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第8話(最終話)

 川下では小島がジープの中を探っていた。どうやら人為的に川底に落とされたようだと判断する。だとするとやつは危険にさらされているのだろう、とも。

 瑠奈は岩に腰かけて、のんきにⅰPodを聴いている。彼女の身なりや気質からは程遠い、バッハのミサ曲だった。なぜだろう?ロックよりパンクよりヒップホップより心が躍る。特に最期の審判を描 いた「怒りの日」が好きだ。自分もいつか裁かれる日が来るのだろうか…。そんなことを考えていたら、川上から不審物が流れてくるのが見えた。

 共鳴した。

 瑠奈はイヤホンを引きちぎって岩場を駆け出した。

 バシャバシャという撥ね音がして小島も気づく。瑠奈を追う。

 水の中を走っていき、流れる航平の足を必死で引っ張った。

「ターリー。ターリー!」

 腹の半分は裂けている。流れ切ったのか出血はない。

「ターリー!やだ、死んじゃやだ!」

 俺を、あたしを裁く者が消えてしまう。困る。寂しい。悲しい。辛い。

 さまざまな思いが瑠奈を襲う。

 追いついた小島が、一緒になって航平の体を引き留めた。

「アンマー、助けて。とうちゃんが…」

 瑠奈は幼児退行したようにわんわん泣き出した。

 小島の目には、すでにこの世にないはずの航平が一瞬薄目を開いたように見えた。


 あぁ。瑠奈がいる。その向こうにいるのは陽海か?さっきまで俺はゲームに夢中で、こいつらのことを一瞬たりとも思い出したりはしなかったのにな。

 当時住んでいた青物横丁あたりの産科医院だった。俺は分娩室前の廊下をうろうろしている。

(半年も雲隠れしてたかと思ったら、ガキを産むだと?父親が誰かもわからねえってのにか)

 俺はある考えに捉われて、立ち止まる。

(父親?まさか…)

 最悪から二番目のケースはうちの組長だ。何度も陽海を抱いている。だが、もっと最悪なケースは…。

 分娩室から産声がした。その途端に全てがほどけた。

(誰でもいい。俺の家族だ)

 自分にこんな感情があったのか、と思うくらい嬉々として分娩室に飛び込んだ。ああ、あの瞬間。キラキラした光が見えた。

 俺たちみたいなもんにだって、他とは違うかもしれねえが、色も輪郭もない、「未来」ってやつがあるんじゃないか、って…そんな気がしたんだ。


 川面がキラキラ輝いていた。ガイドブックには一切載らないただ水が流れているだけの、だからこそ不純物のないその場所で瑠奈は懺悔する。

(あたしは、汚いカネで育った。汚い倫理観で生きてしまった。あたしは後ろめたさを全部、あんたのせいにした。ごめん。許して。ターリー)

 ああ、俺が全部ひっかぶってやる。それこそ、俺が望んでいたことだからな‥全てを肯定するかのように目を閉じて、男はようやく救われた。


 難を逃れた信也は山小屋の洗面所で息も絶え絶えに、顔面の血を洗い落とした。

(何が、死にたがっている、だ)   

 出血はまだ止まらないが、応急処置をするだけの道具も薬もここにはない。それに至急やるべきことがあった。バスタオルで顔を抑え、パソコンに向かい為替トレード画面を開いた。豪州ドルを円に換金する。71億7308万円で精算された。

 携帯電話のボタンを押した。


 荻原は邸の庭園で子犬のティアラと戯れていた。真紀が固定電話の子機を持ってきた。

「あなた。武田って人からよ」

「おお」

 老人は孫からの電話のように喜んだ。

「やっぱり、おめえが勝ったか。そんな気がしたぜ。比嘉は下げ相場だったからな」

―約束どおり、全て水に流して俺を社長にしてくれますよね。

「賭場じゃよ、テラ銭持って来る奴はヤクザだろうが、それ以下だろうがウェルカムよ。で?」

―七十億あります。

「俺の個人口座に入れとけ」

―え、それじゃあ運転資金が…。

 荻原が鬼の形相に変わった。

「甘ったれんじゃねえ!てめえのしたこと考えてみろ」


 山小屋では信也が携帯を握り締めている。

―いつ刺されても不思議じゃねえ。そうは思わねえかい?俺なら怖くて眠れねえや、なあ?

