「・・だからー、すぐ死ぬってわけじゃないんだし、まずは、お薬とかで治療していきましょう、って先生に言われなかった?」
と、「姉」は、赤く泣きはらした目で、笑いながら「僕」を見て言った。
・・ショックで気が動転していた「僕」は、説明してくれていた医師の言葉をロクに聞かずに判断してしまったらしい。
今の「特発性拡張型心筋症」の状態の「姉」さんは、すぐに「死ぬ」わけではないらしい。
「それに、特定疾患で医療費補助とか、しょうがいねんきん?もあるらしいし・・それに、マサトの大学にも奨学金制度がある、とか前に言ってたじゃない?」
いつもの前向きな「姉」の姿が、そこにはあった。
「・・私も頑張るから・・だから、マサトも頑張ってくれる?」
上目遣いで「僕」を見つめる「姉」・・・
・・最愛の「姉」の「お願い」を「僕」が断れないことを知っているくせに・・・
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そんなことがあり、「僕」は、医学部へ進み、様々な苦労や努力を積み重ね、また貴重な友人たちにも囲まれ、数年後、遂に『医師』になることができた。
無論、「僕」自身の努力だけでは困難だっただろう。
「姉」の支えもあり、また多くの人達からの支援を受けてたどり着いたのだ。
・・28歳になった「僕」は、様々な外科修行を経て、「心臓外科医」としてキャリアスタートするが・・最愛の「姉」の状態は、悪化し続けていた。
安静時にも、体のだるさ・息切れ・動悸・むくみ・横になると息苦しい・せきやたんが増え、夜間の呼吸困難動悸、呼吸困難などの症状を起こしていた。
・・ベータ遮断薬、アンジオテンシン変換阻害薬、延命効果や併用療法、十分な薬物、非薬物治療を行っても心不全を繰り返す状態で・・
ついには、「補助人工心臓」を装着、「移植待機者」として入院生活を続け・・荒れていった・・
・・医者や看護婦にも当たり散らし、果ては自分自身まで傷つけていた。
「姉さん・・」
「僕」は、呼びかけた。
呼びかけはしたが、次の言葉が見つけられない。
「・・一人に、して・・・」
感情の完全に抜け落ちた言葉だった。
以前は、「姉」の友達がお見舞いに来て、あれこれ励ましたこともあったけど、どんな言葉も「姉」には届かなかった。
ベッドに横になり、本当に何もせず、寝ているだけで1日を過ごすようになったのだ。
・・・「姉」は、抜け殻になってしまった。
「僕」が「医者になる」夢を叶えた時は、「お父さんお母さんに自慢できるわ!」
と本当に喜んでくれた。
「僕」も思わず「姉」を抱きしめ、喜んだ。
後になって、お互い恥ずかしいと思ったけれど・・・
・・だけれど、その喜びも、ずっとは続かなかった・・
「僕」が「姉」を治すのは、そう簡単ではなかったからだ・・現実は、そう甘くなかったのだ・・
・・「夢」を、「目標」を達した「姉」は、どんどん生きる希望を失ってしまったのだ。
「もう、いつでもお父さんお母さんが迎えに来てくれてもいいんだけど」
そんな言葉も吐く様になってしまった。
ドナーが現れないまま月日は流れ、もう、二度と「姉」の笑顔を見ることは無いんだろうか。
このまま、死んでしまうしかないんだろうか。
「医者」になれば「大事な人を救える」・・
「僕」は、無力な自分を呪うしかなかった・・
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「僕」が、32歳の時、「姉」は、脳梗塞など重度の合併症を起こしてしまった。
・・「今」よりも埋込型補助人工心臓(VAD)の性能が劣っていたこともあるだろう・・
・・もう、走ることはおろか、歩くことさえ自分では満足にできなくなってしまった・・
携帯のメールすら、満足に使うことができなくなってしまった。
絶望のまま、死んでしまうしかないのか。
・・・「僕」は、ある「決心」をした。
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「姉さん・・・バチスタ手術を受けてみないか?」
「僕」は、そう唐突に「姉」に告げた。
・・「僕」の方に背を向けていた「姉」が、聞きなれない言葉を聞いて、向きかえってくれた。
