、私たち依頼者の心を代行してくれている貴方がたを、悪だなどとは思えませんでした」

「人の欲望も代行するさ。欲にまみれた商人の依頼を受けたこともある。私の手は、決して綺麗なものではない」


 人に認められる仕事ではない自覚はあった。

人を殺すことを生業とするのだから、さげすまれても仕方ないのだと理解していた。

だが、今自分を認めてくれるこの娘に、クロウはわずかばかり、情が揺らぎもした。


「それでもいいのです。私は、もう一度貴方がたと会いたかった。会ってお喋りをしたかったのです。一度、一度だけ、と――」


 一瞬だけ、困ったような顔で俯くも、またすぐに顔を上げ、クロウへと抱きつく。


「――最初は、お話しているだけで楽しいと思っていました。二日目には明日も顔を見たいと思っていました」


 赤い髪を振り乱し、顔をこすり付けるように胸に押し付けてくるエリーゼの頭を、クロウは優しく撫でてやっていた。


「三日経ち、昼にも貴方の顔ばかりが浮かんで。四日目には、貴方に会いたくて仕方なくなっていました。そして今夜、貴方が中々来てくれなくて――私、ただそれだけのことで泣いてしまいそうに――っ」


 顔を上げた彼女に、クロウは膝を折り、そっとその口元に自身の口元を合わせた。

驚き見開かれた瞳とクロウの瞳とが間近になり、やがて、エリーゼは目を閉じた。


「殿方にこんなに簡単に惹かれてしまうなんて、思いもしませんでした」


 うっとりとしながら、エリーゼはクロウの胸に抱きつく。


「お嬢様」

「エリーゼと呼んでください」

「エリーゼ。私は暗殺者だ」

「ええ、知っていますわ」

「私は君を殺さなくてはならない」

「知っています。解っています」


 そう、彼女はそれを知っている。理解している。

暗殺者が何度も自分の前に姿を見せる。その理由を、彼女は知っている。


「――だけど、知りたかったのです」


 解っていながら、それでも彼女は惹かれてしまった。

――暗殺者という存在に。


「貴方の名前を教えてください」

「君の耳に入れられるような名は持ち合わせていない」

「お願いです。私にも、貴方の名前を呼ばせてっ」


 彼女は必死であった。後一日。それが解っていたから。


「――クロウだ」


 だから、クロウも聞かせた。自身の『今の名』を。


「クロウさん」

「ああ」


 やっと聞けたそれを感慨深げに呟き。そしてクロウが言葉を返してくれたことに、エリーゼは喜んでいた。

華の様に明るくなってゆくその表情に、クロウも温まるものを感じてしまう。


「また、会えますか?」

「約束は出来ないな」


 しばし抱き締めあった後、どちらともなく離れ、再び言葉を交わす。


「いつまででも待ちますわ」

「もし次に会うことがあったなら。私は君を――殺すことになると思うが」

「構いません。最後に会えるのが貴方なら。私は、それでいいと思っています」


 決意を込めたような、力のこもった瞳であった。

エリーゼは、クロウによって与えられる『死』を受け入れていた。

恐らくは今までも、それは可能なのだろうと頭では解りながら。


「解った。また来よう」


 だが、ここで殺してしまうのはあまりにも哀れだと、わずかばかりの同情。心のやるせなさにより、クロウはその場を去っていった。

今宵まで、クロウは人の子。血の通った人間であった。






「やあやあ、お仕事ご苦労サマ」


 後日。

廃教会にて、心疲れたように佇むクロウに、高めの男の声がねぎらいの言葉を向ける。

心底鬱陶しく感じながらも、今は賑わいの方が癒しとも感じられた。

だからか、クロウはその声の主に怒りをぶつけたりはせず、ただただ話すに任せている。


「一応、ボクには仕事を終えた『職人』に対し、内訳を説明する義務がある訳だけど。今説明する必要、あるかい?」

「要らん。もう知ってる。解ってる」


 何故目標がエリーゼだったのか。何故殺すにあたって彼女本人の了解を得る必要があったのか。

そんな疑問は、彼女と接している内に、彼女を見ているうちに、とっくにクロウには解っていたのだ。


「彼女もまた、こちら側の世界に引きずり込まれた一人だった。それだけだ」

「そうだねぇ。偶然にしろ意図的にしろ、暗殺者の『仕事』を見てしまった。彼女は、君たちのその生き様、全てを一太刀で変えるその所業に惹かれてしまった。興味が、湧いてしまったんだろうね」