 穏健な脅迫に黙り込む。そう言えば自分は比嘉航平のような経済ヤクザしか知らない。武闘派と呼ばれる連中なら、すでに自分を狙っているのではないか。思わず身を竦め背後を確かめる。

―それと、社長は穂高さんにやってもらうから、運転資金の心配なんざするこたねえ。おめえは今までどおり、銀行に籍を置いて生活しろ。いいな。

「…はい」

 なぜか素直に返事をしてしまった。弱っているせいなのか、荻原の気迫のせいなのかはわからない。

―これからもしっかり頼むぞ。期待してるぜ、信也。

 信也は、切れた携帯電話と血まみれのタオルを壁に投げつけた。

 荻原は携帯電話でネットバンキングのサイトを開く。

「当座467の…と。七十億がこんな玩具で右から左かよ、全くすげえ時代だな」

 若い者が頭を下げながら進言する。

「会長。小島さんの方はどうします?」

 荻原は携帯をいじったまま言った。

「カタギほどこええもんはねえ。しばらく張り付かせとけ。頃合いは現場に任せる。そう、小島に伝えろ」

 指示を受けた若い者は一礼して去りかけたが「おい、ちょっと待て!ハンカド数字ってなんだ?」と、また呼び戻される。荻原の携帯のディスプレイには「半角数字で入力してください」の表示があった。


 やんばるの道を4WDを駆って、地域診療所へ向かった。右手でハンドル、左手はタオルで顔を抑えている。俺は死にたがってなんかいない。一刻も早く治療しなければならない。ふと、もうひとつの火急の用に思い当る。

(…そうだ。かあさん)

 診療所が見えてきた。

(たしか…あのひとを…助けなきゃいけないんじゃないか?)

 車を停める。比嘉が、看護師がどうとか言っていたような気がする。車を降りて、ふらつきながら診療所に向かう。

(すぐにあそこから退院させて…ああ違う、その前に看護士…看護士を、どうするんだっけ?)

 俺は自分のこと以外を考えるのが苦手だ、とつくづく思う。なんとか診療所の前に辿り着く。そのことに安心して、膝から崩れ落ちていく。

(ま、いっか)

 だいたい俺に家族なんていたっけ?信也は診療所の玄関先で失神した。


 武田皆子は十二年経った今も精神科病棟の個室にいる。ある時期病状は回復したのだが、無理を言って置いてもらっている。家になど帰りたくなかったからだ。病院側も比嘉とかいう人物の了解を得て同意してくれた。どうやら彼は、毎月過分な額の入院費を払ってくれているようだ。

 ベッドの上で編み物をする皆子のそばには、看護学校を出たばかりの優しそうな女性看護師が見守ってくれている。窓からそよ風が入ってきた。

「皆子さん。寒くないです?閉めましょうか?」

 そう言われて、患者は穏やかな表情で首を振る。

「好きなの…海風」

 そして編み物を続けた。皆子はいつからか、この娘こそが自分の家族なのではないかと思い始めている。何も起きないこの生活に、彼女はしあわせを感じていた。


 沖縄のビーチらしい青い空と白い雲だ。

 診療所の前で倒れた信也はすぐに応急処置を施され、浦添市にある総合病院で適切な治療を受けた。おかげで今こうして沖に浮かんでぼんやりしていられる。三月下旬、さほど水は冷たくない。頭や顔についた傷に染みることもなかった。ここ数年の緊張から解き放たれ、毎日こうして呆けたように空を見ている。

(はは、ホントだ。くだらねえや)

 誰かに言われた言葉が浮かんだのだ。誰に言われたのかは忘れたが。揺蕩う波に体を揺すられ、胎内にいる浮遊感と安心感を堪能する。わずかに波が強くなったか、仰向けた身体がふっと浮き上がった気がした。

「…て」

 声に出す。右脚にチクリと痛みを感じたからだ。

(クラゲ?)

 この季節にいるわけがない。顔を起こすと、右太股から銛が突き出しているのが見えた。

 血の臭いが鼻をつく。水面が首元まで赤く染まっている。視覚が連れて来たのか、激痛とも鈍痛とも言えぬ感覚がせり上がってきた。それは明らかに、危機感だった。

(俺?いま?ここで?)

