世界は、黒に満ちていた。
明かりの消えた街。星の光らぬ空。
雲隠れした月は何も照らさず、全てを影に包み隠す。
平穏な夜も黒である。これは柔らかく、人の心を静かに癒す。
だが、今宵、この男の周りにある黒は、刺す様な、ピリピリとした空気を纏っていた。
「ここか」
ぽそり、誰に聞かれるでもなく呟く。
それは街の一角。近年
身の丈の三つ周りほどもある高い塀に囲まれ、正面の門には中々に屈強そうな門番が立っていたのが遠目に見えた。
周囲を見渡すに通りがかる人影はなく、門の周り以外には明かりも全て消えていた。
シン、と静まり返っている。物音一つ立てることも許されぬ。
男は、塀の影に身をしまいこみ、即座に衣服を脱ぎ捨てる。
旅の剣士風を装ったその出で立ちは、瞬く間に身軽な黒の装束へと変貌していた。
余計なものは身につけず、腰元には短剣が一本。これさえあれば事は足りた。
剣士の仮装時に纏っていた衣服を手に巻き、携帯していた剣を柄ごと屋敷の塀に立てかける。
そして、一度、二度、柄に足を掛け踏ん張るような動きをし……一気に跳んだ。
音もなく、指先が塀の隅に掛かる。
そのままぐい、とよじ登り、塀の上に立った。
(……よし)
声には出さないが、少しだけ頬を緩め、何かに頷く。
そのまま、ちらりと塀の先を見る。
さほど厳重とも思えぬ造り。見張りも居るにはいるが、あまり警戒しているとは言えない。
これは楽な仕事だなと思い、そのまま静かに屋敷の内側へと降り立つ。
この豪商の屋敷は、思いのほか手薄で侵入も容易であった。
かねてより頭に入れてあった図面どおり、屋敷の中へと入り込む。
すぐに目的の部屋へとたどり着く。
やや警戒気味に入るが、時刻も遅い為か、目標は既に寝入っているらしかった。
ふてぶてしい面をした太った中年男だった。幸せそうに涎を垂らしながら、女の胸の上で眠っている。
「よき次の明日を、な」
静かに呟き、ギルドの約束事を果たす。
――殺す者にも慈悲を。
短剣を上に、自分の顔の前にかざし、一秒。
そして短剣を下に向け――突き刺した。
事は一瞬で終わる。
黒の世界は赤に染まった。これにてお役目は完了となる。
男はそのまま、務めて何事も無かったかのように静かに部屋を後にした。
恐らくはそう掛からず、自分の上に乗った男の異変に気付いた女が騒ぎ、騒動となるだろう、と。
後の事を考えほくそ笑みながら。
男はまた、静かに闇の中に溶けて消えていったのだ。
「知ってるかいベルクさん、あの豪商トーマスが、何者かに殺されちまったんだってよ」
翌朝。
家でのんびり朝食をとっていた彼の元に、近所に住まう自称勇者のロッキーが訪れた。
「そうなのか? いや、私は今起きたばかりだから知らなかったな」
ベルク、というのは便宜上の名前である。実際とは違うのだが、彼は面倒ごとを避けるためにこの名を使っていた。
そのベルクであるが、陽の高いうちは人殺しの風など見せず、街で暮らす貧乏剣士を装っている。
当然、そんな『殺人事件』の話なんて知らないフリをしなければならない。
「まあそりゃそうだよな。でもよーすごいんだぜ。喉元を短剣でぷすりだってよ。他には傷らしい傷もないらしい。いつ、どこから侵入したのかも解からないんだとよ」
「……それは怖いな」
その犯人は彼なのだが、彼自身、こうも騒がれると照れくさくもなってしまった。
別に自分のやってる事に何か感傷を持ったつもりもないのだが、仕事を褒められれば嬉しいのは人の性ではなかろうか。
「騎士団も色々犯人探しに躍起になってるらしいけど、難しい話だよなあ」
「頑張って欲しいものだ。そんなのがうろうろしてたら怖くて寝てられないからな」
そう、騎士団は頑張らなければならない。
証拠から動機集めから色々方々を駆け回って、なんとか犯人を見つけなければならないはずだ。
だが、それは見つからない。そんな証拠など何処にも無いからだ。
無いものは無い。だから、きっと諦めるか、ともすれば全く関係ないだれぞかを犯人にでっちあげるかもしれない。