「僕」は、説明を続ける。
「バチスタ手術は、伸びきって収縮力の衰えた心臓の一部をメスで切り取って縫い合わせる手術なんだ」
「難しい手術だけど、成功すれば、心臓の機能が回復する可能性があるんだ」
そう言った「僕」は「姉」の返答を静かに待った・・
「・・今さら、こんな私に、まだ生きろって言うの・・」
久しぶりに聞いた「姉」の声は、全てを諦めた病人の声だった。
「・・成功しても・・もう、私は走ることも、歩くこともできないのに」
もう何もかも疲れた・・そう、「姉」は、伝えてくる。
・・「僕」は、おもむろにポケットを探り、白いビロードの小箱を取り出す。
「もしも、手術が成功したら・・・」
「僕」は小箱を開け、中の「煌めく石を埋めた銀色のリング」を見せる。
「俺と、結婚してほしい」
「僕」は、「僕」の心のまま、正直に「姉」に伝えた。
「・・・はぁっ!?・・」
「姉」から驚きに満ちた声が上がる。
今までにない、感情を含んだ声、生きてる人間の声だ。
「マサト、アンタ、何、じょうだん・・・!?」
思わず「姉」が「僕」の目を見て、言葉をつまらす。
そこに何の迷いもない、真剣な瞳があったからだ。
「なっ・・アンタ、ちゃんと考えて言ってるの?」
「姉」が当惑した声を出した。
「・・僕が嘘をついているのか、どうか、姉さんにはわかるんだろう?」
「僕」はそう答えた。
「・・アンタ、わかってるの?、実の姉弟なんだよ?」
「姉」の言葉は冷たかった。
・・ふたりっきり、血がつながった、お互いにとても大切な、最愛の姉弟・・
だからこそ、お互いの気持ちがわかり、嘘も本当の気持ちもわかる・・
両親が生きていたら、そうならなかったかも知れない。
「姉」が「僕」が、少しでも違っていたなら、そうならなかったかも知れない。
「・・姉さんは、昔、こう言ったよね?マサトは、自分を犠牲にしなくていいって」
「僕」は思い出して告げる。
「だから、僕は僕を犠牲にしない。僕は我慢しない。僕は僕の心のままに、姉さんに好きだと伝えてるんだ」
「僕」は強い気持ちを込めて「姉」に宣言した。
「僕は、これを犠牲とは思わない。僕は、僕の信念をもって、姉さんに伝えているんだ」
「僕は姉さんを愛している」
「僕」は言い切った。
・・・両親が死んだ時も泣かずに、僕を支えてくれた「姉」。
自分を犠牲にしても、僕の為に全力で支えてくれた「姉」。
・・いつの間にか、「姉」の存在は、「僕」の中で「別の存在」になっていたらしい・・
「!?」
言葉に詰まった「姉」の頬が、みるみる上気していく。
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・・・・いつか、「姉」が告白されている状況に遭遇したことがある。
「私の恋人は、弟だよ」
いつも明るい「姉」は、おどけることなく、そう真剣に相手に返答していた。
「姉」が元気な時、明るく人気者で告白されることも多かったが、恋人を一人も作らなかった。
その時、「僕」は、見つからないように隠れていたけど、「姉」には直ぐに見つかってしまった。
「姉」は、おどけて
「なぁーに?おねぇちゃん、付き合ってもよかった~?」
と「僕」の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「・・・やだ・・・」
「僕」は、憮然と返答するだけだった。
・・・「姉」の腕を引き離すことはしなかった・・・・
「姉」は、一瞬驚いた顔をしたが、次の瞬間には、すごく嬉しそうな表情で、
「ふぅ~ん、そうか、そうか~」
と満足そうな声を出して、「僕」の腕にしがみついたことを思い出す。
(その時の気持ちと、胸の鼓動を覚えている・・・姉さんの顔の表情も・・・)
・・その時は、ただ大事な「姉」が取られてしまうのが、嫌なだけだったかも知れない・・
だけど、それが「何か」わからないまま、年月と共にどんどん気持ちだけが募っていった・・
・・「僕」も、その・・今まで、何人かに告白されることがあったが、付き合うことはなかった・・
「僕の恋人は、姉さんだよ」
そう返答すれば、どうなるか予想ができた。
・・世間一般では認められず、拒否され、侮蔑され、拒絶され、理解されることは無いだろう・・
(だけど、この人には否定されたくない)