 わけがわからずあたりを見回したが、誰もいない。「こっちだ、こっち」と耳許に水中からの声が届く。

「こっち向け。背中からじゃ、後味が悪いからよ」

 信也は体を反転させて水中を覗き見た。そこにはスキューバの器具を装備した人影がある。レギュレーターからは泡が噴き出ているだけだが、確かに言った言葉が聞きとれた。そして声の主は、女なのだと認識した。彼女はいま、水中銃に第二弾を装填している。揺れる視界が現実感を遠ざけている。準備を終えた人影となすすべもない信也のふたりが、水面下で対峙する。

「ゲームはまだ終わってねえぞ」

 ゴーグルの向こうの目と目が合った。どこかであったことがあるような気がした。物言いはあの男に似ている。何者だ?

「お前が殺した男は、あたしがこの海の底に沈めた」

 なぜ、そのことを知っている?この女は、あの男が遣わした亡霊か何かなのか?

「死はいつも隣にいる。その男の口癖だ」

 装填が終ったようだ。慣れた手つきで照準を合わせる。そこでようやく信也は慌てはじめた。逃げなければ。泳げ。が、脚に刺さった銛が行動を限定する。

「辛いよな?しんどいよな?生きるってことはよ。いま、楽にしてやるからな」

 三流アクション映画の台詞だ。

「お前もなれよ…」

 もがいた。人生で一番に。

「海の藻屑によ!」

 発射された第二弾は、きれいに信也の心臓を打ち抜いた。銛で突かれた魚のように、ぱっくりと口が開き海水が体内に流れ込む。動きが止まる。酸素を求めて反転し、大量の血と海水を吐き出した。

(…あ、ああ、きりきり…きた)

 苦悶とも恍惚ともいえない表情が顔を覆いつくす。世界中の海を染めるかのように血液が流れ出した。それを確認してから、狙撃手は悠々と水中を泳ぎ去っていった。


 漁船には小島以下荻原組の構成員たちが乗っている。狙撃手が水中から現れ、船に引き揚げられた。瑠奈はゴーグルを取って息を整えた。達成感などない、ただ虚ろな表情だった。小島は、まだ二十歳になったばかりだという娘をじっと見た。

 あの川で比嘉航平の遺体を抱きしめたあとだ。親の仇を討ちたい、とこの娘は言った。俺は諭した。うちの組長が金の卵を産むガチョウを殺すはずがない、と。娘は言った。じゃあ、あたしが組長の娘だと言ったらどうだ?数年前にDNA検査をして、証明書も持っている。俺はぽかんと口を開けた。娘はさらに続ける。だいたいド素人に賭場を荒らされた挙句、身内のタマを獲られて、この先ヤクザとして睨みが利くのかよ。

 ふたりを引き合わせた。組長・荻原潤蔵は、今まですまなかった、と号泣しながら瑠奈に許しを請うた。組長は最近軽度の認知症になっている。比嘉の小指を詰めさせたとき既に兆候はあった。まともな荻原と常軌を逸した潤蔵が同居している感じだった。とはいえ、親が黒と言えば黒。今回の仕事が決まり、それは上首尾に終わった。あとは身代わりを沖縄県警に出頭させるだけだ。

「安心しろ。お前は組を挙げて守るからよ」

 瑠奈は小島を振り返り、なにそれ?という顔をした。そんなことは全く求めていない。小島を見据えて言った。

「自首する。罰を、受けたい」

 小島の脳に、明確な罰、という謎の言葉がよみがえった。

「馬鹿やろう。それじゃ叔父貴の立場が…」

 横から構成員のひとりが口を出しかけたのを制し、小島が言う。

「わかった。お前は破門だ。好きにしろ」

 組を統率する実質的な最高責任者が許可した。オヤジの扱い方がわかってきている。頃合いを見て報告すれば「ん?いったい何の話だ。娘がどうしたって?」ぐらいで済むだろう。

「小島さん。ありがとう」

 微笑んだ瑠奈を見て、小島ははじめてこの娘の本質を見た気がした。実は、澄んだ心の持ち主なのではなかろうか。だが、そう思ったことが恥ずかしくなり海に目を移す。

「罰を受けたい、か。比嘉航平という男も、ずっとそうだったぜ。あいつにとっちゃ、金儲けすることが罰だったがな」

 瑠奈が無防備に瞳を輝かせ、興味深げに耳を傾ける。比嘉は否定していたが、やはりこの子はあの男の娘なのだと小島は思う。荻原のDNA云々もたぶん小娘なりのハッタリだろう。いつもムカついていたんだ。あの野郎ヤクザのくせに、こんな風に綺麗な眼をしてやがった。