 好奇心は猫をも殺す。エリーゼは、自覚しながらも猫でいることをやめられなかったのだ。


「――自殺の依頼を遂げる羽目になるとは思わなかった。最期のとき、彼女は笑っていたのだ。『死ぬ時はこうなるのね』と、笑っていた」

「なら、幸せだったんだと思うけどね。ボクはその場にいた訳じゃないし、彼女本人の気持ちは彼女にしか解らないだろうけど」

「だが、だからこそ、考えさせられる部分も多かった。私達が一般の者に対し与えてしまう影響の強さを。そして、仕事という名目で『あちら』へと送る事の重さを」


 クロウの手に掛かったエリーゼは、ただの一度も悲鳴を挙げず、ただの一言も恨み言を漏らさず、ただただ、愛したその男の手で死ぬことを拒まなかった。

例えそれが自分で選んだ最期だったとしても、例え依頼が彼女によるものだったとしても。

それでも、殺した本人であるクロウにとって、ただそうだったと飲み込むには苦しすぎる重みがあった。


 弄んだつもりはない。仕事の為とはいえ、殺すために口説いたという前提こそあれ、本気で彼女が心惹かれその無理難題を受け入れるよう、短期間でその心を解く為にあらゆる演出を考えたつもりであった。

日ごろ彼がフィアーとやっている恋人ごっこなどとは比にもならぬ本気がそこにはあった。

そしてその本気が、彼を今悩ませている。


「――興味が湧いたからと、ただそれだけで、人は自分の殺害を依頼するものなのだろうか?」


 結局、クロウには彼女の心は理解できないままであった。

自分に惹かれたと言ってくれたエリーゼの本心が、最後のその時まで読み取れなかったのだ。


「どうだろうねぇ。貴族の娘さんって、割と本当に下らないことに本気出しちゃったりする事もあるみたいだし? でも、君の疑問を晴らすために、彼女の行動を君に理解できる程度にこじつけることはボクにも可能だよ?」

「……聞こうか」


 おちゃらけた風にも聞こえるそれだが、ただ一人で考え続けるのも嫌で、クロウは耳を傾けた。

今は、慰めが欲しかったのだ。多少鬱陶しかろうと、紛らわしになる何かが聞きたかった。


「エリーゼは、かつて暗殺ギルドに自分の父親を殺すように依頼していた。実際問題父親は暗殺者の手によって殺され、しかもそれを表ざたに出来ないエリーゼは父の死をひたかくしにするしかなかった」

「罪悪感か……」

「勿論君、というより暗殺者に対しての興味もあったのだろう。けれど、人の子である以上、親殺しの罪悪感というのも生半可ではないだろうからねぇ。自分の心に押し潰されそうになっていたのかもしれないよ?」


 それを正当化するため、暗殺者に興味を持ち始めていた自分を肯定したのだとしたら。

なるほど、確かにエリーゼの行動にもある程度納得ができるかもしれない、と、クロウは小さく頷いた。


「まあ、あまり深く考えないことだ。君は彼女を幸せな気持ちのまま死なせることが出来た。だから、君は自身の『仕事』を誇るべきだ」

「私は、自分の仕事に責任を持つことはあっても、誇るようなことはした覚えは無い」


 幽霊神父の言葉に心地よさを感じながらも、しかしクロウは首を横に振り、流されまいと抗う。


「君がそれで良いなら良いけどね。報酬だけど、そこの女神像の後ろに置いてある。確認したら、もう帰ってもいいよ」


 さほど残念そうでもなく話を片付ける神父。

クロウも言われた通り女神像に近づき、その後ろに置かれた革袋を懐に収める。

そのまま立ち去ろうとしたクロウであったが――


「そういえば聞き忘れてたけどさ、君が用意してくれって言ってた『改革の資料』って、何に使ったんだい? プレゼント?」


 自分で帰って良いと言った直後にこれである。

クロウは口元を歪めながら、ぴたりと足を止め、そのまま返す。


「歴史の確認の為さ。実際に見たものと、後世のそれとではまるで違うかもしれなかったからな」

「なるほど」


 これ以上は何もあるまいと、そのまま歩き出す。

今度は止める声も無く、クロウはそのまま教会の外へ。


 朝陽はとても眩しく、空にうっすらと残る月は白く消えようとしていた。

あまりの眩しさに目元が緩む。

掌で強くこすりながら過ぎ去った日々を頭の隅へと追いやり、クロウは街へと帰っていった――


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