そう思って、今まで押し黙っていた・・・気持ちにフタをして過ごしてきた・・・
だけど、今、「姉」に、もうどれだけ時間が残されているのか分からないが、そう遠くないうちに別れがやってくる。
・・様々な思いに葛藤しながら、「僕」は、「姉」に想いを伝えることを決めたのだった。
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・・「姉」の顔に、めまぐるしく感情が動くのが見えた。困惑、葛藤、不安、恐怖、そして・・・
「・・・本気で言ってるんだよね・・・」
覚悟が決まったのか、「姉」が、大きく息を吸い込み、吐き出すと、真っすぐ「僕」を見据えた。
「・・・マサトが夢を叶えて、医者になって・・・もうこれで死んでいいやって気持ちだったんだ・・・これでやるべきことはやった、思い残すことはないって・・・ホント、そう思ってたんだから」
「姉」の声は、だんだん震えているようだった。
「・・なぁんで・・そんなこと・・言うかなぁ・・」
「姉」の目に大粒の涙が生まれ・・・
「・・死にたくない・・もっと、生きていたい・・って、思っちゃうじゃなぃ・・」
そして、こぼれ落ちていった・・・・
・・たった、ふたりの姉弟だから、「僕」には、その涙の意味もわかる・・
・・・・・・気付けば、「僕」は、「姉」を抱きしめていた。
最初は、抱きしめられて、ビクッと身体を固くした「姉」だが、次第に力を抜くと、逆に「僕」の腰に手をまわし、抱きしめてきた。
お互い何も言わなかったが、互いの体温が、心地よかった。
しばらくすると、「姉」の方から手を放して、「僕」と「姉」は、別れた。
「・・手術を受けたら・・もっと、生きていられるの?」
「姉」が「生きる希望」を口にする。
「・・難しい手術で、姉さんの体力も耐えられるかどうか、わからないけど可能性はある・・」
そう「僕」は、「医者」としての判断を伝える。
「・・絶対に大丈夫だ、っては・・言ってくれないよね?」
「姉」は不安そうな表情を見せたが・・・
「・・・わかった・・・その前に・・・それ、見せてくれる?」
「姉」は、「僕」が持っている白いビロードの小箱を指さす。
「僕」は、黙って小箱を「姉」に渡した。
「姉」は、小箱を開けると、中の二つの指輪を観察し始め、「取ってもいい?」と聞くので、「僕」は、「どうぞ」、と答えた。
「姉」は、ふたつの指輪を手に取り、しげしげと見比べると「キレイ」、ぽつりつぶやいた。
生気のある、うっとりとした恍惚な表情、その瞳は、その輝きよりもキレイだと、「僕」の目には映った。
「・・じゃあ、私も頑張らないとね」
久しぶりに「姉」は「僕」に笑顔を見せてくれた。
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手術に同意しても、直ぐに始められる訳じゃない。
「当時」の日本では、バチスタ手術は数例しかなく、「姉」は、「僕」の「恩師」でもある、著名な心臓外科医のいる病院に移された。
優れた専門のチームをもってしても「姉」の症例は、難しい条件であった。
・・本当は、自分が「姉」を手術したかった・・自分の手で「姉」を救いたかった・・
「姉」は、少しでも手術の成功率を上げるべく、寝たきりだった身体を懸命にリハビリし、体力をつけるよう努力していった。
昔の「姉」のように明るく振る舞っていた。
「正直、不安もある・・・けど、それより、今、もっと生きたいって、思ってる。きっと、生きれば生きるほど、そう思う・・・だから、その為なら頑張れる」
辛いだろうけど「姉」は、そう答えた。
「・・・本当は、マサトに手術してほしい・・・でも、マサトも自分が手術するより、少しでも成功率が上がるなら、って考えて、この病院の先生に頼んだんだよね?」
「姉」には「僕」の考え、想いが言葉にせずとも通じているようだった。
「・・あの返事は、手術が終わったら、必ず、するから」
「姉」の左手の薬指には、何もついていなかった。
「僕」も「姉」も、それに関わる多くの人たちが「希望」を信じて全力で向かっていった。
・・・けれど、現実は、都合のいい「奇跡」ばかり起こるはずもない。
運命は、「姉」に残酷だった。
「姉」は、再び目を開けることはなかった。