「つくづくヤクザにゃ向かねえ野郎だったなあ。おめえも二度と、こっちに足踏み入れるんじゃねえぞ」

 柄にもねえ。今日はどうかしている。自分を取り戻すかのように毒づいて見せた。

 だが娘はもう視線を外し、波の行方を追っている。

(ターリー。アンマー。ふたりとも、こんなことは望んでなかっただろうな。親不孝な娘で、ごめんな)

 でもこうしないと、あたしの気持ちが収まらなかったんだ。あたしは人生を諦めてない。やり直すためにやったことなんだ。ターリー。あんたはアンマーが死んだときに、引き返すべきだったんだとあたしは思う。

 時折反射する光はクラゲなのかもしれない。いや、きっと違う。季節じゃない。反射光が波に隠れた。瑠奈は、陽に染まる海を飽きもせずに見つめ続けた。


 平成二二年(2010年)。百年に一度の経済危機“リーマンショック”の二年後。株主総会を二週間後に控えたKIZUNA銀行の頭取室では、穂高グループ永世会長と石川頭取ふたりだけの鳩首会談、いや密談がひっそりと行われていた。

 リーマン・ショックはメガバンクにも大きな衝撃を与えた。ひいては金融界全体が資金の確保に追われ、さらなる再編統合を余儀なくされていた。たとえダーティなイメージのつきまとう消費者金融でも、使えるものは使わなければ。もはや、コンプライアンスなどという綺麗ごとは言っていられない。それが、石川を含め各銀行の頭取たちの総意だった。

 ふたりは険しい顔を突き合わせ、メガバンクとノンバンク、お互いの生き残りについて議論した。

「ホイッスラーは、本社の方も既に瀕死状態ですわ。東京も畳むしかおまへんやろな」

 ホイッスラーNYもまた大幅なリストラを敢行し、業務を三分の一にまで縮小したようだ。

「そんなお荷物を、穂高さんは何故今まで?」

 石川が何気なく探りを入れる。

「ま、なんちゅうか成り行きですわ」

 遺志を尊重…私はあの真面目な男を気に入ってましたんや、と言ったところで組織人の長には理解できまい。

「どうでっしゃろ。不良部門は整理しときますんで、KIZUNAはんとの業務提携の件は…」

「もちろん、予定通り進めてまいりましょう。そもそも穂高さんほどの超優良ノンバンクのお誘いを、断るわけがありませんよ」

「ほな、あとのことは新体制に託しておきますよって。よろしうに」

 個人資産一兆円の男が深々と頭を下げた。彼は今回の統合を機に、引退するのだという。過ぎるほどリッチな老後が待っているだろう。羨ましい限りだ。

 この数年ネガティブな報告しかできていなかった総会で、ようやく株主に朗報を伝えられる。これで自分の任期も二三年は延びるだろうか。石川頭取は心底ほっとした。だが退出の際、穂高が気になることを言った。

「頭取。男の子はついつい不良やヤクザもんに憧れてまいますなあ」

「はい?」

「けど奴らは観賞用のクラゲや。見るだけならええが、近づいたら遠慮のう刺してきよる。飼い方を間違えんことですな」

「…」

「私はもう、懲りっ懲りですわ」

 そう言い残して〝ノンバンクの帝王”は頭取室をあとにした。残った石川は、意味を咀嚼しながら自分のデスクに着く。しまった。穂高グループには反社会的勢力が今も寄生している。この統合は旨味ばかりではない。同時に致命的な病原体も押し付けられた、ということなのだ。

 穂高と入れ替わりに女性秘書が入室すると、頭取がひとり眉間に皺を寄せて考え込んでいた。

「どうか、なさいましたか?」

 石川は大きく息を吐いて、苦渋の決断を秘書に伝える。

「総務部を、呼んでくれ」

 これからは彼らと微妙なつきあいをしなければならない、と石川は覚悟した。





 平成二三年(2011年)三月一一日、14時46分


 東北地方太平洋沖に、瞬間マグニチュード9の地震が発生した。地殻の歪みは巨大な津波を巻き起こし、人間の作り上げたものを掠奪し破壊してから、水面下に沈めた。






 「水面下」完




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