まあ、それは関係のない話だった。仕事なんだから、精々頑張れば良い、と。ベルクは考える。
「ま、俺やベルクさんが同じ奴に狙われる事なんてないだろうけどな。トーマスって荒稼ぎしまくってた所為で色んなところから恨み買いまくってたって言うし」
「なら安心だな。それに私達の家に来たって盗むものなんて何もないし、強盗にあう事もないだろう」
「違いねぇや」
ははは、と、あっけらかんと笑うロッキー。ベルクもそれに倣い、共に笑う。
「人間、やっぱ清く正しく生きなきゃいけないんだよな。悪い事やって金稼いだって仕方ねぇんだ。こういう所で天罰が下っちまう」
「そうだな。出来る限り、人から恨みを買わないように生きたいものだ」
ひとしきり笑い、ずず、と、器の中の麦粥を飲み干す。食べ終わった。
それからロッキーと雑談などしていると、こんこんこん、と、家のドアがノックする音が聞こえた。
勝手に入ってきたロッキーを見れば解かるが、こんな貧乏な家のドアをいちいちノックする者は近所にはいない。お客様だ。
ベルクはとりあえず立ち上がり、ドアノブに手を伸ばす。鍵は最初から掛かっていなかった。
ギィ、と鈍い音を立て、ドアが開く。
ドア前には若い街娘が一人。
この辺りでは特にかわいいと評判のパン屋の看板娘エリーだ。
「あの、お兄さん、おはようございます」
ベルクの顔を見るや、ニコニコと微笑む。可愛らしい笑顔であった。
胸元には小さめのバスケットが大切そうに抱えられていた。
「ああ、おはよう」
後ろから客人の顔を見ようと寄ってくるロッキーを気にしながら、ベルクも挨拶を返した。
「あれ、エリーちゃんじゃん。おはよー」
「勇者さん。おはようございます」
よくある事だ。
彼女がたまにここにくるのはロッキーも知っていたし、ロッキーがよくここにいる事はエリーも知っていた。
二人がかちあう事は、そう珍しいことではなかった。
「ま、邪魔しちゃ悪いから帰るわ、またな」
「む……ああ、また」
そして、鉢合わせになった場合、ロッキーが気を利かせて帰るのもいつもの事だった。
近所では、時々ベルクの家に来るエリーはベルクにとっての『可愛い人』という認識なのだ。
「ふふっ、気を利かせてくれたんでしょうか?」
「そのようだね」
実際、エリーはこうした場合、とても可愛らしく、歳相応に振舞う。
近所の人達に対し、あたかもそうであるかのような態度を見せるのだ。
「じゃあ、お邪魔しますね」
「ああ」
そのままの流れで自然に部屋へと入ってくる。
奥に入っていく彼女と入れ違いに入り口に立ったベルクは、周囲を確認し、ドアを締めた。鍵までかけて。
そして、彼女を見た。
「お疲れ様でした『クロウ』。今回のお仕事、つつがなく果たせたようですね」
そこには、街娘エリーの姿は無かった。
今、彼の前でベッドに腰掛けているのは、ギルドの女幹部『フィアー』。
暗殺ギルドの窓口とも言える存在で、彼に仕事を回してくる仲介人『仕立て屋』の一人でもあった。
「当然だ。あの位の仕事は出来て当たり前だろう?」
剣士『ベルク』は暗殺者『クロウ』に戻る。
彼にとってはこれが本来、本質、正しい在り方であった。
剣士風のいかつい青年などは仮初に過ぎない。
今の彼は闇夜に溶け込み、夜から零れ落ちた者を討ち取る暗殺者であった。
「ふふ、頼もしい限りですね。まあ、貴方位の腕利きならそうだとは思いましたが」
フィアーは妖艶に微笑む。とても十五とは思えぬ大人びた表情であった。
訓練されていない男なら、一瞬で呑み込まれるほどのチャームである。
「まずは貴方の取り分を渡しておきます。そんなに重い仕事でもなかったのですが、クライアントが意外と沢山報酬をくれたのですよ、嬉しいでしょう?」
喜びなさい、と、バスケットにしまいこんでいた金袋を取り出し、投げ渡す。
ずしり、と重い金貨の感触。
確かに仕事の難易度の割には多いな、と、クロウは無表情ながら考える。
「沈黙の代金という事か」
「そうですね。まあ、私達が情報を他言する事なんてないはずなんですけど。私達のルールを知らない人から見ればそうは思えないようですね」
暗殺者は自分の仕事に関する情報を決して他者には漏らさない。
これはギルドの血の掟とも言える鉄則のはずだが、依頼者でもそうと知らないと薄汚い殺人者集団のように思い込んでいる事も少なからずあった。
だから、金を渡して安堵したいのだ、依頼者自身が。
「ギルドとしては余計な取り分は要らないのですが。まあ、今回はその分上乗せしたという事です」
「なら有難く貰っておこう」
どうせこれを餌に他の面倒な仕事を寄越すつもりなのだろうが、と思いながらも、金袋を近くの棚の上に置いた。
「豪商トーマスは、怒らせてはいけない相手を怒らせたのです」
クロウが金を受け取ったのを確認すると、フィアーは謳うように『仕事』の内訳話を語り始めた。
「商人ギルド、その主宰たるマドリス商会のカルテルを破壊し、その利益を我が物にしようと画策してしまったんですよ彼は。怖いもの知らずというか、向こう見ずというか」
「マドリス商会に喧嘩を売って生きていた者はいない」
「その通り。国が相手でも相手の国を滅ぼすと言われるほどの大陸一の大商人ですからね。一介の豪商程度では相手にもならないのです」
当然と言えば当然の結末だった。商人の世界は厳しい。
ともすれば暗殺者の世界よりも厳格であり、明確なヒエラルキーが存在し、暗黙のルールも多い。
そしてこれを破る者には時として死よりも苦しい地獄を味わわせるのも商人の恐ろしさである。
そう考えるなら、妨害をした相手を死なせてやったマドリス商会は優しいとすら思えた。
「だが腑に落ちないな。マドリス商会ほどの大商なら、わざわざうちのギルドを通さずともトーマスを消す方法などあると思うが」
気になる点と言えばそこであった。
わざわざ金を払ってまで信用の無い他者を雇わずとも、自らの手で社会的にも物理的にも消せる力を依頼者は持っている。
それをせずになんでまた、という疑問が涌いてしまうのも無理はなかろう。
だが、フィアーは静かに微笑み首を横に振る。
「マドリス商会は、『自分達が手を汚さずとも邪魔者を葬れる』というのを世に示したかったのよ。今回の事で、マドリス商会の邪魔をした商人が一人、殺された。それが広まれば良いと思っているの」
「そんな事をすれば世間の眼はマドリス商会に向くはずだろう」
「でも、証拠は出ない。あくまで『何者かに殺された』という事実のみが残るわ。貴方がヘマをしていなければ、だけどね」
大丈夫でしょう? とフィアーは妖しく見つめる。
無論のこと、クロウもそれに頷くのだが。フィアーは構わずに説明を続ける。
「誰もが思うでしょう。『マドリス商会に歯向かうとこうなる』と。そして、それを知らない人にもマドリス商会の名を印象付ける事になる」
「悪名でも名声、という事か」
「今回の事件、彼らは宣伝としても使いたかったのでしょうね。事件にしないような形で殺す事もできたのに、わざわざ殺人事件としてわかるような手口でやって欲しいという依頼だったし」
なんとも商魂逞しい。クロウは思わず苦笑してしまった。
やはり、商人は恐ろしいな、と。
「まあ、今回の依頼の内訳はこんな感じです。納得できまして?」
「ああ、納得がいった。無論、他言はしないさ」
毎度、依頼の完了時にはこうして仕立て屋による依頼の内訳説明がされ、クロウのような実行者『職人』はそれを承諾し、沈黙を誓う事となっている。
そうすることで、組織は彼ら職人を、捨て駒ではなく、組織の身内として認識させるのだ。
「よろしい。では、次の仕事までの間、気を抜かず過ごすように――」
フィアーがベッドから立ち上がる。
そのまま、クロウの方を見ずに入り口のドアへ。
そして、ドアから出た瞬間、くるりと向き直る。
「――それじゃあお兄さん、また来ますねっ♪」
甲斐甲斐しく訪れる恋人のように可愛らしく微笑んで、フィアーもといエリーは去っていった。